楠公と住友、そして水戸学

 梶山孝夫/水戸史学会理事

千早神社と大楠公六百年祭

大阪府下の千早神社に詣でたことのある方は、社務所の前の階段を上っていくと左右に石柱が林立していることをご存じであろう。これらの石柱は千早神社のために浄財を提供した方々の氏名を記録したものである。左側の一つに、
「一金壱万円 大阪 住友吉左衛門」
と刻まれた石柱があることもご存じであろうか。住友吉左衛門というのは銅の精錬で知られる住友財閥の当主の名である。この名は昭和十年の大楠公六百年祭時の「大祭費献金者芳名」にもみえている。そこには「男爵住友吉左衛門 二千円」とあり、他に住友銀行神戸支店、住友倉庫神戸支店、古田俊之助などの名も記されている。古田は住友最後の総理事(大番頭、経営の最高責任者)を務めた人物である。大祭奉賛会の名誉総裁は水戸徳川家の当主、圀順(くにゆき)公、理事長は藤巻正之湊川神社宮司であった。

このように、近代における住友は楠公顕彰に大きく係わっているのであるが、その一端を少しく紹介してみたい。

楠公銅像のこと(一)

『高村光雲懐古談』の「楠公銅像のこと」という章に次のような箇所がある。高村光雲は当時、東京美術学校の教授であり、詩人の高村光太郎の父として知られている。

大阪の住友家の依頼で、明治二十三年四月に楠公像の製作は美術学校が引き受けてやり出したのであります。さうして右製作の主任は私でありました。

これは住友家の所有である別子銅山の二百年祭の祝賀のために、別子銅山より採掘したところの銅を用ゐてなにか記念品を製作し、それを宮内省へ献納したいといふところから始まつたのでありました。そして右製作のことを美術学校に持ち込んで来たのであつた。

楠公銅像というのは、今日皇居前広場に建てられている馬上の楠公像のことであるが、この楠公像が住友家の依頼で別子銅山開坑二百年の記念として建立されたことが述べられている。しかも、その製作を美術学校が担当、その主任が高村光雲であったわけである。楠公銅像建立に至る経緯をもう少したどってみよう。

住友の基幹鉱山である別子銅山の採掘は元禄四年(一六九一)であるから、明治二十三年(一八九〇)は銅山開坑二百年に当たっていた。当時、別子銅山は過去最高の産出量を記録しており、二百年に当たり記念行事が計画されたのである。二百年祭は十月に大阪で行なわれたが、記念事業の一つとして計画されたのが楠公銅像の献納であった。初代総理事の広瀬宰平の自序伝である『半世物語』には次のようにみえている。

産銅を以て一大紀念物を製し朝廷へ献納せんことを希図し、宮内大臣に就きて此の事を執奏あらんことを願ひ出(い)でしに、恭(かたじ)けなくも陛下の御親裁を得て、遂に楠公の銅像を鋳造し、之を献納して東京皇城二重橋の門外に建置する事に定りたり。而(しこう)して右銅像は東京美術学校に依嘱して之が図案を定めしめ、目下専ら其の鋳造に着手中なり。

『半世物語』の刊行は明治二十八年三月であるが、「目下専ら其の鋳造に着手中なり」とみえる通り、この時点では鋭意製作が進められていた。その完成は三十三年七月のことであるから、開坑二百年祭から十年の歳月を要したわけである。完成した銅像の台座側面にはその経緯を記した銅版がはめ込まれた。その銅版の文字は漢字六十字にすぎないが、祖先が開いた別子銅山を引き継いで二百年となるに際して、亡兄は深く国恩に感じ、それに報いるためにその銅により楠公像を造り献納する旨が記されている。記したのは当主友純であるが、友純は徳大寺家の出身で亡兄友忠の後嗣となっていたのである。

総理事の広瀬は、この功績により住友家から小型の楠公像を贈与されている。明治三十一年のことであった。

楠公銅像のこと(二)

楠公銅像建立の発端は以上の通りであるが、美術学校に依嘱された楠公銅像の製作はどのように行なわれたのであろうか。まずはその形状であるが、忠臣楠公像が座像では見立てがよくないとのことで馬上の姿ということになった。そこで図案を募集したところ岡倉秋水(第一期優等の卒業生で校長の岡倉とは無関係)のものが当選し、それをもとに実際の案が練られた。時の校長は岡倉天心であったが、岡倉校長はじめ職員は智恵をしぼった。しかし、それだけでは鋳造はできない。剣・鎧・楠公の顔・身体・馬の種類・姿勢・服装等の検討が必要であった。これらを研究して決定した後、岡倉校長は高村を主任に命じたのである。当時の美術学校には馬専門の彫刻家がいなかったため、高村は岡倉校長に後藤貞行という人物を雇うように進言し、承諾された。後藤は和歌山の士族で軍馬局に勤めており、目をつむっていてただ触っただけで馬の良否がわかるというほどの人物であった。

