後鳥羽天皇を奉祀する

水無瀬忠成/水無瀬神宮宮司
水無瀬宮

今からおよそ八百年以前、鎌倉時代の初期、後鳥羽天皇が離宮を造営され、淀川に近い水無瀬(みなせ)の里に水無瀬殿を設けて、しばしば来遊された。当時は「水無瀬御所」とか「広瀬御所」とよばれていた。

『増鏡』の中に、

水無瀬といふ所に、えもいはず面白き院づくりして、しばしば通ひおはしましつつ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひびかして、遊びをのみぞし給(たもう)。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比(ころ)、詩に歌を合はせられしにも、とりわきてこそは、

見渡せば山もとかすむ水無瀬川
夕は秋となに思ひけん

茅ぶきの廊・渡(わた)殿など はるばると艶(えん)にをかしうせさせ給へり。

とあり、上皇が大層好まれた離宮で、詩歌管絃の催しや、狩猟、蹴鞠(けまり)、囲碁(いご)、相撲そして水泳、刀剣の鍛作も遊ばされた。

後鳥羽天皇は刀剣を大変お好みになられ、各地より刀工を招き月替わりに打たせ、御番鍛冶(かじ)を定めて自らも鍛造遊ばされたと伝わる。これらの太刀には茎(なかご)に菊花の紋が刻まれたので、「菊御作(きくのごさく)」と呼ばれている。又、菊一文字とも呼ばれ、この菊花紋により現在使用されている皇室の菊のご紋章の起源になっている。

尚、当宮では毎月の二十二日の御祭神の縁(ゆか)りの月次祭(つきなみさい)に白菊の献花を奉納し、御霊をお慰さめ申し上げている。

都忘れの菊
いかにしていかにして契りおきけん白菊を
都忘れと名づくるもうし

順徳天皇は承久の変にて佐渡へ遷らせられた後も、こよなく水無瀬の里を愛し、殊の他菊花を好まれた父君後鳥羽天皇を偲び、行在所に咲く可憐(かれん)な野菊を「都忘れの菊」と命名された。佐渡より水無瀬宮に移植した菊が季節になると開花する。

後鳥羽天皇はこの離宮には何度も来遊されたので、後年隠岐に移られてからも、

水無瀬山わがふる里は荒れぬらん
(まがき)は野らと人もかよはで

と詠まれ、いかにこの水無瀬の地をなつかしく想っておら後れたかが拝察せられる。

そして、晩年書き残された御遺詔にもとづき、此の離宮を管理し、ひたすら御還幸の日をお待ち申し上げていた水無瀬信成(のぶしげ)、親成(ちかしげ)父子に下されて、後生の菩提を弔ふべく仰せ下されたのである。

これが後鳥羽天皇宸翰(しんかん)御手印置文で、現在、国宝に指定されている。

隠岐の孤島で在島十九年、六十歳を迎えられた後鳥羽院は、余命も長くないと覚悟せられたか、ご自身の両手に朱肉をつけて押手され、強いご意志を表わし文書の真正を強調するものであった。

此所労さりともさりともと思へども随日大事に成ればおほやう一定と思てある也。日来の奉公不便(ふびん)に存れども、便宜の所領もなきあひだ力不及、於水無瀬、井口両方無相違知行して我後生をも返々とぶらふべし。

との御遺命により、水無瀬神宮として水無瀬家の遠祖が営々としてご奉仕してきた、深い関係有る、重要な欠くべからざる資料であり、現在三十一代目としてご奉仕申し上げている。

尚、文書の末尾に有る「暦仁二年二月九日」は都ではすでに二日前に延応元年と改元されていたが、隠岐にあっては未だ御存知の筈もなかったのである。

水無瀬御影堂

亡くなられてから後、水無瀬殿の跡に御堂を建て、上皇が隠岐に移られる直前、当時似せ絵を描いて有名な藤原信実(のぶざね)を召して、御自分の直衣(のうし)姿を描かされ、ご生母七条院に残された肖像画と、島でみずから水鏡に姿をうつして描かれた御法体の肖像画などを安置して、上皇の菩提をとむらった。これが水無瀬御影堂と称し、明治の初めまで続いた。

