万葉集古義に学ぶ(五)

玉川可奈子 歌人

鹿持雅澄(かもちまさずみ)の『万葉集古義(こぎ)』(以下、『古義』)に学ぶといふ(う)このお話も五回目となりました。『万葉集』は全部で何巻あるか、覚えてゐ(い)ますか。答へ(え)は二十巻ですが、今回お話しする巻五を入れると、このシリーズも『万葉集』の四分の一をお話ししたことになりませ(しょう)う。

前回は、山部赤人(やまべのあかひと)の富士山の歌、そして巻四から高安王(たかやすのおおきみ)の歌を紹介しました。前者の歌からは赤人の感動、そして後者からは古人の日常の一齣(ひとこま)がうかがは(わ)れたのではないでせうか。

さて、今回お話しするのは、巻第五についてです。この巻を雅澄がどう見てゐたのか。そのことを学んで行きませう。そして、その前に、この巻第五がどのや(よ)うな内容かをお話ししませう。

『万葉集』巻第五と山上憶良

『万葉集』の巻第五について、雅澄は、この巻の最後の歌の注釈(ちゅうしゃく)で、「此巻、憶良(おくら)の家集と見ゆれば…」と記してをり、雅澄は山上(やまのうえ)憶良が自身の歌を中心に編纂(へんさん)した歌集と考へ(え)てゐたことがわかります。それが本当かどうかは、わかりません。

この巻五は、大宰帥(だざいのそち)(大宰府の長官)大伴旅人(おおとものたびと)の妻が亡くなつたときに、旅人が悲しんで作つた歌から始まります。

余能奈可波(よのなかは)。牟奈之伎母乃等(むなしきものと)。志流等伎子(しるときし)。伊与余麻須万須(いよよますます)。加奈之可利家理(かなしかりけり)
(世間は 空しきものと 知るときし いよよますます 悲しかりけり)

妻・大伴郎女(いらつめ)が亡くなつたのを、雅澄は「春の末なるべし」としてゐます。前回、巻三のお話しの中で奈良に帰り、亡き妻を偲(しの)んで詠んだ歌を紹介しましたね。
いま一度、見ておきませう。

人毛奈吉(ひともなき)。空家者(むなしきいえは)。草枕(くさまくら)。旅爾益而(たびにまさりて)。辛苦有家里(くるしかりけり)

(人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり)

与妹為而(いもとして)。二作之(ふたりつくりし)。吾山齊者(わがしまは)。木高繁(こだかくしげく)。成家留鴨(なりにけるかも)

(妹として 二人作りし 我が山斎は 木高く茂く なりにけるかも)

「いとあは(わ)れ」な、いまなほ(お)私共の心に迫る名歌ですが、このやうに傷心した旅人に寄り添つたのが、山上憶良でした。彼は、最愛の妻を亡くし、悲しみにむせぶ旅人に対し歌を送り慰(なぐさ)めたのでした。

山上憶良といふ人は、遣唐使(けんとうし)や伯耆(ほうき)守(現在の鳥取県西部の知事)、筑前(ちくぜん)守(現在の福岡県知事)などを勤めた人物です。巻一に、唐の国にゐたころの歌が残されてゐます。雅澄は彼を「歌は名人だけれども、儒教(じゅきょう)や仏教の影響を多く受けてゐることが、文章にたくさん見えて、『いとうるさくいとは(わ)しき事多く(とてもわづらは(わ)しくて好ましくないことが多く)』ある」と評価してゐます。つまり、歌は良いけれど、それ以外は外国の影響が強いといふ(う)ことでせう。本居宣長(もとおりのりなが)ら江戸時代の国学者(こくがくしゃ)によく見られる見方ですね。国学については、本誌にかつて掲載された梶山孝夫先生の「国学って何ですか」をお読みください。ちなみに、私は憶良を情があり日本精神をもつた人だと考へてゐますが、そのことは別の機会に論じませう。

また、憶良について、帰化人(きかじん)( 渡来人(とらいじん))ではないかといつてゐる、いは(わ)ゆる「権威」がゐますが、それはあり得ません。それは、彼の姓(かばね)が「臣(おみ)」だからです。国史上、帰化人に臣の姓を与へた例はありません。「権威」のいふことが必ずしも正しいわけではないことを付け加へ(え)ておきませう。

