ウクライナ人 ―― 民族差別と迫害の過酷な歴史

宇山卓栄/著作家
「ルーシ」の正統な継承者はウクライナ人なのか

ウクライナ人はスラヴ人で、ロシア人と民族的にはほとんど同じであるものの、ロシア人を民族や国家の正統な後継者とはせず、簒奪者(さんだつしゃ)と見なします。

ウクライナ人もロシア人もリューリクが率いたルーシ族に共通の起源を持ちます。ルーシ族は、九~十世紀に、ヨーロッパ北方の海上の覇権を握ったノルマン人の一派で、元々、北欧に居住していました。

「ロシアRussia」の語源は「ルーシRus」に由来します。「ルーシ」はルーシ(ルス)族というノルマン人の一部族の名とされます。ノルマン人のルーシ族は族長のリューリクに率いられ、ロシアに入り、元々、この地にいたスラヴ人を征服します。八六二年、リューリクはノルマン人国家のノヴゴロド国を建設します。

その後、リューリクの親族であったオレーグはビザンツ帝国との交易の拠点となっていたキエフに南下して制圧します。キエフはドニエプル川の中流に位置する現在のウクライナの首都です。

オレーグは八八二年、ノヴゴロドからキエフに本拠を移します。これがキエフ公国のはじまりです。この時代、ロシアやウクライナに、王は存在せず、各地に豪族らが割拠し、分裂状態でした。豪族らは「公」を意味する「クニャージ」を名乗っていました。

キエフ公国の君主も「クニャージ」を名乗りましたが、キエフ公国は他の公国よりも国力が強く、主導的な立場にあったため、君主は「大公」を意味する「ヴェリーキー・クニャージ」を名乗っていました。因(ちな)みに、ノヴゴロド国は「王国」でもなく、「公国」でもないのは、リューリクが王でも公でもなく、ルーシ族の族長という立場に過ぎなかったからです。

キエフ大公位はオレーグの死後、リューリクの息子に引き継がれ、以後、歴代、リューリクの血筋の者が引き継ぎます(リューリク朝)。

十五世紀、ロシア中部のモスクワ公国が強大化します。モスクワ公もまた、「ヴェリーキー・クニャージ」を名乗っていたため、モスクワ公国は一般的に「モスクワ大公国」と呼ばれます。モスクワ大公イヴァン三世がロシア人勢力を統一し、この中にウクライナ人も取り込まれていきます。

そのため、ウクライナ人から見れば、キエフ公国の本流に対し、地方勢力に過ぎなかったモスクワ大公国には、正統性がないということになります。傍系が力と暴力によって、自分たちを強制的に従わせたと捉えているのです。

キエフ公国は正式には「キエフルーシ」と呼ばれており、「ルーシ」の名を引き継ぐルーシ族の正統という意味が込められています。ウクライナ人は自分たちこそが「ルーシ(ロシア)」であり、ロシア人がそれを勝手に自称するべきではないと考えています。ウクライナ人は自分たちの歴史はロシア人によって奪われたと主張しているのです。

しかし、ロシア人にも言い分があります。ロシア人がキエフ公国を滅ぼしたのではなく、十三世紀に、モンゴル人が滅ぼしました。そして、モンゴル支配から、いち早く、勢力を回復したのがモスクワ大公国です。また、モスクワ大公は傍系ではあるものの、リューリクの血統を引いているリューリク家の一族であり、「ルーシ」を継承する充分な正統性があるとされるのです。

いずれにしても、ウクライナ人とロシア人は同じ民族で、不可分一体の共通の歴史を歩んできたのであり、両者を民族的に区分することは困難です。

誇り高いコサックが民族の原点

キエフ公国はバルト海と黒海を結ぶドニエプル川流域を支配し、交易によって栄えます。十世紀末、キエフ大公ウラディミル一世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)と連携し、自らギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を受容します。この時、ギリシア正教のみならず、キリル文字をも受容し、これを基礎にロシア文字が形成されていきます。

ウラディミル一世はビザンツ皇帝の妹と結婚します。この時、リューリク家が皇帝家と姻戚関係になったことが、ビザンツ帝国崩壊後、モスクワ大公イヴァン三世がツァー(皇帝)位を継承する根拠となります。

ウラディミル一世の時代に、キエフ公国は全盛期を迎えますが、十一世紀後半、トルコ系の遊牧民がキエフ公国に侵入し、混乱の中、各地で内乱が頻発するようになります。十二世紀以降、イタリアを中心とする地中海交易が活発化し、ドニエプル川流域の交易が相対的に衰退し、キエフ公国は荒廃していきます。

