『三續父祖の足跡』に見る承久の変

 堀井純二 /日本文化大學名誉教授

今年は承久の変(承久三年=一二二一)より八百年である。読売新聞では、毎週火曜日夕刊の「日本史アップデート」の四月九日号(渡辺嘉久氏執筆)で、承久の変(新聞では「承久の乱」)を取り上げ、「従来説」を、

鎌倉幕府三代将軍実朝暗殺を機に、執権北条義時追討の院宣を発した。事実上の討幕を目指すものだった。

とし、「最新説」を、

実朝暗殺後、執権義時の朝廷への対応を見究め、追討の院宣を発した。討幕ではなく義時排除を目指すものだっ た。

として、見出しに「上皇討幕は目指さず」と大きく記してゐる。

そして本文においては、「この騒乱は、歴史の転換点だった」とし、

政治の主導権が朝廷から武士に移った。以来約六五〇年、明治維新まで武士の優位は続く。にも拘らず「影は薄い」。

とし、その理由を史料の少なさと、院政を存続させた終末の曖昧さにあるとする京都文化博物館の長村祥知学芸員の、

上皇敗北は驚天動地。上皇との関係で罪に問われるのを恐れ、記録の多くが処分されたようだ。天皇・上皇・貴族と武士は対立したが手を組むこともあった。承久の乱は朝廷と幕府が互いの体制を崩壊させようとした戦いではなかった。

との言により、

こうした見方が「上皇は討幕でなく義時排除を狙った」という説の背景にある。

として、源実朝の「山は裂け」の歌を示し、源氏三代と朝廷の関係を「持ちつ持たれつの関係」であつたが北条氏の台頭の中で源氏は滅亡したとし、上皇は「義時はどう出るか」を見るために、摂津国の地頭の免職を求め、義時が拒否するのを見て「義時追討の院宣を発した」が、上皇は幕府軍に敗れ、「三上皇は配流された」とする。

そして後鳥羽上皇について、

上皇は刀や弓の鍛錬にも励む武の人でもあった。その歌からは万能の人ならではの孤独も感じられる。

として終はつてゐる。

この記事の参考とされた書の一つに坂井孝一氏の『承久の乱』(中公新書)がある。この書でも、その「はしがき」において、

後鳥羽が目指したのも執権北条義時の追討であって討幕ではなかった。

と記されてゐる。

承久三年五月十五日に出された宣旨は北条義時追討の宣旨であり、討幕の宣旨ではない。だからといつて、討幕が目的でなかつたと言へるのであらうか。まづ坂井氏の論点を掲げることにしよう。

坂井氏は、後鳥羽上皇が武芸に精進し、また和歌にも精進され、朝廷の儀式についても熱心に取り組まれたことを記してゐる。しかし、その武芸に精進されたことについては、

強靭な肉体に恵まれた後鳥羽は武芸を好み、得意とした。馬に乗り、川を泳ぎ、山野で鹿を追い、笠懸で的をはずした射手の代わりに弓を射ることもあった。いわば何種類もの競技に出場し、総てに好成績をあげる万能選手だったのである。(五六頁)

と記すが、その目的について言及することなく、単に上皇の個人的資質によるものとしてゐるのである。

和歌に関しては、「おどろが下」の御製について、

歌意は、奥山の茨いばらが乱れるように生い茂った下をも踏み分けて、人々に正しき道がある世なのだと知らせよう、である。統治者は徳をもって人民を治めるべきとする儒教の徳治思想に基づき、ストレートに帝王としての気概を表出した歌である。「おどろ」=「荊・荊路」は茨が生い茂った藪のことであるが、公卿の異称でもある。公卿たちを従え、朝廷の政治を正しい方向に導こうとする後鳥羽の意欲を詠んだ歌ともいえる。承久の乱を念頭に、討幕への意志を詠んだとする解釈もあるが、この歌は承元二年(一二〇八)五月注の「住吉歌合」で詠まれ、切継ぎで入集したものである。承久の乱と関係づけるべきではない。(五一頁)