憶良のこの巻における代表的な歌は、次の歌でせう。

銀母(しろかねも)。金母(くがねも)。玉母(たまも)。奈爾世武爾(なにせむに)。麻佐礼留多可良(まされるたから)。古爾斯迦米夜母(こにしかめやも)

(銀も 金も 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも)

この歌は、中学校の国語の教科書にも載つてを(お)り、習つた方もゐるでせう。雅澄は、この歌について特に記してゐませんが、大切な歌であることは間違ひ(い)ありません。武市瑞山(たけちずいさん)も、思ふ(う)ことがあつたのではないでせうか。

梅花の宴

さて、そろそろ今回のハイライトのお話しをいたしませう。先帝陛下が譲位(じょうい)あそばされ、平成の御代(みよ)が終はりました。それに伴(ともな)ひ(い)、新帝陛下が御践祚(せんそ)され新たな御代が始まりました。そして元号 (げんごう)も改められました。それが、「令和」であることは、誰もが知つてゐることでせう。本誌でも、万葉研究家の松村太樹さんが令和元年五月号に「令和の由来を考える」と題して、わかりやすくまとめてくださいました。今回は、この大宰府で行は(わ)れた梅花の宴(うたげ)の歌について学んで行きませう。まづ(ず)、『古義』に記された題詞と序文そのまま引きますので、見てみませう。

太宰帥大伴卿宅梅花歌三十二首并序
(おおみこともちのかみおおとものまえつきみのいえにうたげしてよめるうめのはなのうたみそじまりふたつまたじょ)

天平二年正月十三日。萃于帥老之宅。申宴會也。于時初春令月。氣淑風和。梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。夕岫結霧。鳥封縠而迷林。庭舞新蝶。空歸故鴈。於是盖天坐地。促膝飛觴。忘言一室之裏。開衿煙霞之外。淡然自放。快然自足。若非翰苑。何以攄情。請紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜下賦園梅聊成
中短詠上。

雅澄はこの原文について、出典や意味などを淡々と記した後、最後に、「此この序(じょ)は、王羲之(おうぎし)が蘭亭序(らんていじょ)をまねびて、憶良の作れるなるべし」としてゐます。つまり、この序文の作者は、山上憶良としてゐるのです。

右の通りに序文を読むのは難しいので、松村太樹さんの「令和の由来を考える」より書き下しと現代語訳を引きます。

書き下し

天平二年正月十三日に、帥老(そちろう)の宅(いえ)にあつまりて、宴会を申(の)べたり。
時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気(き)(よ)く風(かぜ)(やわら)ぐ。梅は鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(ばいご)の香(こう)を薫(かお)らす。加以(しかのみにあらず)、曙(あさけ)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)け、夕(ゆうべ)の岫(くき)に霧(きり)(むす)び、鳥は縠(うすもの)に封(とぢ)られて林に迷(まと)ふ。庭に新蝶(しんちょう)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋にし地(つち)を坐(しきい)にし、膝をけ觴(さかずき)
を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)に自ら放(ゆる)し、快然(かいぜん)に自ら足りぬ。
もし翰苑(かんえん)にあらずは、何を以てか情(こころ)をのべむ。請(ねがわ) はくは落梅の篇(へん)を紀(しる)せ、古と今と夫(そ)れ何か異ならむ。宜(よろ)しく園梅(えんばい)を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠(たんえい)を成すべし。

現代語訳

天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿の邸に集まつて、宴会を開く。
時は初春のよい月で、気はよく風は穏やかである。梅は鏡の前の白粉(おしろい)のやうに白く咲き、蘭は匂ひ袋のやうに良い香りをただよはせてゐる。そればかりではなく、夜明けの嶺には雲がかかり、松は雲の薄物をまとひ、まるで蓋をさしかけたやうである。夕方の山の頂上には霧がかかり、鳥は霧の薄絹に閉じ込められ、林の中にさまよふ。庭には今年生まれた蝶が舞ひ、空には去年の雁が帰つて行く。そこで天を屋根にして地を席にし、お互ひに膝を近づけて杯をまはす。言葉を楽しいあまり部屋の中で忘れ、外に向かつて心をくつろがせる。淡々としてそれぞれ気ままに過ごし、愉快に満ち足りた思ひでゐる。
もし文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べることができようか。さて漢詩には落梅の篇といふものがある。昔も今も何の異なることがあらう。さあ、ここに庭の梅を題にして歌を作らう。