そこへ、チンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル人が襲来します。一二三七年、モンゴル軍はロシアに入り、一二四〇年、キエフを占領します。街は徹底的に破壊されて、キエフ公国は滅亡しました。ウクライナ人はロシア人とともに、「タタールの軛(くびき)(モンゴル人による支配)」の時代に入ります。

この時期、ウクライナから南ロシアの各地に、コサックという騎馬武装集団が現れます。コサックは元々、トルコ人の馬賊たちでした。「コサック」はトルコ語で、「自由な人」を意味します。

トルコ人馬賊に、モンゴル人も加わります。このモンゴル人は何らかの理由で、モンゴル正規軍から離れた者、正規軍に不満を持っていた者、或いは、正規軍に最初から属さず、馬賊として活動していた者などです。

当初、コサックはトルコ人やモンゴル人のアジア系の混成集団でしたが、ウクライナ人などのスラヴ人もコサックに加わるようになります。ウクライナ人の一部はモンゴル人支配を嫌い、自らコサックの一団に参入することにより、モンゴル人に抵抗したのです。こうして、黒海に注ぐドニエプル川やドニエストル川流域で、無数のコサック集団ができ上がります。

コサックはトルコ人集団をベースにしながら、モンゴル人やウクライナ人、ロシア人を取り込んでいき、多層な混血民族集団へと変化していきます。

ウクライナ人の愛国主義者たちはモンゴル人やロシア人に決して屈することのなかった誇り高いコサックこそが、自分たちの民族の原点であると主張します。ウクライナの国歌の歌詞には、「我らは自由のために魂と身体を捧げ、兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう」とあります。

ロシア帝国のウクライナ支配

しかし、実際には、ウクライナ・コサックは一部を除いてほとんどが、十七世紀末にロシア帝国に屈しています。

ロマノフ朝のピョートル一世はウクライナ・コサックと大規模な戦争をし、大砲の火力でコサックの騎馬兵を打ち破ります。ピョートル一世はウクライナをロシア帝国に編入するとともに、コサック兵をロシア帝国の軍隊に編入します。こうして、ロシアのウクライナ支配がはじまります。

十八世紀後半、女帝エカチェリーナ二世は黒海方面へと進出し、オスマン帝国からクリミア半島を奪います。クリミア半島は黒海の制海権を握る上で重要な戦略拠点でした。ロシアがクリミア半島を得たことで、ウクライナ支配が確立し、北のバルト海と南の黒海を繋ぐ物流動脈が形成され、交易が活発になり、国力を急速に増大させます。

因みに、エカチェリーナ二世は一七七三年、ガザフスタン地方のコサック首長プガチョフの反乱を鎮圧し、中央アジア北部をロシアの支配圏に入れます。

ウクライナはピョートル一世とエカチェリーナ二世によって、従属させられました。そのため、ウクライナ人は「我らを拷問したピョートル一世、我らに止めを刺したエカチェリーナ二世」と二人の皇帝を形容します。

ピョートル一世はウクライナ語を禁止します。ウクライナを「小ロシア」とする呼び方はこの時に定着します。「小ロシア」はウクライナをロシアの従属地域とする蔑称としての意味が込められています。エカチェリーナ二世はウクライナ語禁止政策を引き継ぎ、帝国の行政統治をウクライナに徹底し、ロシア化を推進していきます。

ウクライナから中央アジア北部に分布していたコサック勢力はロシア人によって支配されますが、彼らの勢力は完全に消滅したのではありません。コサック集団は中央のロシア帝国に不満を持つロシア人やウクライナ人、モンゴル人などの非ロシア人の逃亡先となり、帝国の辺境にあって、半ば独立した勢力となっていました。

ザポロージェのコサックなどはその代表で、ロシア帝国も彼らに簡単に手を出すことができず、半ば自治権を認めていました。コサック集団もロシア正教に帰依し、税を帝国に納めるなどして、一定のレベルで連携をしていたのです。

ウクライナは肥沃な穀倉地帯で、小麦を豊富に産出していました。ロシア人はウクライナ人を農場で強制労働させます。ロシアには、「農奴」と呼ばれる奴隷的な農民階級があり、多くのウクライナ人が農奴に貶(おとし)められて、搾取され、差別されたのです。

