巻頭言

九月号巻頭言『油 断 大 敵』解説

市村真一/ 京都大学名誉教授

日本は今ピンチの真只中だ。一寸やそつとではない。元首相が、白昼衆人の面前で狙撃され殺戮されても、誰も責を負はない。それで国葬だと言ふ。それほどの政治家を軽く扱つてよいのか。身辺警護はたるみ、治安は維持されてゐない。文明国なのか。

この態度と日露戦争に勝つた時の、以下の「連合艦隊解散の辞」と現状との大差に私は愕然とする。まさに「油断大敵」である。

連合艦隊解散の辞

二十閲(えつ)月ノ征戦已ニ往時ト過ギ、我ガ連合艦隊ハ今ヤ其ノ隊務ヲ結了シテ茲(ここ)ニ解散スルコトトナレリ。然レドモ我等海軍軍人ノ責務ハ決シテ之ガ為メニ軽減セルモノニアラズ。此ノ戦役ノ収果ヲ永遠ニ全ウシ、尚益々国運ノ隆昌ヲ扶持センニハ、時ノ平戦ヲ問ハズ、先ヅ外衝ニタツベキ海軍ガ常ニ其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急ニ応ズルノ覚悟アルヲ要ス。而シテ武力ナルモノハ艦船兵器等ノミニアラズシテ之ヲ活用スル無形ノ実力ニ在リ。

百発百中ノ一砲能(よ)ク百発一中ノ敵砲百門ニ対抗シ得ルヲ覚(さと)ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。近ク我ガ海軍ノ勝利ヲ得タル所以(ゆえん)モ、至尊ノ例徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑(そもそも)(また)平素ノ錬磨其ノ因ヲ成シ、果ヲ戦役ニ結ビタルモノニシテ、若(も)シ既往ヲ以テ将来ヲ推ストキハ、征戦息(や)ムト雖モ安ンジテ休憩ス可(べ)ラザルモノアルヲ覚ユ。惟(おも)フニ武人ノ一生ハ連綿不断ノ戦争ニシテ、時ノ平戦ニ由リ其ノ責務ニ軽重アルノ理無シ、事有レバ武力ヲ発揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其本分ヲ尽サンノミ。過去一年有半、彼ノ風涛(ふうとう)ト戦ヒ、寒暑ニ抗シ、頑敵ト対シテ生死ノ間ニ出入セシコト、固(もと)ヨリ容易ノ業ナラザリシモ、観ズレバ是レ亦長期ノ一大演習ニシテ、之ニ参加シ幾多(いくた)ノ啓発スルヲ得タル武人ノ幸福比スル物ナシ。豈(あに)之ヲ征戦ノ労苦トスルニ足ラン。苟(いやしく)モ武人ニシテ治平ニ偸安(とうあん)センカ、兵備ノ外観巍然(ぎぜん)タルモ沙上ノ楼閣ノ如ク暴風一過忽(たちま)チ崩倒スルニ至ラン、洵(まこと)ニ戒ムベキナリ。

昔者神功(じんぐう)皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以来、韓国ハ四百年間我ガ統理ノ下ニアリシモ、一タビ海軍ノ廃頽(はいたい)スルヤ、忽(たちま)チ之ヲ失ヒ、又近世ニ入リ徳川幕府治平ニ狃(な)レテ兵備ヲ懈(おこた)レバ挙国米艦数隻ノ応対ニ苦ミ、露艦亦千島樺太(からふと)ヲ覬覦(きゆ)スルモ之ト抗争スルコト能(あた)ハザルニ至レリ。

翻ツテ之ヲ西史ニ見ルニ、十九世紀ノ初メニ当リ、ナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英国海軍ハ、祖国ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ、爾来(じらい)後進相襲(あいおそい)テ能ク其ノ武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカバ、今ニ至ル迄永ク其ノ国利ヲ擁護シ国権ヲ伸張スルヲ得タリ。蓋(けだ)シ此(かく)ノ如キ古今東西ノ殷鑑(いんかん)ハ為政ノ然ラシムルモノアリシト雖モ、主トシテ武人ガ治ニ居テ乱ヲ忘レザルト否トニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ。我等戦後ノ軍人ハ、深ク此等ノ実例ニ鑑(かんが)ミ、既有ノ錬磨ニ加フルニ戦役ノ実験ヲ以ツテシ、更ニ将来ノ進歩ヲ図リテ時勢ノ発展ニ後レザルヲ期セザル可ラズ。若シ夫レ常ニ聖諭ヲ奉体シテ孜々(しし)奮励シ、実力ノ満ヲ持シテ放ツベキ時節ヲ待タバ、庶幾(こいねがわ)クハ以テ永遠ニ護国ノ大任ヲ全ウスルコトヲ得ン。神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力(つと)メ、戦ハズシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ栄冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ満足シテ治平ニ安ズル者ヨリ直チニ之ヲ褫(うば)フ、古人曰ク勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト。

明治三十八年十二月二十一日
連合艦隊司令長官 東郷平八郎