松陰先生の授業『武教全書講録』を読む(七)

 秋山智子

第六章 財宝器物

この章では、「倹吝(けんりん)の弁(べん)」(倹約(けんやく)と吝嗇(りんしょく)の相違)を知ってほしいと、吉田松陰先生は言われます。

まず、世間では、倹約の一段強いのが吝嗇(りんしょく)と考えているようだが、倹約と吝嗇とは明らかに異なる二つのものとして、その違いを次のように説明されます。

「倹」は「義(ぎ)」に主眼があり、「公(おおやけ)」に通じます。自分の生活に用いる衣食財器を倹約して貯蓄に回し、主君のために用立てたり、朋輩(ほうばい)の苦難を救ったり、貧しい人々に恵んだりするのが「倹」です。「吝」は「利(り)」に主眼があり、「私(わたくし)」に通じます。人に与える衣食財器を出し惜しみしたり、人より少しでも多く取ろうと、邪欲深く悪知恵を働かせたりするのが「吝」ですが、結局は贅沢な生活や飲食のために使うか、あるいは守銭奴(しゅせんど)となって死ぬかのどちらかです。この「倹」と「吝」の相違については、すでに古人が論じ尽くしていますが、私(松陰)になお時間の余裕があれば、『倹吝弁』という本を作り、古今の事例を列挙して、両者の似て非なるところを解説したいと考えています。

たとえば、前漢の文帝(ぶんてい)と後漢の光武帝 (こうぶてい)は「倹」というべきで、後漢の霊帝(れいてい)と唐の徳宗(とくそう)は「吝」というべきです。また、織田信長は力角(すもう)の賞品には焼き栗三個を用いましたが、将士の功績に報いるには、国や郡の領地を惜しむことなく与えています。黒田孝高(くろだよしたか)(如水(じょすい))は、ふだんは魚肉を味噌漬けにして保存するような倹約家ですが、日根野備中(ひねのびっちゅう)が借金を返そうとしても辞退して受け取りませんでした。そのほか、青砥藤綱(あおとふじつな)が川に落とした十文の銭を探すために松明(たいまつ)を買い求めたという逸話もあれば、岡左内(おかさない)が金銀を集めるのを日常の楽しみとしながら、いざという時にはその金銀を主君に献納したり朋輩にふるまったりしたという話もあります。いずれもよく倹約と吝嗇の相違を示していると言えます。このような佳話(かわ)は古今に多くありますので、右の本の中に採録したいと思っています。これもまた、少しは先師(山鹿素行)の遺志を継ぐことに役立つでしょうか。

松陰先生は多くの事例を挙げておられますが、この中から、青砥藤綱の逸話を紹介したいと思います。

青砥左衛門(あおとさえもん)(藤綱)は北條時宗(ほうじょうときむね)・貞時(さだとき)に仕えた武士です。ある夜、出仕する時に十文の銭を川に落としてしまいました。そこで、五十文の銭を支払って十束の松明(たいまつ)を買い求め、これに火をともして十文の銭を探し当てました。後日、人々はこの話を聞いて「小利大損」と笑いましたが、青砥左衛門は眉をひそめて言いました。「川に落ちた十文の銭は、探さなければ永遠に天下から失われてしまう。私は五十文の銭を払って松明を買ったが、この五十文は商人の利益となって天下に留まっている。つまり、全部で六十文の銭が天下から失われることなく残ったのだから、私の行為は天下の利益になったと言えるだろう」と。その私心の無さに、人々は感嘆したといいます。

この逸話を含め、青砥左衛門(藤綱)の人柄については『太平記』(巻三五)に載っています。また、岡左内は蒲生氏郷(がもううじさと)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた武士です。「岡野左内(おかのさない)」という名前で、『常山紀談(じょうざんきだん)』(巻一六)にその逸話が載っています。興味のある人は読んでみてください。

さて、松陰先生は次に、「武教小学」の「士たるの道は、身を主君に委(ゆだ)ね、死を全道(ぜんどう)に守る」(武士の道は、己れの一身を殿様に預け、道義を全うするため、決死の覚悟で物事に臨むことにある)という文言から、「死を全道に守る」という言葉を取り上げて説明されます。

この言葉は、『論語』(泰伯(たいはく)篇一三)にある語句から出たものです。この語句は、現在では「篤(あつ)く信じて学を好み、死を守りて道を善 (よ)くす」(心から信じて学問を好み、命を懸けて道を善いものにしていく)と読むのが一般的です。しかし、平泉澄(ひらいずみきよし)博士によれば、建武(けんむ)の時代(一三三四~三七)には「信(しん)に篤(あつ)くして学を好み、死を善道(ぜんどう)に守る」(信義に篤く、学問を好み、死んでも人としての正しい道を守りぬく)と読むのが正統的読み方であったとされます。実際、『太平記』巻一六「正成兄弟討死(まさしげきょうだいうちじに)の事(こと)」の条にも、「智仁勇(ちじんゆう)の三徳(さんとく)を兼ね備え、死を善道に守ったという意味において、古より今に至るまで、楠正成ほど立派な武者はかつて無かった」と書いてあります(『平泉澄博士神道論抄』の「神徳」より)。

この「死を全道に守る」という言葉に対する松陰先生の説明は、次のようなものです。

「死を守る」とは、軽率に死を選ぶのではなく、死の覚悟を持ち続けることです。「全道」と「善道」は同じ意味です。武士の一死は、ある意味では泰山(たいざん)よりも重く、ある意味では鴻毛(こうもうよりも軽くあるべきです。世の中を善くし道義を全うするためには、惜しむことなく一命を差し出すが、常日頃の小さな私憤に対しては忍耐強く自制する。そのようにして、忠孝の大節を世に顕(あらわ)すのです。大節において少しでも欠けるところがあれば、たとえ潔く死んだとしても、「全道」とは言えません。