また、歴史や故実の立場からは黒川真頼・今泉雄作・川崎千虎・加納夏雄・今村長賀の諸氏が加わって、調査し精確を期したという。

さらに、高村の『懐古談』からその後の事情を窺ってみよう。

そのころは、まだ美術学校には塑像はありません時代で、原型は木彫です。山田鬼斎先生は楠公の胸を彫りました(山田氏は福井県の人で、まだ年は若かつたが、なかなか腕が勝れ、仕事の激しい人でありました。明治二十三年の博覧会に大塔宮を作つて出品し好評であつた。惜哉(おしいかな)故人となられました)。それから私は顔を彫りました。後藤氏は馬をやりました。私は楠公の顔をやつて甲を冠せた。石川さんも手伝ひました。竹内久一先生はどうであつたか、少しは手伝はれたかも知れません。とに角学校総出でやつた仕事で、主任は私、担任が鬼斎氏及び後藤氏で、それから、鋳物の主任が岡崎雪声氏でありますが、岡崎氏は原型には関係がありません。鋳造だけです。

これをみると、東京美術学校を挙げての一大事業であったことが知られるが、それは岡倉校長をはじめとして高村主任を中心とする人々の創意と苦心の結果によるものであった。楠公銅像の原型は明治二十六年三月十六日、学校校庭内で組み立てられ、文部大臣及び関係者に公開された。三月二十一日には、明治天皇の御覧に供し、岡倉校長が御下問に奉答した(岡倉は三十一年に校長辞任)。その後、岡崎教授によって鋳造され、住友家に引き渡された。台座製作の関係者も洋行して研究したというが、その努力が実って明治三十三年、馬場先門外の皇居前広場に楠公銅像が建立されたのである。

『徳川光圀公御像建設記念録』

『徳川光圀公御像建設記念録』(以下『記念録』)は昭和三十年秋に刊行されたが、巻頭言に次のような一節がある。

古人曰く、天地に正気あり。雑然として流形に賦すと。また曰く、世に汚隆無きにあらず。正気時に光を放つと。蓋(けだ)し楠公、義公の如きは、その発露の卓爾(たくじ)たるもの乎(か)。楠公は乱世に当りて一身忠節に殉ず。義公は治世に居りて百年、倫(りん)を叙す。治乱各々世を異にし、文武揆(き)を一にせずと雖も畢竟(ひっきょう)、全身全霊を以て尊皇報国に生涯を貫き国礎工作に躬行(きゅうこう)実践所謂(いわゆる)綱常を扶植し皇基を護持するに至りては、即ち未だ嘗(かつ)て同じからずんばあらず。

この巻頭言の執筆者は小倉正恒である。小倉は住友の総理事を十一年にわたって勤めた人物であり、先にふれた古田は小倉の後任である。小倉は楠公銅像建立の前年に入社し、昭和十年の楠公六百年記念祭時には総理事であった。昭和十五年の別子銅山開坑二百五十年祭は建国二千六百年と重なり、盛大な祝典が行なわれたが、楠公銅像建立のような事業は計画されなかった。そのような事情もあって晩年ではあったが、小倉は昭和三十年の徳川光圀公御像建設に賛同したのであう。

光圀公御像建設の発端は、湊川神社の藤巻宮司が楠公を顕彰した光圀公の頌徳(しょうとく)事業を計画したことにあった。その際、宮司が頼ったのが小倉であった。小倉は快く義公顕彰会の委員長を、引き受けたのである。時に、昭和二十八年八月。この事業は住友各社や松下幸之助らの賛同を得て遂行され、三十年七月十一日に除幕式の挙行となったのである。事業の詳細を記録したのが、この『記念録』ということになる。

巻頭言の冒頭は藤田東湖の「正気(せいき)の歌」を参照しつつも、楠公と義公の尊皇報国の精神にふれて頌徳事業の経緯を略述したものである。そこには小倉の楠公と義公に対する思いがあふれているが、『記念録』に収録されている漢詩は「正気何浩浩」から「日月照湊川」に至る三十二句に及んでおり、全句が両公に対する景仰の文字である。

ところで、光圀公御像(義公像)であるが、像は東京芸術大学の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)教授によって製作された。『記念録』には平櫛の書簡抜粋が十九通収められているが、その中に

義公の御像製作御指名を仰ぎ感謝いたします。水戸御本邸にお顔のいい参考がありました事は無上の幸福と存じます。一番心配いたしました難点が解決いたし喜にたへません。この上は御服の問題だけ考究いたしたく存じます。

