『日本』令和2年10月号

 新型コロナウイルスの蔓延と日本社会

今岡日出紀 /島根県立大学名誉教授


今年一月初旬に中国の武漢市を起点として、新型コロナウイルスはまずスペイン、イタリアに上陸し、次いでフランス、ドイツに転移し、遂には大西洋を渡りアメリカのニューヨーク市・州に広がり、瞬く間にアメリカ中に蔓延してきました。そして六カ月余の間に世界中に広がってしまいました。正に新型コロナウイルスは世界的広がり(パンデミック)の様相を見せています。八月十三日時点での世界全体の感染者数は二千六十二万人余にもなり、また死者数は七十五万人余です(アメリカ・ジョンズ・ホプキンス大学による七月二十七日現在の推計)。

このコロナウイルス感染症の広がりの波は二月初旬以降我が国にも及び、全国新規感染者数が上昇しましたが、五月初めには新規感染者数が底に達し、第一波が収束しました。しかし、六月中頃から全国新規感染者数はまた急激に増加し始めて、八月二十日現在、依然として新規感染者数は増加傾向を示しています。日本感染症学会は八月二十日前後で増加が頂点に達し、以降新規感染者数は減少に転ずるであろうと推測していますが、この推測は確定的なものではなく、増加が続くかもしれないともされています。

このコロナウイルス感染症の蔓延が我が国の社会に引き起こした二~三の問題について以下で論じたいと思います。私は経済学を専攻していて現役を退いた学徒に過ぎませんが、非専門家から見た我が国におけるコロナウイルス感染症と日本社会について論じてみたいと思います。


歪んだ社会心理の発生

新型コロナウイルス感染症の医学的側面はあまり解明されていないようです。人から人に感染するウイルスであること、人がこのウイルスに感染しても、これに対して信頼のおける治療法がいまだ確立されてないこと、抗体を作って感染症を完治させることのできるワクチンは、今のところ存在しないこと等が解明されているに過ぎないようです。正体不明のウイルス感染症が猖獗(しょうけつ)を極めている現在の状況では、人々は、ウイルスに感染するかもしれないという恐怖心から、真偽が確認されていない噂を信じる傾向があります。これは歪んだ社会心理と言って良いでしょう。

東京における累積感染者数が都道府県の中でも圧倒的に多いことから、「東京人が自分の県に来ればウイルスを持ち込むから怖い」といった、誤った情報を信じるようになっています。一見してもっともらしいこのような情報を、多数の人々が信じている状態は、歪んだ社会心理が社会を支配していると言えます。

しかしこのような思い込みは簡単な算術によってその誤りを示すことができます。東京の人口に占める累積感染者数の比率を計算すると、それは僅かに〇・一四%に過ぎません。それにも拘わらず「東京人はわが県に来てほしくない」と言うのは、「(全ての)東京人はウイルス感染症に罹患(りかん)しているので、自分の県に来てほしくない」と断言した、歪んだ社会心理のなせる結果であると言えるでしょう。

調査をしたわけではありませんが、以上述べたような歪んだ社会心理は東京の人々にも広く行き渡って、人々の行動に影響を与えているようです。東京の人々は、自分たち起源のウイルスを日本中に拡散させないように、自らの贖罪(しょくざい)の証として都境を越えた移動を自粛していますし、東京都もまた必死に都境を越えて他県に出かけることを自粛するよう呼びかけています。このような理由から、七月下旬以降のお盆帰省者数とか、観光旅行者数の大幅な減少が続いています。

残念なのは秋田県知事、福井県知事、熊本県知事、その他の多くの知事達までも、政策の一環として「東京人外し」を呼びかけている(『読売新聞』、令和二年八月八日)ことです。より悪質なのは、政府が推進している「Go To Travel」キャンペーンにおいてまでも、いわゆる「東京外し」を規定し、プロジェクトへの支持を得ようと、この歪んだ社会心理を悪用していることであり、残念です。


ウイルス感染症発生拠点の地域分散化

本年六月末以降の新規感染者数の増加パターンを観察すると、例年みられるお盆の帰省慣行、「GoTo Travel」キャンペーンによる奨励にも拘らず、東京を起点とする人の全国的移動は低調ですが、このような中でも東京、名古屋、大阪、福岡の中核都市を中心に、それぞれの近隣の諸県を集めた地域感染症発生圏を中心に、新規感染者数の増加傾向が見られます。

南関東圏は東京、神奈川、埼玉、千葉から成り、東京の人口密度は一平方キロメートル当たり六千三百七十八人であり、近隣県の人口密度は三千七百七十八人から千二百七人の範囲内です。また愛知圏の人口密度は千四百四十七人です。近畿圏は大阪府、兵庫県、京都府、滋賀県、奈良県から成り、大阪府の人口密度は四千六百四十人で、其の他の府県の人口密度は六百五十九人と三百七十人の間です。福岡圏の福岡県の人口密度は千二十三人です。

このような人口密度に対応して、夫々の感染症発生圏の中核都市における人口十万人当たりの累積感染者数(八月二十三日現在)は、南関東の東京都で百四十二人で、愛知圏の愛知県のそれは五十五人です。近畿圏の大阪府のそれは八十八人であり、また福岡圏の福岡のそれは八十人です。感染症発生圏では、それぞれがその人口密度が作り出す独自の居住形態に応じた内部メカニズムに従って、独自の感染症増加パターンを示していると推論できます。

私は経済学者の一人に過ぎず感染症学の専門家ではありませんが、敢えて専門家による検証されるべき作業仮説として、以上の発見を提起しておきたいと思います。新型コロナウイルス感染症の伝播に対する分権政策アプローチを、この作業仮説は示唆していると思うからです。


終わりに

新型コロナウイルス感染症の流行に対する政策に関しては、従来以上に分権化すべきだと考えます。現行の枠組みの中では、中央政府の権限が強すぎると思います。例を挙げますと、八月十七日の週の後半に、「重症」の定義を巡って、東京都と中央政府との間にちょっとしたトラブルがありました。

厚生労働省は感染症の重症者を、人工呼吸器を使って治療しているか、ECMOを使っているか、或いはICUで治療を受けているかのいずれかであると定義しています。しかし東京では重症者の定義からICUで治療を受けている患者を除外しています。

厚生労働省は日本全体の感染症の発生状況を知るためには自らの定義に従ってデータが提出されるべきだと、東京都の措置に不快感を示しました。東京都からは、重症者を広く定義することにより、重症者病棟の余裕がなくなり、増加する真の重症者の治療が困難になると、現場の状況から異議申し立てました。勿論データは現場から出てくる業務データを優先すべきで、中央政府のデータは原データを事後的に収集し編集すればよいことです。

最後に、専門家集団の提言に加える政治的判断は、明瞭に説明されるべきだと思います。