『日本』令和元年6月号

新元号「令和」誕生の画期的な意義

所  功/京都産業大学名誉教授


このたびの「令和」改元は、千三百年以上続いている日本年号(元号)の歴史上、画期的な意義を有する。その特徴は、まず約二百年ぶりの「譲位」(いわゆる生前退位)による皇位継承の代始改元であること、ついで古来漢籍(中国の古典)を出典としてきたが、初めて国書(日本の古典)の『万葉集』が典拠とされたこと、さらに前回と同じく「元号法」に基づきながら、皇位継承の一か月前に決定して公表されたことである。


“高齢譲位”による皇位継承の代始改元

現行の皇室典範は、第四条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と終身在位の原則を定めている。しかし、皇統史上、生前に譲位された方は、第三十五代の皇極女帝(在位六四二~六四五年)から第百十九代の光格天皇(在位一七七九~一八一七年)まで六十例ほど見られる。

ただ、それ以降、仁孝―孝明―明治―大正―昭和と五代にわたって直系父子の終身在位が続いてきた。その上、明治の皇室典範が第十条で「天皇崩ズルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」と明文化し、それが前掲の現行典範に引き継がれている。

ところが、父帝の崩御(昭和六十四年一月七日)直後に五十五歳で皇位継承された第百二十五代の先帝陛下は、平成二十八年(二〇一六)八月、「日本国の象徴」(元首のような国家の代表者)および「国民統合の象徴」(全国民の一体的な中心者)としての役割(国事行為・公的行為・祭祀行為など)を、全力で果たしてきたけれども、そのような務めが高齢化の進行により困難になることを懸念して、それを元気なうちに次世代の後継者へ譲る必要がある、という叡慮をテレビで公表された。

すると、それを視聴した大多数の国民が理解と共感を示した。そこで、政府も国会も慎重に検討を重ね、同二十九年六月、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を衆参両院の出席議員が全員賛成して制定するに至った。それは、終身在位を原則として残しながら、高齢による退位(譲位)を特例として可能にしたことになる。

この特例法に基づき、「皇室会議」を経て、先帝陛下(八十五歳)は平成三十一年四月三十日限りで譲位され、皇嗣の皇太子殿下(五十九歳)が五月一日に即位(古来「践祚」という)されることになった。それに伴い「一世一元」の元号「平成」も改められたのである。


初めて国書の『万葉集』を典拠とした「令和」

元号の文字を考案する典拠は、史料の判明する平安前期末の「延長」(改元九二三年、出典『文選』)から最近の「平成」(改元一九八九年、出典『史記』と『書経』)まで、すべて漢籍が使われてきた。しかし今回は、初めて国書が用いられ、しかもそれが『万葉集』から採られたことに驚いている。

ただ、今回採択された「令和」以外の五案が、新元号公表後、関係者から漏れ伝わり報道された。そのうち「久化」「万保」「万和」の三案は漢籍に拠っている。しかも、すでに「久化」は一回、「万保」は八回、「万和」は十四回も候補にのぼったことがある(森本角蔵『日本年号大観』参照)。

一方、国書に拠ったのは「英弘」「広至」「令和」の三案である。このうち「英弘」は、『古事記』の序文(太安万侶作の漢文)に「飛鳥清原大宮御大八州(天武)天皇……敷英風、以弘国」とあり、ここから採られたものとみられる。また「広至」は、『日本書紀』欽明天皇三十一年四月乙酉条に「徽猷(よきのり)広被、至徳魏々」とあり、ここから採られたものかと想われる。

この「英弘」も「広至」も、現存最古の歴史書『古事記』(七一二年撰上)と『日本書紀』(七二〇年勅撰)を典拠としており、文字も意味も良い。しかしながら、それ以上に最も良いと判定され採択されたのが、『万葉集』を典拠とした「令和」である。

周知のとおり『万葉集』は、全二十巻に四五一六首の和歌を収めている。その編纂は何段階も経て、大伴家持が奈良末期の宝亀年間(七七〇~七八一年)に完成した(中西進『万葉集 全訳注』解説参照)。その巻五に家持の父である大伴旅人や山上憶良の名歌を収めており、典拠となったのは「大宰帥大伴卿(旅人)宅宴梅花歌三十二首并序」の序文である。それは旅人(憶良かも)の手になる流麗な漢文で書かれている。その一部を読み下し文にして左に抄出しよう(丸括弧内は前掲書訳注による)。


天平二年(七三〇)正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)(大宰府長官の大伴旅人、六十五歳)の宅に萃(あつまりて宴会を申(ひら)けり。時は初春(旧暦一月)の令月( 良(よ)き月)にして、気淑(よ)く(空気は美しく)風和ぎ(風はやわらかで)、梅は鏡前の粉を披(ひら)き(梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き)、蘭は珮後(はいご) の香を薫(かお)らす……詩(詩経)に落梅の篇(梅の実の落ちる詩)を紀(しる)す……宜しく園(庭)の梅を賦(ふ)して聊(いささ)か短詠を成すべし(和歌を詠もう)。

この序文の冒頭部分は、王羲之(おうぎし)作「蘭亭序」の形式に拠り、また『文選(もんぜん)』所収の張衡(ちょうこう)作「帰田賦」にみえる「仲春令月、時和気晴」という表現を踏まえたことが指摘されている。その序文から「令」と「和」を組み合わせて「令和」という元号が創成されたのである。

元号としては「れいわ」(reiwa)と読む(漢音のレイ・呉音のワ)ことが内閣告示で公表された。これを人名に付けて「よしかず」とか「のりかず」と訓読する例もあるように、「令」は「よし」(好・嘉)とか「のり」(法・則)の意味をもつ。それゆえ、四月一日正午に安倍首相が談話の中で「この令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております」と述べ、また考案者とみられる中西進博士は「麗(うるわ)しい平和な日本」と解している。

しかも、これが外交を統括していた大宰府の長官公邸で初春に「梅花」を賞(め)でながら、三十二人もの文人官員たちが和歌を詠んだ宴会の状況を記す序文だということも、頗る意義深い。いわゆる天平文化の開花した当時、遣唐使などによりもたらされた唐風の文物を享受していた彼らは、中国伝来の梅の花と香りを愉しむハイカラな宴会を開き、その席において漢詩ではなく日本古来の和歌(やまとうた)を詠むような、国際的センスと伝統的教養を兼ね備えていたことがわかる。

さらに、初春に開花する梅は、古来「梅は寒苦を経て清風を発す(放つ)」といわれている。それをふまえて首相も談話の中で「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、令和に決定いたしました」と説明している。


施行一か月前に公表された新元号

この新元号「令和」は、元号選定の条件(国民の理想を表す良い二文字で、詠みやすく書きやすい、先例がなく俗用されていないこと)によくかなっている。しかも、それが「元号法」に示される「皇位の継承があった場合」の五月一日より一か月前に、政府の閣議で「政令」を決定し公表された。これは、書式の作り直しや機器の切り替えなどを要する国民生活への配慮として一応理解できる。

ただ、その政令は、現行憲法の第七条に定める象徴天皇の国事行為として、天皇が御名を自署され、公印(「天皇御璽」と刻された金印)を押さしめることになっている。そこで、今回はまだ在位中の先帝陛下が署名され、皇太子殿下が政府から説明を受けられた。この点は、閣議決定を行っても新元号を内定案として公表し、やがて即位当日、新天皇のもとで政令の公布手続きを終えて正式の新元号が施行されるようにすることを、次回に向けて検討する必要があると思われる。