注 「後鳥羽院御集」では承元二年三月とあるが、インターネット上の記述では「三月は五月の誤記」とある。

と述べて、「承久の乱と関係づけるべきではない」と承久の変との関連を一刀両断の下に否定してゐる。この歌が承元二年三月の「住吉歌合」の際に詠まれたものであることは、平泉澄博士も論証してをられることであるが、坂井氏のやうにそれが「切継ぎで入集したもの」との理由で変との関係を否定することはできないであらう。『新古今集』は元久二年(一二〇五)に一応完成したものの、その後、手が入れられ承元四年頃までに今日の形となつたものとされるのであり、この御製が「切継ぎで入集したもの」であることはその通りであるが、それを根拠としてこの御製と変が関係ないとすることはできないのである。

そして坂井氏は宮廷儀式についても、

学問・政治においても後鳥羽は巨人であった。宮廷儀礼の復興を領導したのである。……為政者が宮廷の儀礼を先例通りに手続きを違えることなく執行することこそ政治であった。ところが、保元の乱以降の激動の中で、先例通り儀礼を執行できないことが度重なり、いわば政治の衰退が常態化していた。とはいえ、危機感を覚えるような貴族は少なかった。こうした惰眠を貪る廷臣たちを叩き起こしたのが後鳥羽である。(五七~五八頁)

と述べ、習礼公事竪義(しゅらいとくじりゅうぎ)が繰り返され、

これにより建暦・建保年間に宮廷儀礼が復興したことは想像に難くない。朝廷政治があるべき姿を取り戻したわけである。後鳥羽はこうした経験を『世俗浅深秘抄』という宮廷儀礼の故実書にまとめた。父の影響を受け、自らも内裏で習礼を行った順徳は故実書『禁秘抄』を著わした。(五九頁)

とされてゐる。この時代に「宮廷儀礼が復興し…朝廷政治があるべき姿を取り戻した」ことは事実であるが、氏の記述では、その「あるべき姿」の具体的な姿が見えてこないのである。

坂井氏の書で最も問題となるのは、源実朝の『金槐集』末尾の「太上天皇御書下し預かる時の歌」と題された三首についての説明であらう。坂井氏は、これら三首について、「後鳥羽への思いを強烈に吐露した歌」とし、「巻末三首は『金槐集』の他の歌とは明らかに異質なのである。三首だけで独立している感さえある」と述べられてゐる。その「異質」について、氏は「巻末三首には使用語句や表現形式の点でも特異性がある」として、

六六一歌の初句「大君」、六六二歌の初句・二句の「東の国」はこの歌にしか出てこない。とくに「東の国」は幕府が東国にあったことから当然の語句と捉えがちであるが、歌語として用いられた例がほとんどない。むろん「ふた心」は六六三歌だけである。(八四頁)

と、その歌語が特異であることを指摘されるのである。しかし、実朝は『万葉集』に親しみ、「万葉人に伍し、更に万葉を凌ぐ剛壮なる」(一七三頁)歌を詠んだ人物である。そこに普通には用ゐられない歌語があるとしても、何ら不思議とすることはないのではないか。

坂井氏は巻末の三首を一纏まりの歌としながら、前二首については、引用したやうに、その歌語を問題とするのみで、その歌意については問題とされず、もつぱら「山は裂け」についてのみ問題とされてゐる。すなはち、氏はこの歌と建保元年(一二一三)五月の和田合戦とその月二十一日に鎌倉で起つた地震を関連させ、「危惧した通り、和田合戦の悪影響が京都に及んでいたのである。この上、和田方の残党が侵入して騒乱を起こせば、後鳥羽や順徳に危害が及ばないとも限らない。それは最終的には将軍たる実朝の責任となろう。絶対に避けなくてはならない。…実朝は大地震の強烈な実体験に基づき…必死の思いで「君にふた心」はないと詠んだと考えられよう」(八五~八六頁)とされる。

確かに鎌倉においては、この年五月には二つの大きな事件が勃発したのであり、特に和田方の残党が都に侵入する可能性があつたとしても、それ故に「山は裂け」の歌が詠まれる必然性は存在しない。残党に対しては都の警備を厳重にすればよいのであり、その為の指令も出してゐるのであり、わざわざ「ふたごころ」がないことを表明しなければならないことではない。また仮にこの歌が五月二十一日の地震に関連して詠まれたとしても、歌意は別にあつたとしなければならないであらう。