ウクライナ人はロシア人に監視され、行動を制限されていました。十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、ウクライナ人の民族運動が活発化しますが、ロシア帝国は出版や新聞の言論を厳しく統制し、反抗的な者を容赦なく、シベリアへ流刑にしました。

この頃から、ウクライナ人たちは自分たちをロシア人と区別するため、「ルーシ」の呼称を改め、「ウクライナ」を用いるようになります。「ウクライナ」は中世ルーシ語で、「国」という意味があるとされます。しかし、ロシア人は「ウクライナ」を「国」とは解さず、「辺境」という意味であると主張しています。

悲劇のウクライナ人、第二次世界大戦、
チェルノブイリ

一九一七年、ロシア革命で、ロシア帝国が崩壊し、レーニンの率いるソヴィエト政権が誕生すると、ウクライナは独立し、ウクライナ人民共和国が成立します。この時、初めて、「ウクライナ」という名称が正式な国号の中で用いられました。

しかし、ソヴィエト政権はウクライナの独立を認めず、軍事侵攻し、一九一七年、ウクライナ・ソヴィエト戦争が勃発します。四年に及ぶ激戦の末、ソヴィエト軍がウクライナを制圧します。一九二二年、ウクライナは正式にソヴィエト連邦に編入されます。

ウクライナ人はソ連時代も、弾圧され、多くのウクライナ人の知識人や民族運動家が処刑されました。

レーニンの死後、スターリンが独裁を強めていく中、ウクライナ支配を強化していきます。ソヴィエト政権は一九三二年から一九三三年にかけて、強制的な農業集団化政策により、ウクライナ農民の土地を没収し、強制労働に従事させます。推定で四百万から一千万人のウクライナ人が餓死したとされています。ウクライナ人にとって、スターリン時代が最も悲惨な時代とされ、ウクライナ人のロシアへの憎悪が刻み込まれていきます。

第二次世界大戦がはじまると、ドイツが侵攻し、ウクライナが独ソ戦の舞台となり、国土が焦土と化します。ウクライナ人の死者は、兵士や民間人合わせて、八百万人から一千四百万人と推定され、大戦中の最大の犠牲者を出した民族とされます。ウクライナ人の五人に一人が死んだ計算となります。ドイツが約五百万人の犠牲者、日本が約三百万人の犠牲者ということと比較しても、ウクライナの被害がどれほど甚大であったかがわかります。

一般的な統計では、ウクライナ人の犠牲者は「ソ連の犠牲者」として表記されるため、気付きにくいのですが、「ソ連の犠牲者」の多くがウクライナ人です。つまり、このことは、ソ連軍が危険な前線にウクライナ兵を意図的に投入し、ドイツ侵攻の際、ウクライナの民間人が危険に晒されても、守らなかったということを意味しています。世界史の中で、これ程の多数の犠牲者を一度に出すような経験をした民族はウクライナ人だけです。

一九五三年、スターリンが死ぬと、ウクライナ懐柔政策がはじまります。ソ連によって懐柔されたウクライナ人は法外な給与が支給され、飼い慣らされ、特権化します。一方、多くのウクライナ農民はスターリン時代と同じく、搾取され続け、貧困に喘(あえ)いでいました。

一九七一年、キエフの北百十キロ、ウクライナ北部に位置するチェルノブイリ市近郊で原子力発電所が建設されはじめます。ソ連は原発をウクライナに置くことを一方的に決定し、周辺のウクライナ人に何の説明もないまま、一九七八年、原子炉を稼働させます。そして、一九八六年四月二十六日、チェルノブイリ原発事故が発生しました。弱い立場のウクライナ人が原発の負の側面を全て、引き受けさせられたのです。

出口の見えないウクライナの混乱

一九九一年、ソ連崩壊とともに、ウクライナは独立しました。独立後、西部ウクライナ人と東部ロシア系住民との対立が表面化します。東部ロシア系がロシアの支援を背景に、豊富な資金力で勢力を拡大し、固い団結をしているのに対し、西部ウクライナ人は利害の調整が進まず、一枚岩になっていません。

ロシア系住民の多い東部はドネツク州を中心に、ウクライナからの分離独立を目指し、武装勢力を結成します。ウクライナ東部には、資源採掘地や重化学工場が集中しています。東部の分離を認めると、西部はそれらを全て、失ってしまいます。

二〇一四年、マイダン革命(後段詳述)の勃発とともに、ウクライナ東部で、ロシア系住民とウクライナ人との対立が激化し、ウクライナは内戦状態になります。ロシアのプーチン政権は住民保護という名目で、ウクライナに軍事介入しました。

