平泉澄博士の『革命論』について

濱田浩一郎 /歴史家・評論家

平泉澄博士には『革命論』(文部省、一九三四年)の著作がある。文部省(学生部)が発行する「思想問題小輯の六」として刊行されたものであるが、私の手元にあるその小冊子(四十頁)の見開きには昭和九年三月として「本小輯は思想問題に関し、教育関係者の参考に資することを目的として編輯したものである。本篇は東京帝国大学助教授、文学博士平泉澄氏の執筆に係るものである」との文字が見える。革命思想=共産主義思想、赤化学生の蔓延を防止するため、全国の学校教員に向けて書かれたものであろう。文部省から博士に執筆依頼があったものと思われる。同書は「革命論」と題されているが、革命を鼓吹するものではなく、当然、革命の不可なることを説いたものである。

博士は、同書冒頭、南北朝時代に生きた兼好法師が著した『徒然草』の一節を掲げる。「主ある家にはすずろなる人、心のままに入りくることなし。あるじなき所には道行人みだりに立ち入り、狐梟やうものも、人げにせかれねば、所えがほに入りすみ……」。

法師曰く、主人ある家には見ず知らずの人が入ってくることはない、しかし主人なき家には通行人がみだりに入り込み、狐や梟(ふくろう)のようなものまで我が物顔で住みつくものだ。

博士は、この法師の言葉を掲げて言う。「兼好法師、いみじくも道破したるものかな、斯の言。まことに主ある家にはすずろなる人入り来る事なく、ほしいままに妄想の入り来るは、心に主のない為である」と。文中の「妄想」とは、この場合は、共産主義思想、革命思想のことだろう。つまり、博士は心にそのような危険思想が入り込むのは、その人の心に一本の柱が、筋が通っていないからだと説かれているのである。

故に、博士は人心に一本の柱を通すために、同書を記されたのだ。戦後の歴史学者・今谷明氏(帝京大学特任教授。『室町の王権』の著作がある)は、博士の『革命論』について、その論稿「超国家主義者・平泉澄と皇国史観」(『天皇と戦争と歴史家』洋泉社、二〇一二年)で若干の批判・批評を展開しているが、その中で「平泉の革命論は期待はずれでした。なぜマルクスの批判をやらなかったのかというのが、私の結論です」「マルクス、エンゲルスの批判をやればいいと思うのですが、ぜんぜんしていない」と述べている。

しかし、今谷氏のこの文章は、二重の意味で誤りだと思う。一つは、博士は同書のなかで、分量多しと言えないが、マルクス批判をしているからだ。二つは、博士はマルクス批判のために同書を執筆したわけではないということである。博士の執筆意図は、前述したように、日本国民の心に精神的支柱を打ち立てることなのだ。では、同書のマルクス批判の部分を示そう。

誤れる史観は、即ちマルクスに端を発する唯物史観である。唯物史観に於いては、個人の力を認めずして、社会民衆の動きを見、しかも精神を認めずして物質をのみ考へ、そのうち特に生産関係を重大視し、その物質的生産関係こそ社会的発展の衝動力であつて、歴史は自然と同じく法則によつて支配せられるものであるとするのである。かやうに歴史の進行に人殊には個人の意志を否定して、その背後に必然的衝動力を認める点は、讖緯(しんい)の学や末法説の必然的運命観と相通ずるものがあるのである。この史観を奉ずるものは、それを以て日本の歴史を見直し書き直さうとした。而してその見方によれば日本にはこれまでも度々革命があつたのであり、近くまた革命が起らねばならないとするのである。即ち大化の改新も革命であり明治維新も革命であつたとするのである。(中略)此の説の妄誕取るに足らざる事は、儼然たる国史の事実が證明するところである」(同書二十九頁から三十頁)。