やはりこの歌は、坂井氏も言はれてゐるやうに「太上天皇御書下し預かる時の歌」として三首を一纏めとして考へるべきである。

さらに承久元年正月二十七日の実朝遭難について、坂井氏は、北条義時は実朝の命により鶴岡八幡宮の中門にて待機してゐたとする『愚管抄』の記述を採用して、公堯の単独説をとられるのである。しかし『愚管抄』の記述は、他に証するものがないのであり、他に肩を並べる者の無い実力者である義時が、「将軍から「中門にトドマレ」と命じられて控えている程度の存在だった」(一〇一頁)はずはないのであり、『愚管抄』の記述を信ずることはできないのである。

そして坂井氏は実朝暗殺後の朝幕関係について、上皇は長江荘・倉橋荘の地頭改補を要求し、「実朝亡き後の幕府が圧力に屈して後鳥羽の意志を受け入れるか否か、後鳥羽が幕府をコントロール下に置くことができるか否かをみきわめ」(一一〇~一一一頁)やうとしたのに対し、幕府は、地頭改補を拒否し、親王の鎌倉下向を求めたとし、これに対し上皇は、

イカニ将来ニ、コノ日本国二ニ分ル事ヲシヲカンゾ(『愚管抄』)

と拒否され、摂関の子弟の下向ならばと妥協され、その結果、一条道家の子である二歳の三寅が将軍予定者として下向したが、幕府は「尼将軍政子のもと義時以下の首脳部が求心力を保ちつつ、自在に幕政を運営できる」(一一五頁)体制が確立したのに対し、京においては源頼茂の謀叛による大内裏焼失といふことがあり、それが「契機となり、後鳥羽は妥協から敵対へと大きく舵を切ったと考える」(一二一頁)とされてゐる。

そして坂井氏は上皇が義時追討に至つた原因は実朝暗殺にあつたのであり、実朝は「東国の王権」構想を持ち、上皇もそれを認めてをられたが、暗殺により、総てが消滅したこととされてゐるのである。だが、実朝が「東国の王権」といふ構想を描いてゐたとは、考へ難いのである。それは「太上天皇御書下し預かる時の歌」の中の

ひんがしの 国にわがをれば 朝日さす
はこやの山の 影となりにき

の歌は、自らの存在が上皇に朝日が当たらなくなつてることを懺悔してゐるものであるところよりして、ありえないことと考へられるのである。

坂井氏は上皇は幕府の存在は認め、ただ義時討伐のみを目的とされたとされる。だが、幕府の中心人物である義時が討伐されることは則ち討幕にならないのであらうか。坂井氏の書の最大の問題点は、此処にあると言つてよいであらう。

これに対して、平泉澄博士の承久の変を扱つた『三続父祖の足跡』はどうであらうか。博士の『三續父祖の足跡』が時事通信社より発行されたのは昭和四十二年七月のことであつた。本書は以下の章立てで記されてゐる。

第一  頼朝の影響(日本人の特性―頼朝の感化―頼朝の影響―頼朝の規制)
第二  行隆の一家(源氏の末路―法然の長短―行隆と行長―信空と宗行)
第三  朝廷の英気(兼光の英気―資朝の豪胆―紅葉をたく―直々の御指揮)
第四  天子の規範(皆以て連璧―世俗浅深秘抄―禁秘抄―日中行事)
第五  先王の違法(足を向けず―寛平の遺誡―道義の時代―国史の研究)
第六  読史の感激(建国の回想―異朝の鑑戒―読史の感激―陽春花盛り)
第七  古今集の権威(漢字の訓読―古今集の名歌―和歌の権威―和歌の分類)
第八  国語の正しい姿(男信(なましな)―祖師の読方―契沖の大功―国語の正濫)
第九  荘園の弊害(逢はばや―荘園の禁止―荘園の増加―国領の減少)
第十  実朝の遭難(珍事出来―不思議の一、二―不思議の三、四、五、六―義時の胸中)
第十 一 実朝の和歌(運命の予感―歌道の精進―詠歌口伝―万葉の古調)
第十 二 山は裂け(金槐集―山は裂け―建保元年―信を腹中に)
第十 三 日本の中興(通説―尊長法印―能登守秀康―西面の武士)
第十 四 宮中の練武(石臥(いしぶし)―御番鍛冶―露は袖に―おどろが下)
第十 五 深刻なる悲劇(拾はば袖に―整理四箇条―鎌倉の急変―大事の切迫)
第十 六 大戦の勃発(光季の討伐―二位尼の演説―両軍相対す―木曽川の戦)
第十 七 木曽川の戦(八重のつつじ―杭瀬川―東軍の本質―忠烈の芳名)
第十 八 勢多・宇治の戦(第二の戦線―攻守の部署―勢多の守強し―宇治の猛攻)
第十 九 官軍の敗退(朝俊の尽忠―官軍の奮戦―人倫の蹂躙―公卿の処分)
第二 十 悲劇の終幕(遠島御遷幸―隠岐の御感懐―愁雲二十年―苦寒二十三年―国の命脈)