上皇の崩御の後、間もなくこの御影堂は水無瀬離宮の跡に建てられ、法華堂とも称され、その後、朝廷、幕府より、修理料、護摩料、祈祷料などの名目で領地の寄進があり、南北朝時代には両朝から行われ、時に天下の太平を祈り、災厄あれば祈祷、そして段銭(たんせん)臨時課役の免除など、事ある毎に行われた。

上皇の御尊霊に対して、為政者から如何に畏敬せられたかが伺える。

約二百五十年後の明応三年(一四九四)には、後土御門天皇は後鳥羽院を追崇して、水無瀬の神の号を奉られた。五十年毎の聖忌には、水無瀬宮御法楽和歌が献ぜられ、その後永く続けられた。また、歌聖と仰がれた後鳥羽院は勅撰和歌集の『新古今和歌集』を編纂
された。

御影堂への奉仕

御影堂の日常のお勤めは社僧が当たり、水無瀬家の当主と共に、北面の武士として古くから仕えた星坂能茂の子孫、星坂家と小泉家の両家も代々祖先の意志を継いで明治初年まで奉仕を続けた。

日誌によると、毎年正月、五月、九月には主上安泰の祈祷を行い、終わると直ちに御擦物(おさすりもの)返上、巻数を御所に献上して祈祷の終ったことを奉告、また三月の節句には桃花に麦膳、赤飯、五月には千巻(ちまき)や菖蒲(しょうぶ)、九月には薄(すすき)、栗飯などを献じて、御生前同様のご奉仕がなされた。

御影堂に対して奉仕の社僧は、近在の寺から数日交代で西殿で読経、護摩の行事などを行い、御影堂への献供、祝詞奏上、祈念などは水無瀬家の当主が奉仕し、明治初年神社になると社僧は廃された。

官幣大社水無瀬神宮

この水無瀬御影堂が、明治六年八月十四日、水無瀬宮となり、官幣中社に列せられ、同時に後鳥羽上皇と共に、その皇子である土御門、順徳両上皇の神霊もお祀りすることになった。明治天皇の御治定によることで、同年十月六日、太政官布告を以て公布された。

そこで三上皇の亡くなられた隠岐、阿波、佐渡から改めて三天皇の神霊を奉還、同年十二月七日、後鳥羽天皇の御鎮座祭が執り行われた。ただし、北海風波高く佐渡からの奉還だけが翌年になったのである。

以来、一般の官社と変わることなく神式を以て祭典が続けられたが、昭和十四年三月一日、後鳥羽天皇七百年式年の年に官幣大社に昇格、神宮と改称された。式年祭はこの年四月四日に、勅使参向のもと盛大に執り行われた。

例祭日は御鎮座になった十二月七日、後鳥羽天皇祭は四月四日、土御門天皇祭は十一月十三日、順徳天皇祭は十月十四日で、いずれも崩御日を明治の初め太陽暦に換算した日である。

尚、後鳥羽天皇祭には裏千家今日庵坐忘斎千宗室家元、土御門天皇祭には官休庵不徹斎千宗守家元、順徳天皇祭には不審庵猶有斎千宗左家元の各氏にご奉仕を賜り、毎年、三千家による献茶祭が執り行われている。

なお順徳天皇が宮中の作法について著された『禁秘御抄』の中に、次の如くあります。

(およ)そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮(たんぼ)敬神の叡慮懈怠(けたい)無し。
白地(あからさま)にも神宮並に内侍所(ないしどころ)の方を御跡と為(し)たまはず。

この「先神事後他事」の御精神、「敬神崇祖」の御念は皇室の伝統でもあります。

今後も微力ながら神明にご奉仕するに際し、私達はこの皇室の御精神を畏(かしこ)み、鑑(かがみ)と仰ぎつつ、日々のご奉仕を忘れる事なく、思いを新たに致すものであります。