マルクスそしてマルクス史観を奉ずる者にとって、これほど簡にして要を得た批判はないと思うのだが、読者諸賢はどう感じるであろうか。博士のこの批判は、戦後のマルクス史観批判にも通ずるものであろう。昭和三十年(一九五五)、いわゆる「昭和史論争」というものが起った。左派の学者である遠山茂樹・今井清一・藤原彰の諸氏が『昭和史』との新書を岩波書店から刊行したが、その書物に対し、文芸評論家の亀井勝一郎氏は「人間が描かれていない」として批判したのである。この亀井氏の批判は、博士の『革命論』中の「歴史の進行に人殊には個人の意志を否定」とのマルクス史観批判と同類のものであろう。戦後長きにわたり、マルクス史観は歴史学界を呪縛したが、それも社会主義国の崩壊が進むにつれて、解放されてきた。その時、左翼学者からもマルクス史観批判が多数登場したが、その一つは、教条的な同史観を非難するものではなかったか。「歴史は自然と同じく法則によつて支配せられるものである」ことを誤りとする博士の『革命論』は、戦後のマルクス史観批判の先駆として位置付けることも可能であろう。

ちなみに、博士は『革命論』刊行以前の論稿「国史家として欧米を観る」(昭和六年)、「民族の特異性と歴史の恒久性」(昭和七年、共に、後に『平泉博士史論抄』所収)でも「最近に多くの世界史家はマルクス流の考へを取り入れて、世界を一つの赤色で塗り潰さうとしてゐるが、是等は何れも現実には成り立たないもので、其の学的価値に至つても、常に第二義的、第三義的である」とマルクス史観に反対の立場を示している。博士はマルクス史観のどこがおかしいかを的確に掴んでいたと言えよう。

さて、歴史学者・今谷氏は、前掲論稿において「当時の労農派の学者が唱えていた明治維新ブルジョア革命説を批判しているのですが、その批判のしかたがちょっと妙というか、変わっています。労農派説の批判になっていない。山崎闇斎の革命論をもってくるわけです。山崎闇斎とか浅見絅斎とか若林強斎という江戸時代の学者の説をもってきて、明治維新というのは革命運動ではないといっています。闇斎などの革命批判を引用して労農派を批判するのですが、そこが批判になっていない。このへんが平泉思想の弱いところだと私は思うのです」と、またもや博士の『革命論』を批判している。博士が同書において、江戸時代初期の学者・思想家の書物や思想を引用して革命批判を展開しているのは、事実である。

博士は、山崎闇斎の思想において殊に重要な点は「王臣たるものが、主君を放逐し、もしくは征伐して取つて代つて王となる事は、其のいかなる事情あるにせよ、到底ゆるすべからざる事として一律に之を排斥した」ことであるとしている。また、闇斎の弟子・浅見絅斎の思想も「絶対に革命を非」としていたと記されているし、幕末の思想家・吉田松陰においても、皇室を尊崇し、革命否定の思想を持っていたとする。故に博士は同書の末尾付近において「革命は我が国には未だ曾てありし事なく、又将来永遠にあるべからざるものであり、先哲の努力は我が国に革命あらせじとしての努力であつたのであり、我等またいかなる犠牲を払つても断じて革命あらしめてはならないのである」と論じるのである。

明治維新を牽引した学問思想に崎門学(山崎闇斎の学派)があるが、それは尊皇思想に貫かれたものであった。よって、明治維新は、王室を否定する革命にあらずとする博士の見解は、今谷氏の言うような的外れなものであろうか、私にはそうは思われないのだが。第一、明治維新において、フランス革命やロシア革命のように、王室が打倒されたならば、それは革命であったろうが、現実には皇室は厳然として存在し続けているのであって、博士の主張するように、これを革命と定義するのは明かな誤りであろう。近年においても、幕末の志士・西郷隆盛を「革命家」と表記する公共放送のネットサイトがあったが、西郷を「革命家に覚醒」などと記すのも、間違いなのである。

さて、では博士はなぜ、革命を不可と説くのか。同書においてはそれを、「革命は歴史を亡ぼし、国家の命脈を断つもの、人はここに其の伝統を失つて、人格としての誇、泥土に委し、単なる偶然的存在に堕するのである」「革命は伝統を否定し、過去を敵視し、これに反逆し、これを破壊するものである」とする。博士のこの言。フランス革命やロシア革命、そして戦後の中国の文化大革命など諸々の革命の現実を直視する時、胸に迫るものがあるではないか。それら革命において、如何に多くの人命が失われ、歴史的建築物の破壊も行われたか。それを考える時、革命不可とする博士の『革命論』は、益々、重みをもって、読まれても良いのではないかと思うのである

註  博士の『革命論』は、博士著『先哲を仰ぐ』(錦正社刊)に収載されてゐる