本書は第一章を「頼朝の影響」と題して、日本人の特性をフランス人クラッセの『日本西教史』により示し、「日本人全体が、勤倹にして勇武、寡黙にして苦難に堪へ、利益よりも名誉を重んずる気風を養ふ」(一三頁)に至つたのは頼朝によると記される。そして第二章では源氏の滅亡を述べ、『平家物語』冒頭の一文は「平家に対してのみならず、源氏をも含めて…交替興亡した約六十年間の論賛」(二七頁)であり、かかる諸行無常の世の救者としての法然について、その長所短所を記し、法然の弟子である信空の父(行隆)と兄弟に筆を走らせ、次弟(行長)は『平家物語』の著者であり、末弟(宗行)は承久の変において処刑された人物であるとし、彼の養家にも筆を走らせる。ここにおいて漸く本書と承久の変が関係することになるのである。

第三章においては、後鳥羽天皇時代の名検非違使別当藤原兼光と、その子孫の日野資朝について述べ、当時、朝廷には人材が多く、英気が盛んであつたとし、それは後鳥羽天皇より発したものとされる。

そして第四章において、野宮定基(ののみやさだもと)により、『世俗浅深秘抄』が後鳥羽天皇の著作であることが明らかにされたことを述べ、同書は朝廷の行事作法について「先王の遺風を傳へ、正しい伝統を追ふものであるか、それともいつのまにか脇道へそれ、その形くづれ、その精神失はれたものであるか、一々之を点検して、きびしい批判を下されたもの」(五六頁)であり、それは「今の世の乱れを憂ひ、正しい古制の復活につとめさせ給うた事」(五九頁)によるとされ、次いで、順徳天皇の『禁秘抄』の「賢所」の条について説明し、さらに「恒例毎日の次第」条に言及すると共に、後醍醐天皇の『日中行事』について述べ、天皇の日常が「世にも稀なる神明奉仕の生活」(六四頁)であることを述べられる。

その順徳天皇の『禁秘抄』は宮中の行事典礼について、先王の遺訓に照らし、先賢の旧記を参照して記されてゐるのであるが、その遺訓とは宇多・醍醐・村上天皇の日記や寛平の御遺誡であるところから、第五章では宇多・醍醐・村上天皇の時代が理想的な盛時と考へられた理由を説明し、第六章においては奈良時代から延喜天暦時代までの二百数十年間は国史の編纂が継続されるとともに、『日本書紀』の講読が続けられたことが述べられる。さらに上代官吏の子弟は、その青年時代にはシナの歴史を学び、国家興亡の原理を教へられたのであり、「国史の研究は、人々に祖国の光栄を仰ぎ、父祖の労苦に感謝」(九一頁)せしめた。だが、それより二百数十年後には、それらの「制度は崩れ、威厳は落ちた」とし「『日本再興』の至念は、起らざるを得ない」(九五頁)と説かれる。