宴で詠まれた歌

それでは、この宴で詠まれた歌を見てみませう。三十二首の歌が詠まれましたが、すべてを紹介することはできませんので、主だつた歌を挙げませう。声に出して歌を読んでみてください。

武都紀多知(むつきたち)。波流能吉多良婆(はるのきたらば)。可久斯許曽(かくしこそ)。烏梅乎乎岐都都(うめをおきつつ)。多努之岐乎倍米(たぬしきおえめ)。大弐紀卿(おおきすけきのまえつきみ)

(正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招(お)きつつ 楽しき終へめ)

この宴の最初に詠まれた歌です。

「正月」の「ムツキ」とは「身月」から出たと雅澄はいひます。「屋の中に主(むね)とある処を、身屋(むや)と云が如し。(中略)正月は十有二月(とおあまりふたつき)の中の本元(もとい)なれば、身月と云なり」としてゐます。

「かくしこそ」は、「し」は強調の「助辞」で、かくこそといふ意味です。

歌の意を雅澄の言葉で紹介すると、「今よりゆくさき春の来たらば、いや年のは(毎年)に、かやうにこそ、梅を手折頭挿(たおりかざし) て、一(ひと)すじに楽きを極め尽さめ」となります。

作者の紀卿ですが、雅澄はわからないとしてゐます。なほ、現在では紀男人(きのおひと)だとわかつてゐます。

次に、山上憶良の歌を見てみませう。

波流佐礼婆(はるされば)。麻豆佐久耶登能(まずさくやどの)。烏梅能波奈(うめのはな)。比等利美都都夜(ひとりみつつや) 。波流比久良佐武(はるひくらさむ)。筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上大夫(やまのうえのまえつきみ)

(春されば まづ咲く家戸の 梅の花 一人見つつや 春日暮らさむ)

特に、重要な字句の解説はなく、現代語訳を紹介しませう。「春になれば、やがて四方のさかりを待つことなく、めづらしく、まづ先立つて咲く、梅の花を、ただ一人見ながら長い春の日を暮らすのがよいだら(ろ)うが、一人で見るのは満足しないことだから、仲間と集まつて、今日のやうに楽しく暮らさ(そ)う」となりませう。最後に、主催者の大伴旅人の歌を見てみませう。

和何則能爾(わがそのに)。宇米能波奈知流(うめのはなちる)。比佐可多能(ひさかたの)。阿米欲里由吉能(あめよりゆきの)。那何列久流加母(ながれくるかも)。主人(あるじ)

(我が園に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも)

「流れ来るかも」は、降り来るかもといふやうな意味です。歌の意味は、「我が園に梅の花が、ちらちらと散るよ。いやさうではなくて、空より雪の降り来るにてあるのか、『さても見事や』」となりませう。主人とは、大伴旅人のことです。

紹介したのは、十分の一にも満たない三首だけですが、雅澄は、ほかの歌の注釈でも特に何も述べてゐません。それでも、雪と梅をたくみに詠み、風雅に、そして平和な雰囲気が伝は(わ)つてきませう。

最後に『古義』とは関係ないのですが、重要なお話しを一つ。憲政史家の倉山満氏によると、このたびの改元の裏側で、ある暴挙があつたといひます。それは、手続きに時間がかかることを理由に、新帝陛下が践祚あそばされる前に新元号を発表してしまつたことがそ
れです。そして、さう仕向けたのは内閣法制局だといふのです。

くはしくは、氏の著作である『十三歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)をお読みください。

今回は主に、巻五と山上憶良について学びました。

巻五には他にも味はひのある歌がいくつもありますが、次を急ぎませう。次回は巻第六と七について学んで行きませう。再び、山上憶良の歌を紹介します。そして、その歌にまつはる雅澄のエピソードもお話ししませう。どうか、お楽しみに。 (続)