ようこそ水戸学の地へ(三) ― 藩校弘道館と水戸東照宮 ―

齋藤郁子/ 水戸史学会会員

今回は水戸藩の藩校弘道館と水戸東照宮を訪ねてみましょう。

復元された大手門の西側正面に弘道館はあります。シナの学校は城の西側に建っている例にならって、この位置に決められたようです。

正門の柱には水戸藩抗争の戦場となった時の弾痕がそのままにあります。

弘道館創設

弘道館は、幕政にも大きな影響を与えた第九代藩主烈公斉昭が創設しました

正庁を中心に文館・武館・医学館・天文館・鹿島神社・八卦堂(はっけどう)・孔子廟・寄宿舎・梅林などで構成されています。現在でいえば総合大学といえるでしょう。

他藩の学校は学問の師として孔子を祀っていますが、水戸は武神である武甕槌神(たけみかづちのかみ)を共に祀(まつ)り国家創業の偉業を併せ考えさせるところに大きな特色があります。

敷地内にはその意義を示す要石(かなめいし)の歌碑があります。

行く末もふみなたがへそ蜻島(あきつしま)
大和の道ぞ要なりける

また、種梅記碑(しゅばいきのひ)(梅の花

は雪を冒(おか)して春に先んじて風騒(ふうそう)の友となり、実は酸を含んで渇(かわ)きを止め、軍用の用となる、ああ備えあれば憂いなしとの意味)なども建っています。

弘道館の教育

この弘道館は天保十二年(一八四一)に仮開館され、鹿島神社が勧請(かんじょう)された安政四年(一八五七)に本開館しました。幕末内外の諸問題を解決するためには、優れた人材の育成が必須であるとした構想の下に建てられたもので、天保の藩政改革のねらいの一つでした。

これら創建の趣意は、後掲するように六つの質問と答えの形で、「弘道館記」に示されています。その「館記」は、斉昭公の考えと藤田東湖の意見を織り交ぜて東湖が起草し、儒者佐藤一斎、会沢正志斎、青山雲龍らの意見を徴し、斉昭が裁定したもので、「弘道とは何ぞ、人能く道を弘むるなり」で始まります。

即ち、人としての道を自らが実践し弘めることの重要さを説いています。そして、「道とは何ぞ」、「弘道の館は、何のためにして設けたるや」、「武御雷神(鹿島神社)を祀るものは何ぞ」、「孔子廟を営むものは何ぞ」、「治教を統(す)ぶるものは誰ぞ」の五つが続きます。

その弘道館教育の眼目は、次の五つです。

一 、「神州の道を奉じ西土の教を資(と)り」
※ 日本の教えを大切にするとともに外国の教えも採り入れる
二、「忠孝二无(な)く、文武岐(わか)れず」
※ 忠と孝と、文と武とは根本において一つであることを知る
三 、「学問・事業その効を殊にせず」
※学んだことを実社会で実践する
四 、「神を敬い儒を崇(たっと)び、偏党あるなく」
※ 神道・儒教など広く学び一方に偏(かたよ)らない
五 、「衆思を集め群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報いる」
※ それぞれの学問の力を発揮し国家の恩に報いる

また、この弘道館記の中で「尊王攘夷」の四文字熟語が初めて用いられました。館記の
拓本は正庁の床(とこ)に掲げられ、碑は八卦堂に収められています。

藤田東湖が著した『弘道館記述義』は、弘道館記の内容を注釈したもので、弘道館設立の目的と教育の内容を余すところなく記しています。

正庁に入りますと、大きな「尊攘」の軸装が目に入ります。烈公が自分の考えを示して側(そば)医師で能筆家の松延年(まつのぶ ねん)に筆(ふで)させたものです。

この「尊攘」には、「日本は天皇を戴(いただ)く皇国であること」を学び、日本国を外国の侵略から守る決意を育て、実践する決意が込められています。

奥の「至善堂」は、諸公子の控えの間ですが、最善を究め、最善を尽くす覚悟と思考を求めた部屋とされています。床(とこ)には庭園にある要石の碑の拓本が掲げられています。最後の将軍慶喜公が謹慎された部屋でもありす。

正庁の玄関には、父烈公と慶喜公の触れあう場面の父子像が置かれています。

東照宮

弘道館をあとにして大銀杏(おおいちょう)のある大通り国道五〇号線に出ます。国道を挟んだ高台に水戸東照宮はあります。

元和七年(一六二一)、初代水戸藩主威公頼房が、父家康の菩提を弔うために建立した神社です。

当時は神仏習合の姿から「弘化元年水戸城下屋敷割図」に見られるように、寺院が支配し東照宮三社権現と称されていました。

義公光圀は、寺僧の風儀の退廃、神仏習合の姿を批判して、領内で神仏分離の政策を進めましたが、東照宮の権威から遠慮したのか水戸東照宮は、その改革からは除かれました。

烈公斉昭は、この神仏習合の状態を改めました。

天保十四年(一八四三)、境内の寺院等を廃し、僧侶を追放し祭儀を唯一神道に改め仏教色を一掃しました。

参道には、家康公の三十三回忌にあたる慶安三年(一六五〇)に頼房公により奉納された、高さ二・九メートルの青銅製の灯籠があります。

境内には、烈公考案の装甲車「安神車(あんじんしゃ)」や、水戸藩士の市毛家から出た第十九代横綱常陸山谷右衛門の顕彰碑も建っています。

令和三年には、創建四百年を迎え、約百年ぶりに祭礼行列が復活しました。

次回は、仲町・南町界隈を歩きます。