そしてその延喜の御代に編纂されたのが『古今和歌集』であり、それは「美しく上品な国語の標準を示し」たのであり、以後「一千年の間、人々に尊重せられ愛唱せられた」(一一二頁)ことを第七章において述べ、第八章において国語の正しい姿が認識されるやうにな
つたのは江戸時代の義門や契沖によることを述べ、その正しい国語は平安初期に生れたとし「それを生んだ平安の盛世、それを後鳥羽上皇や順徳天皇が思慕せられ、その昔にかへさうとされるのは、当然といはねばならぬ」(一二八頁)とされる。第九章においては、本居宣長が『古今和歌集』などにより国語の正調を明らかにしようとしたことを述べ、平安中期以降の荘園の乱立について述べ、皇国の中興を目指すならば荘園の整理が不可欠であることを指摘される。

以上は承久の変勃発の遠因とも称してよいことを述べられたのであるが、第十章からは直接、変に繋がる事柄の叙述に入つていく。すなはち第十章では、実朝の殺害について、種々の疑問点を挙げ、さらに北条義時の胸中を推察して、実朝を廃した方が「北条の権力維持」(一五七頁)に都合がよいと考へてゐたらうとする。続いて第十一章においては、実朝の和歌への精進について記し、彼の歌は「万葉人に伍し、更に万葉を凌ぐ豪壮なる所があると云ってよい」(一七三頁)とする。第十二章においては『金槐集』に載せられた歌を解説し、その中の「太上天皇御書下し預かる時の歌」について、これは後鳥羽上皇より実朝に、「日本中興、王政復古、従つて幕府廃止の御計画を、単刀直入、直ちに当の将軍その人に示され」(一八六頁)、実朝がそれに対する感慨を詠んだものであるとの新説を提示された。

そして第十三章においては、事変の原因を亀菊の所領問題とする通説を批判し、変の首謀者と見做された尊長法印を事務とする最勝四天王院は承元元年(一二〇七)には既に建立されてをり、実朝の殺害により破壊されたことを述べ、次いで事変の時の指揮官としては承元元年頃より上皇の信任を得た藤原秀康であつたらうことを推定し、さらにその武力の基礎となる西面の武士は建永元年(一二〇六)以前に設置されてをり、また公卿に対する水練など勇武の気象が漲つてゐたことを述べる。続いて第十四章では、宮中では笠懸や馬術が盛んに行はれた他、上皇御自ら刀を鍛へられ、また相撲も行はれるなど、武術に余念がなかつたとされながら、文の面は宮中においては素より活発であつたとして、上皇の歌道について述べ、「奥山の」の御製に及び、この御製は「日本の道義再興の御意志を述べせ給うたもの」(二一六頁)と説き、その御作歌の時期を承元二年三月であることを明らかにし、「幕府討伐の御計画は、亀菊所領の問題より起り、わづか二三年の準備を以て軽々しく事を起こされたといふ彼(あ)の俗説は、おのづから崩れ去らざるを得ぬ」(二一八頁)とされてゐる。

第十五章では、従前の記述を四箇条に整理し、実朝の暗殺は北条義時が裏で工作したものであることをその後の周到さから証明される。

第十六章からは、承久の変の次第についての叙述である。すなはち第十六章では、承久三年五月十四日西園寺公経父子を監禁し、翌十五日、伊賀光季の討伐から始まつたことと、鎌倉では二位の尼政子の演説により、交戦と決し、十九万の大軍で出陣となつたことを述べ、両軍木曽川で対峙したが、大井戸の守りから崩れ、官軍が敗退した中での山田重忠の奮戦について述べる。

第十七章では、『沙石集』に見える山田重忠に関する杭瀬川の逸話から、「亡き母に対する孝心の深さも之で分れば、……領民に対する慈愛の態度も之で知られる」(二五五頁)とし、木曽川の戦ひで奮戦した人々に美濃・尾張の人々が多かつたことを記し、対して東軍の
本質は、武田・小笠原に見られるやうに、首鼠両端を持す「不忠不孝」(二五九頁)の集団であつたとしてゐる。

第十八章は勢多・宇治の戦ひの描写であり、それぞれ詳細であるが、殊に宇治の戦ひについては、詳細を極め、恰も目の当たりに見てゐるがごとくに活写されてゐる。しかし戦ひは、勢多では北条時房、休戦を命ぜざるを得なくなつたが、宇治は東軍多大の損害を受けながらも渡河に成功し、官軍終に崩れ去つたとする。だが、第十九章においては、『増鏡』のやうに「いくばくのたたかひだに無くて、遂に御方のいくさ敗れぬ」とするのは「事実にもかなはず、論じて公平でも無い」(二八一頁)として、藤原朝俊を始めとする官軍の奮戦を述べ、東軍の死傷者の多かつたことを述べ、官軍の構成が全国的であつたとする。