また、別の書簡には

原型については私は二度位試作をやらねばなるまいと考へます。義公伝を読ませて頂きました。鋳造は只今任せて心配のないのは伊藤忠雄君只(ただ)一人であります。

と記されている。この文面からは、かつて高村光雲が楠公銅像を製作した時の様子を思い起こさせるものがある。実はそれもそのはずで、平櫛は高村の門に学び、岡倉天心の知遇を得たことにより院展で活躍できたからであり、また文化勲章受章の際は五浦(いづら)(茨城県)を訪れてもいた。平櫛が楠公像や多くの義公像を製作しているのは、恩師たちの教えを継承したからに相違ないであろう。

やがて光圀公御像は伊藤の手で鋳造され、徳富蘇峰の頌徳碑文とともに建立された。その場所は、かつて義公が建碑した「嗚呼忠臣楠子之墓」の傍らであった。

水戸学の教典『弘道館記述義』

『弘道館記述義小解』は加藤虎之亮(とらのすけ)による『弘道館記述義』の注釈書であるが、『述義』はいうまでもなく藤田東湖の著作であり、いわば水戸学の教典ともいうべきものである。この書物は昭和天皇の御大礼及び義公生誕三百年記念として昭和三年に二千部が刊行頒布されたのであるが、留意すべきは鈴木家蔵版(非売品)だったことである。鈴木家は鈴木馬左也(まさや)のことを指す。鈴木は九州高鍋の人で、本姓を秋月氏といった。農務省時代に請われて住友に入り、三代目総理事を務めた人物である。この鈴木と『小解』刊行との関係を加藤の自序によって窺ってみよう。

大正四・五の交、居士(鈴木馬左也のこと、大正十一年十二月歿、六十二歳)、確斎織田翁を介して、予(加藤虎之亮のこと)に嘱して曰く、現今人情澆訛(ぎょうか)、道義に暗く、国体に通ぜず。之を匡救(きょうきゅう)せんには、弘道館記述義を通読せしむるに如(し)くはなし。吾、先づ我が社員に課して読ましめ、然る後天下に及ぼさんと欲す。請ふ、雨森氏外史纂語講義の体に倣(なら)ひ、之を解釈せよと。予よりて語句を摘解して二巻となし、之を提出せり。既にして居士又曰く、摘解のみにては、語りて詳(つまびらか)ならざる嘆なき能(あた)はず。願はくは更に通釈を施さんことを、其の解釈は高雅なるを必とせず、丁寧ならざらんことを憂へよ。卑俗なるを厭(いと)はず、親切ならざらんことを恐れよと。

『織田確斎は、世情を嘆いていた学生時代からの友人である鈴木から良書の選定を依頼され、そこで『述義』を選び、その注釈が加藤に依嘱されたというのである。その注釈は雨森精翁(もと松江藩儒)の『外史纂語講義』(日本外史の注釈)に倣って作成したところ、通釈も施せとの再度の依頼があったという。大正八年夏、加藤は注釈を脱稿し、自ら鉄筆を執って十五部を謄写するのであるが、やがてそれが刊行されることになるである。

『さて、この『小解』には巻頭に烈公や東湖の肖像等六葉の写真と弘道館図を掲げ、織田と秋月左都夫の序文と加藤の自序と例言が、巻末には馬左也の子息愨太郎(かくたろう)の跋文が付された。秋月左都夫は馬左也の実兄で、外務省に入り外交官として活躍している。馬左也は親戚の鈴木家を継いでいたのである。

『加藤は広島高等師範学校で漢文を修め、後に無窮会(平沼騏一郎設立の図書館)の招きによって上京し、青山師範や武蔵高校で教鞭を執った。無窮会の縁により『述義』の注釈を依嘱されることとなったのであるが、大東文化学院・二松学舎・立正大学・東洋大学(後学長)、そして玉川大学でも教授する一方、『周礼(しゅらい)』の研究で学位を取得した。戦後の混乱期には無窮会の理事長としても活躍したが、その加藤の後任理事長が小倉正恒であった。

『なお、加藤の注釈(『小解』)は多くの『述義』注釈書の中でも最も優れたものである。

『このようにみてくると、楠公・水戸義公、そして住友における相互関係(水戸学に込められた楠公精神といってもよい)には並々ならぬものが秘められており、かつて義公の史臣である大串雪蘭が「楠公の忠は我が公に因りていよいよ著はれ、我が公の志は楠公に因りて見るを得たり」とし、さらに「蓋(けだ)し気類の相感百世を隔て千里を距(へだ)つと雖も、猶(なお)旦夕之に遇ふがごときなり」(楠公碑を拝するの文)と述べた思いは、住友の縁を介しながらも「百世を隔て」た今日においても十分に感得することができよう。