若山牧水の歌にふれて

廣瀬明正 /荒井神社名誉宮司(博士・文学)

若山牧水(わかやまぼくすい)(明治十八~昭和三年、一八八五~一九二八)といえば、宮崎県東臼杵(ひがしうすき)郡(現日向市)の出身で、旅を愛し、自然を愛し、多くの名歌を残した日本を代表する歌人の一人である。また、牧水の歌碑は地元日向市をはじめ全国の公園、学校、社寺など約三百ヶ所に建立されており、何処かでそれらを目にしたことがあるという人は多いであろう。(わが兵庫県では、伊丹市の小西酒造の長寿蔵ショップ前にある。)

つぎに、私が所持する牧水の短冊を披露する。

幾山河 こえさりゆかば 寂しさの
はてなむ国ぞ けふも旅ゆく 牧水

これは牧水の代表歌として有名で、記憶は定かではないが、中学校か高等学校の教科書(国語)で学習したような気がする。短歌に造詣が深くない私でも、ときどきこの歌を暗誦するほど、身に沁みついてしまっている。

ところで、昨年は牧水「わか竹の」と、その妻喜志子の「小女子にあたへて」の掛軸を入手する機会に恵まれた

わか竹の          少女子に
伸びゆく如(ごと)く       あたへて
子供らよ真        をとめ子の
直ぐくにのばせ    それみつからは
身をたましひを      しらぬこと
                                 たゞうつくしく
                                    浄くあれこそ
              牧水         喜志子

この軸には、牧水の長男、旅人が昭和六十二年に誌した箱書きがある。それによると、牧水一首は歌集「黒松」より、喜志子一首は「即時詠」とあり、「大正末年 夫妻同道して揮毫旅行の途次 望まれて染筆せしもの、夫妻共筆の書は稀に見るものにして且つ牧水の筆に酔余の疎漏あるは加えて珍品なりと言うべし」と記されている。ここに「酔余の疎漏」とあるのは、牧水が「真直ぐに」を「真直ぐくに」と書いてしまっていることを指す。牧水の酒好きは広く知られており、一日に一升は飲んでいたといわれ、長年の大量飲酒により急性胃腸炎と肝硬変を併発して、昭和三年に四十三歳で亡くなっている。

さて、この牧水の「わか竹」について調べてみると、意外なことが判った。それは、書家の石飛博光氏が揮毫した「わか竹の」が長野県立武道館に掲げられていることと、同じく長野県の小学校の校歌になっていることだった。その小学校とは佐久市立岸野小学校である。校歌といえば、一番、二番、三番と続くのが一般的だと思うが、「わか竹の」という短い歌をどのようなメロディーで歌っているのか知りたくなった。

そこで、CDを同封して校歌の録音を依頼する手紙を岸野小学校の校長宛てに出すことにした。しばらくして、校長の柳澤博先生から返信が届き、歌声が録音されたCDと楽譜、そして『岸野小学校九十年誌』の中から牧水と岸野小学校との関りが記載された「わか竹教育について」、校歌を作曲した木内幌教諭の寄稿文「校歌に寄せて」などがコピーされた資料も一緒に送られてきた。録音された校歌を聞いてみると、伸びやかな歌声が優しく、爽やかな気分になった。当方の勝手なお願いにより、柳澤先生にはいろいろとお手数をおかけしてしまい申し訳なく思うが、この誌面を借りて改めて御礼申し上げる。

先の参考資料などから、大正十四年四月二十二日、岸野小学校に勤めていた重田弥治郎教諭が佐久の地を訪れていた歌の知友、若山牧水を招き、講堂で全校児童に話をしてもらったことが知られる。その折、牧水が岸野の子供のために、

わか竹の伸びゆくごとく子どもらよ
眞すぐにのばせ身をたましひを 牧水

と揮毫している。この歌は額装されて現在も校長室に飾られている。また、その歌碑が、小学校の南側玄関前(昭和三十七年建立)と校門正面(昭和四十三年建立)の二か所にある。

爾来、わか竹の歌の心を学校の心として、今日まで岸野小学校は運営されてきたのである。その教育の指針を次に掲げる。

○節をつくって まっすぐに伸びよう
○ しっかり根を張って 支え合って伸びよう
○ しなやかに耐える力を養い たくましく伸びよう

このように岸野小学校は「わか竹教育」を実践してきたが、昭和三十七年までは校歌がなく、儀式や行事の時には「君が代」が歌われていたという。今なら学校に校歌がないことを不思議に思う人がいるかもしれない。

しかし、昭和二十二年に学制改革(六・三制)が実施されることになると、これまでの尋常高等小学校(国民学校初等科六年・高等科二年)は廃止され、新しい小学校(六年)と中学校(三年)が設立された。そのような状況下で、旧小学校の校歌を引き継ぐところもあったようだが、全国の多くの小学校は新校歌を制定することになる。ところが、当時は未だ戦後の混乱期でもあったので、全国一斉に新校歌が制定されるということはなく、昭和二十年代から三十年代にかけて、各地の学校において順次、制定されていったものと思われる。

前掲の「校歌に寄せて」を読むと、昭和三十七年ごろ岸野小学校には校歌がなく、木内教諭は校歌に準ずるものがほしいと思っていたところ、たまたま宿直室の床の間に牧水の「わか竹」の軸が掛けられており、宿直で泊まるたびにその歌が目に飛び込んできたという。「そうだ。これだ。これに曲をつけてみたら…」と気持ちが動き、作曲することになったと述べている。校歌は昭和三十八年に制定されたが、その後、音楽の藤木信子教諭により二部合唱に編曲された。

岸野小学校の児童が校歌(牧水の歌)を歌いながら、教育目標に示されている「ねばり強くやりぬく子ども、よく考えくふうする子ども、美しいものによろこびのもてる子ども、思いやりのある子ども、じょうぶなからだの子ども」に育ってくれるようにと、遠く離れた兵庫の地から声援を送りたい。