武士たる者は、元日から大晦日(おおみそか)まで、朝も昼も夕方も夜も、動いているときも静かにしているときも、話しているときも黙しているときも、道義のために身を投げ出すだけの覚悟を定め、己(おの)が一死を常に心の上に置き、その上で、軽率に死なぬよう戒めながら身を持していくのです。譬(たと)えて言えば、元気の良い馬が駈け出さないように引き留めて立たせているようなものです。このように、真に心に一死を覚悟している人でなければ、「守」という一字の意味は理解できません。

南燕(なんえん)の封孚(ほうふ)は「行年(こうねん)七十、惟(た)だ死所を求むるのみ」(生きること七十年、ただ死に場所を求めてきただけである)と述べています。「求」の一字と「守」の字を照らし合わせて、その深い味わいを悟ってください。

封孚は南燕(五世紀初め、中国北部に興亡した五胡十六国の一つ)の政治家です。皇帝に諫言(かんげん)をして怒らせましたが、謝るように勧められても断りました。授業で紹介されたのは、その時の言葉です。皆さんも自分の身に照らして、その勇気と生き方に思いを馳せてください。

武士は道義のためには命を惜しみませんが、それ以外の時には、無駄に命を失わないよう注意しなければなりません。何が道義にかなう行動であるかを判断するためには学問が必要です。公私の別をわきまえることも重要です。死を全道に守ることは、志士仁人でなければ実践できることではありません。

人命の尊重が第一に優先される今日において、この授業の意味を理解することは難しいかもしれません。しかし、これは武士道を学ぶ者にとって重要な教えです。『孟子』にも「其の道を尽くして死する者は、正命(せいめい)なり」(尽心上篇二)という言葉があります。昔の人は死を軽んじたのではありません。大義をわきまえた上で、死すべき時を大切にしたのです。

第七章 飲食色欲

この章は短いので、『武教全書講録』の全文(意訳)を掲載して、松陰先生の授業の紹介といたします。

この第七章を繰り返し読んでよく味わい、武士道の何たるかを悟ってください。私(松陰)の考えでは、それは、一飲一食から男女の寝室に至るまで、一瞬たりとも武士としての家業を忘れぬことです。武士というのは、ひとたび君命を受ければ、今すぐにでも槍をひっさげ馬にまたがって、火の中、水の中にも駆け込まねばならぬ身分です。したがって、飲食や男女の欲をほしいままにして病気になったり、怠惰な生活を送ったり、根性を弱くしたりしては、武士道がおろそかになります。

私(松陰)に一人の友人があります。非常に飲酒を好む人でしたが、官吏になったとき、すこぶる自重してその身を取り繕(つくろ)い、飲酒を慎みました。ある才人がこれを嘲(あざけ)って「俗っぽい態度だ」と評しましたが、私は次のように述べて、友人を弁護します。

飲酒を慎むのは非常に良いことです。公務というものは、いつ何事が起きるか予測できません。そのようなときに酒が入っていると、あるいはそそっかしくなったり、あるいは眠気をもよおしたりして、どのような失敗をしでかすか分かりません。これは平士(へいし)(役付きでない普通の身分の武士)でさえ注意すべきことです。ましてや官吏として役職を担う身であれば、酒を慎むのは当然のことです。ただし、于定国(うていこく)(前漢の人・司法官)のように、「大酒を飲んでも乱れることなく、冬の夜に請願訴訟の事務を処理し、飲酒してますます頭脳明晰(めいせき)である」というのなら、酒を飲むのも非常に善いことです。しかし、もしそうでないなら、酒を慎むにこしたことはありません。

これに関連して思い出すのが、『日本外史(にほんがいし)』(巻四)に載っている北条泰時(ほうじょうやすとき)の逸話です。泰時は和田義盛(わだよしもり)を破(やぶ)り、酒盛りをして諸将をねぎらいましたが、そのとき皆に向かって言いました。「私(泰時)はもう酒は飲みません。昨夕の酒宴に同席したところ、明(あ)くる日に反乱が起こりました。私は鎧甲(よろいかぶと)を着けて馬に乗ったのですが、酔いが残っていて大変でした。そのときに思ったのです。今後は禁酒しようと。その後、刃(やいば)をまじえること数十度、喉(のど)が渇(かわ)いて水を求めました。すると、葛西六郎(かさいろくろう)が酒樽を持ってきて酒を勧めたので、私はすぐさまこれを飲んでしまいました。なんという節操のなさでしょうか。よって、私は決めたのです。今度こそ酒は飲みません」と。

泰時もまた、武士道に心得のある人と言うべきでしょう。

ある人が質問しました。「それなら、武士たる者は、枯れ木のような心で悟りすましていればよいのでしょうか」と。

私(松陰)は、「それはまったく違います」と答えます。枯れ木のような心で悟りすまし、何事に対しても無感動・無気力となっては、どうして武士の勤めを果たすことができましょうか。その心は生き生きと活発、身体は強く健康、飲食や男女の欲はあってもそれに溺れることなく、心をゆるがすこともない。このようであってこそ、真の武士といえるのです。

もし、立派に身を修めて家庭を営み、農工商三民の手本となるようであれば、それは武士の心掛けとして最上のものであり、それこそが、この第七章で何よりも伝えたいことなのです。