この混乱の中、ロシアはウクライナ南部のクリミア半島で、ロシア系住民のデモを煽り、意図的に混乱を引き起こし、軍事介入の口実をつくります。そして、住民投票を経て、二〇一四年三月十八日、クリミア半島をロシアへ編入しました。ロシアにとって、クリミア半島の奪還は歴史的悲願でした。十九世紀のクリミア戦争での激闘の舞台となった歴史的因縁の地セバストポリで、クリミア帰還の大祝典が行われました。

ロシアにとって、今も昔も、クリミア半島は死活的に重要な戦略拠点です。ロシアは現在、クリミアに基地を置き、黒海全域の制海権を握り、西方のバルカン方面、南方のトルコ、ジョージア(グルジア)、アルメニア方面に睨(にら)みを効かせています。

クリミア半島併合後も、ロシアはウクライナへの介入を強め、親ロシア派を支援し、内戦が激化しました。ウクライナ人とロシア系住民は言語も宗教も近い同じ東スラブ民族ですが、互いに殺し合い、多くの犠牲者が出ます。

ウクライナ問題は、ウクライナ人の迫害の歴史から生じているロシア人への激しい憎悪とも深く関連しており、感情的にも、妥協できないのです。その後も、ウクライナ政府軍と親ロシア派による戦闘と停戦を繰り返し、今日に至ります。

ロシアのプーチン政権は二〇一四年から続く紛争をウクライナ人同士の「内戦」と位置付けていました。二〇二二年、プーチン大統領はウクライナ東部の親ロシア派の独立を承認し、彼らの要請に基づき、軍事介入をしました。ウクライナ軍は善戦し、首都キエフを守りましたが、ウクライナ東部はロシアの事実上の支配下にあります。

ロシアとの確執、ゼレンスキーに至るまで

ゼレンスキー政権以前のウクライナもまた、様々な問題を抱えており、今日の問題はこうしたことの延長上にあります。ゼレンスキー大統領以前に、ユシチェンコ(二〇〇五~二〇一〇年)、ヤヌコーヴィチ(二〇一〇~二〇一四年)、ポロシェンコ(二〇一四~二〇一九年)の三人の大統領がいました。

ユシチェンコ(ユーシェンコ)は中央銀行総裁時代にインフレを抑制したことで、国民の支持を獲得し、首相を務め、最終的に大統領となります。二〇〇四年、大統領選挙の際、ダイオキシン毒を何者かに盛られ、顔が一変したことで知られます。ユシチェンコは親露派の与党候補ヤヌコーヴィチと選挙戦を戦っており、敗北と伝えられたものの、ヤヌコーヴィチ陣営の不正疑惑が発覚します。民衆が抗議行動を起こし(オレンジ革命)、同年、再選挙が実施されました。

この再選挙で、ユシチェンコが勝利します。ユシチェンコは民主化・西欧化を進めますが、首相のティモシェンコ(「美しすぎる首相」として知られる)と次第に対立をするなどして、内政を混乱させ、二〇一〇年の大統領選挙で敗退します。

ヤヌコーヴィチはティモシェンコとの決選投票で勝利します。ヤヌコーヴィチは親露政策を進め、EUとの連合協定締結の署名を撤回し、西側諸国と距離を置こうとします。

二〇一三年末、これに反発した野党や市民が抗議デモを起こします。ヤヌコーヴィチは武力鎮圧をしたため、デモは過激化しました。一部の過激化した勢力が武装闘争を展開し、キエフは騒乱状態になります。これは「マイダン革命」と呼ばれます。「マイダン」はウクライナ語で「広場」の意味で、キエフ独立広場で行われた反政府デモが発端となっているため、こう呼ばれます。民衆の武装闘争は過激化し、ヤヌコーヴィチは二〇一四年二月にキエフを脱して、ロシアに亡命します。

この混乱の隙を突くかたちで、ロシアは三月にクリミア半島に侵攻します。また、ロシアはウクライナ東部のドネツィク州とルハンシク州の一部におけるロシア系住民と呼応して、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」というかたちで、ウクライナから分離独立させます。ウクライナは事実上の内戦状態に陥ります。

この混乱の中で行われた大統領選挙に勝利したのがポロシェンコです。ポロシェンコはユシチェンコ政権やヤヌコーヴィチ政権で外相や経済相を務めた実力者で、その実務的な手腕が評価されて、ティモシェンコに大差をつけて当選しました。