次いで戦ひ敗れた官軍の人々、将士の最後と処分について記し、三浦胤義の幼児四人の殺害、北条泰時が後藤基清を子供の基綱に斬らせ、佐々木広綱を弟の信綱に斬らせると共に、その子勢多伽丸の命を一度は助けながら、信綱の要請を受けて信綱に引き渡し殺害せしめたことなど、その処分が人倫を蹂躙したものであつたことを記し、さらに公卿に対しては、「主謀者は京都に於いて処分するを憚り、地方へ護送して之を斬」(二九四頁)ると共に追放者十数名に及んだことが述べられる。

第二十章では、皇室に対する処分の苛酷であつたことが記される。すなはち後鳥羽上皇の鳥羽殿への移居と出家、仲恭天皇の退位と後堀河天皇の即位、さらに後鳥羽上皇の隠岐遷幸・順徳上皇の佐渡遷幸、土御門上皇の土佐遷幸について述べる。

続けて後鳥羽上皇の隠岐における御生活のさまを御製で示し、「幾年かの後には再び都へ帰り給ふ事を、希望し期待し給うた」が、「北条泰時の心は、石の如くつめたく、決意は鉄の如くに固い。上皇御三方、御生前に御帰京遊ばされる事は、遂に不可能であった」(三〇三頁)として、後鳥羽上皇の崩御時の様子と上皇に奉仕した星坂家と水無瀬家に言及され、さらに都に帰る望みのなくなつた順徳上皇の最後の様子を記し、最後の「国の命脈」において、人倫を無視した人々は一時的には栄華を極めたが、北条義時は「近く召使ふ若侍に殺され、その子時実も亦、十六歳にして家人に殺害された」ことを記し「因果は覿面(てきめん)
といはねばならぬ」とされ、鏡久綱や山田重忠を始めとする尽忠の勇士や殉道の公卿、また遠島にお供した人々は、「その官位あるひは低く、その姓名ひろく知られず、いはば戦場に散ってはかなく、辺土に埋れて跡さびしかったであらう。しかも人倫を明かにし、道義を守り、日本国の柱となって、その価値を向上し、その命脈を維持するもの、それは実に是等殉道の人々であったのだ」(三一〇頁)と述べられる。

同書は最後に次の一文で以て擱筆されてゐる。

以上、承久の大変の始終を叙述した。それは従来一般に考へられてゐた如き、無意味なる衝突ではなくして、国体の根本より発する雄大なる理想に招かれ、長い長い年月と全国にわたる準備の後に、旗を上げられたものであり、戦は激烈であり、処分は苛酷を極め、結局は深刻なる悲劇に終った。待て終ったと云ふか。果たして終ったと云ってよいか。若し此のままにして終るならば、日本はもはや日本では無いであらう。事実は、日本中興の大計画、隠岐と佐渡との悲劇に激発せられて、是より敢為鉄血の熱情を帯び、やがて百年の後に建武の中興となり、六百五十年の後に明治維新を誘導し来るのである。

以上、平泉澄博士著『三続父祖の足跡』の概要を述べてきたが、博士の承久の変論は、一言でいふならば、天皇親政の全盛期と称された延喜天暦時代に帰り、道徳の確立した世を復活するとの理想より発したものであり、その実現の為に努力されたものであつたが、残念ながら鎌倉幕府の武力の前にその理想は潰え去つた。だが、その理想は百年後の建武の中興、そして六百五十年後の明治維新へと継承されていくとして、その後については『明治の源流』(時事通信社刊)に委ねられたのである。

承久の変についての坂井氏のものと博士の考察とを比べるならば、坂井氏の方は表面的な事象からのみ論じてをられると見られるのに対し、博士の方は、後鳥羽上皇や実朝、更には北条義時の心嚢にまで迫つて論究されてゐるのであり、歴史全体の上から正しく承久の変を位置付けされてゐるといふ感が強いのである。