今回は、城外西方の常磐神社と偕楽園を歩きます。
常磐神社
常磐神社は義公徳川光圀(高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと))と 烈公徳 川斉昭( 押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと))を祀る神社です。明治七年(一八七四)に遷座祭が行われ、明治十五年に別格官幣社となりました。水戸駅北口のバス停から偕楽園へのバス路線はいくつかありますが、ここでは関東鉄道バスで偕楽園駅までまいります。バスを降りると、大きな鳥居があり、その傍らに常磐神社の神田があります。そこには農人形像が建っています。御祭神の烈公が、農民への感謝をささげようと考案したもので、台座には、
恵まぬ民にめぐまるる身は
と詠まれた和歌が彫られています。
大きな鳥居を潜(くぐ)って階段を上ります。拝殿前の左手には烈公のブレーンとして活躍し、幕末の志士たちから「水戸の東湖先生」と仰がれた藤田東湖を祀る摂社東湖神社(昭和十八年創建)があります。
正面の拝殿で参拝してから社殿の左へ廻ると、末社として義公誕生の恩人三木之次(ゆきつぐ)を祀る三木神社があります。社殿裏手には「仰景碑(ぎょうけいひ)」があります。烈公の愛民の治世に報いようと御陰(みかげ)講を結び日々の仕事に励んだ人々、常磐神社創建後には、講の浄財で神社の背後に三千本の杉苗を寄進し、社に奉仕した講員や子孫の人々を顕彰した記文が刻まれています。
拝殿の東に隣接する博物館「義烈館」は、義公・烈公両公を中心とした手蹟や遺品、『大日本史』の刊本、追鳥狩の合図に使用された大型の陣太鼓、追鳥狩絵巻、烈公設計の太極砲(七十五門の内の一つで、他の七十四門はペリー来航の年、江戸湾防備のために幕府へ献上された)などを中心として、水戸の歴史が編年的にわかるように展示されています。現在は、拝観には十名以上の方に限り、事前予約制になっています。
偕楽園
偕楽園は、弘道館記で日々の学問・鍛錬に緊張し疲れたときは、心を癒(いや)し、弛(や す)まる場があってもよいとして造られたものです。城下西方の端に築かれたもので、出城的防備の砦(とりで)とも言われています。天保十三年(一八四二)に完成し、名の通り「民と偕(とも)に楽しむこと」を目指したものです。
烈公はそのことを「偕楽園記」の中で次のように示しています。
弓に一張一弛(いっし)有りて而して恒(つね)に勁(つよ)く、馬に一馳(いっち)一息ありて而して恒に健(たけ)し。弓に一弛無ければ則ち必ず撓(たわ)み、馬に一息無ければ則ち必ず殪(たお)る。是れ自然の勢なり。
弓術にも馬術にも「一張一弛」あり、人の生き方にも「一張一弛」が大切であるとあり、弘道館と偕楽園との位置づけを示しています。
偕常磐神社の境内を西側へ向かうと偕楽園の入園券販売所と東門入口があります。今回は園に込められた陰陽の世界を味わうために、表門から入ってみましょう。表門へは、北へ続く杉並木をぬけ、その先の十字路を左折して好文亭表門道を進みます。この間約五分です。
表門から入ると杉林と竹林に入り、右手に杉木立と熊笹、左手に竹林が群れ、さながら京都奥嵯峨の道を思わせる幽玄の世界を味わうことができます。
途中の坂道を下れば、巨大な太郎杉と寒水石で造られた吐玉泉(とぎょくせん)があり、対面の桜山の裾にある玉龍泉と対象となっています。

再び坂を登ると、右手には好文亭が現れます。梅の別名「好文木」から命名されたもので二層三階建て、一階から三階まで釣縄式(つりなわしき)で配膳台を引き上げる手動式エレベーターがあり、また、藩主の御座の間である三階の楽寿楼(らくじゅろう)東側の明障子(あかりしょうじ)は、三枚が一手で連結して閉められるなど、随所に烈公のアイデアが施されています。
烈公は、この好文亭に高齢者を招いて敬老会も開いています。
杮葺(こけらぶ)きの門を出ると視界が開け、数百種、数千本の梅花を楽しむことができます。
烈公は「偕楽園記」の中で、梅花は天下の春に魁けて咲き、芳香を醸かもし出す。その実は軍旅や飢えの支えともなるとも言っています。ここに烈公の先憂、非常への備えの一端を知ることもできます。
偕楽園記碑の左後方に「青莪(せいが)遺徳碑」があります。最後の将軍徳川慶喜公のブレーンとして活躍した水戸藩士原市之進(青莪は号、塾の名)の顕彰碑です。慶喜公の開国策を支持し、兵庫開港を計った理由で幕臣に斬殺されます(三十八歳)。水戸の秀才がまた一人消えました。
この偕楽園は池はつくらずに、南側に広がる千波湖が借景となっています。西には烈公が桜をたくさん植えて桜山と称し一遊亭を設けた所があります。梅の偕楽園と結び付けた休養所でもありました。現在は茨城縣護國神社が建てられています。その南には円形の小高い台地が見えます。義公が尊敬した東晋の詩人陶淵明(とうえんめい)(三六五~四二七)を祀った淵明堂跡です。その右手の高台の森一帯は緑岡と呼ばれ、義公は高枕亭(こうちんてい)と名付けた茶室を設けて
いました。さらに、森の中には水戸徳川邸があり徳川ミュージアムがあります。神社下には「もみじ谷」、千波湖西側には田鶴鳴梅林「たずなき梅林」が広がり、四季折々楽しむことができます。
偕楽園の南崖下を下ると「大日本史完成の地」の碑が建っています。ここに彰考館が城中から移転され、編さん開始から二百六十九年後の明治二十九年に四百巻からの『大日本史』が完成したのでした。一つの藩の事業として継続され、最後は水戸家の私的事業として継承され完成させた意義は他に類を見ない偉大なものといえます。
また、烈公は、水戸藩内の景勝の地を八か所選んでいわゆる「水戸八景」を選定しています。全体をめぐると約九十キロメートルあり、武士の心身の鍛錬にもと、めぐりが奨励されました。その一つ「僊湖莫雪(せんこのぼせつ)」の碑が公園の南崖に立っています。園から眺める夕暮れの千波湖、ことに雪の日はたとえようもない情感を人々の胸に呼び起こしてくれたことでしょう。
この碑から崖に沿って西に少し行くと正岡子規の詠んだ俳句の碑が建っています。明治二十二年に来水して偕楽園内を楽しみ、崖を眺めた感慨を、

梅ことごとく 斜めなり
と詠みました。
偕楽園は、烈公が幕府から処罰を受けて引退した後、来水した吉田松陰が「これがあの偕楽園か」と驚き嘆かれたほどの大変な荒れ方でしたが、東南面の千波湖を借景とした偕楽園は、今日では、園内の芝生や梅林、ツツジや萩をはじめ西の桜山に紫峰筑波山の遠望と四季折々楽しめる名園となっています。
これまで、烈公の精神を生かして無料開放していましたが、県外の方は三百円、春の梅まつりと秋の萩まつりの期間は県内の人々も有料となりました。これにより一段と美観を増す工夫が施されつつあります。今日では、目の前を常磐線が走り、周囲も開発されて大きく変化していますが、往時の情感を十分に想起させてくれるものがあります。
次回は、新屋敷界隈を歩きます。