ポロシェンコは内戦状態になっている国内をまとめなければなりませんでした。ポロシェンコは強大な軍事力を誇るロシアと直接対決する路線をとらず、構造改革によって経済を向上させて、国内を立て直し、EUと北大西洋条約機構(NATO)加盟を目指す路線を歩みます。

二〇一五年、ドイツとフランスの仲介によって、ポロシェンコはロシアとミンスク合意を結びます。この合意は、ドンバス地方の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」 に自治権を与えるとするもので、親露派の多い同地域の事実上の分離独立を認めたと言っても過言ではない合意でした。ポロシェンコはロシア軍の更なる攻撃を防ぐために、ロシアに譲歩するしかなかったのです。しかし、国内からは批判に晒されました。

また、ポロシェンコ政権の改革は、汚職が原因でほとんど進みませんでした。政権の要人らは「オリガルヒ」と呼ばれる産業・金融界を支配する少数の新興財閥と癒着しており、彼らの利権のためにだけ動きました。オリガルヒは前政権のユシチェンコ政権やヤヌコーヴィチ政権の中枢にも食い込んでいました。「オリガルヒ」の言葉は「寡頭制」を意味するギリシア語の「オリガーキー」に由来します。オリガルヒは一九九〇年代のソ連崩壊後に、国営企業の民営化で莫大な利益を得て、急成長し、ロシアだけでなく、ウクライナでも多く生まれました。

ウクライナのオリガルヒとして有名なのが、リナト・アフメトフとイーホル・コロモイスキーらです。アフメトフはエネルギーやガス、農業、メディア、通信などの事業を手掛けており、コロモイスキーは石油ガス、銀行、国営メディア、化学や冶金、輸送などを手掛けています。

二〇一九年の大統領選挙で、俳優出身のゼレンスキーが立候補し、こうしたオリガルヒと政権の癒着を厳しく糾弾して、支持を拡大し、圧勝します。

ところで、コロモイスキーは今年、ロシアのウクライナ侵攻の際に、ロシアから「ネオナチ」と批判されて有名になったアゾフ大隊に資金提供していることでも知られています。他にも、ドニプロ大隊やアイダール大隊などの国粋主義組織に資金提供をしています。コロモイスキーはユダヤ人です。

これまで、ポロシェンコ政権などはオリガルヒと強く癒着し、協調体制が取られていましたが、ゼレンスキー大統領の登場で、そのような協調体制が崩れ、ウクライナ内政に混乱が生じたところを、ロシアに狙われたという側面もあります。ロシアはウクライナを少し突くだけで、内部から自壊するだろうと考えていたかもしれません。

いずれにしても、ウクライナの惨状は目を覆うばかりです。しかし、「人がたくさん殺されている。可哀想だ」という発想は所詮、他人事の発想です。「人がたくさん殺されている。次は自分が殺される」という発想に立つべきです。「自分が殺される」という切迫によってはじめて、我々は自らの防衛のための行動へと駆り立てられるからです。

しかし、言論人や政治家の発言は同情論ばかりです。これで、日本をどうやって守ることができるのでしょうか。

「ウクライナ熱烈支援」ポジションをとる言論人や政治家は圧倒的多数の人々の感情に迎合して、「正義の正論」を吐いていれば拍手喝采です。しかし、彼らはそのような直情論によって、「なぜ、弱者が強者に付け込まれるのか」という、現在の日本にとっての最大の問いに、我々が向かい合う機会と試練を失わせています。

こうした言論人と政治家たちは、中国が日本に攻めてきても、「中国が悪い」という「正義の正論」を吐き続けるでしょう。それが何かの役に立つとでも考えるのでしょうか。踏み潰されるだけのことです。

今、日本に必要なのは、「ウクライナのようになるな」、「ウクライナのようにならないためにはどうするか」という呼び掛けではないでしょうか。

※  日本政府は三月三十一日、ウクライナの首都キエフの名称表記について、ロシア語発音から、ウクライナ語の発音に基づくキーウに変更すると発表しました。しかし、世界中に、現地発音と異なる地名の英語表記、ドイツ語表記、スペイン語表記などは多くあります。

二〇〇八年に「グルジア」が「ジョージア」に変わったことがありました。これは、グルジア侵攻で、グルジアがロシアと国交断絶し、それまでロシア語読みであった国号の「グルジア」の読み方を変更し、英語読みの「ジョージア」と改め、彼らがその変更を国際社会にも求めたからです。

今回、ウクライナからそのような要請はありませんでしたので本記事では、従来の表記で統一させて頂きました。(著者)