『日本』令和2年2月号

日本文化と政教分離

吉原恒雄 /元拓殖大学教授


令和の時代が国民の祝福を受けて始まった。だが、自国の伝統を受け継ぐことに抵抗する輩がいるよ うだ。そこで取り上げられているのが、大嘗祭など一連の皇位継承儀礼への国費支出が憲法で禁止して いる政教分離に反するという主張である。特に秋篠宮殿下が宗教色が強いとして、「大嘗祭」への国費 支出に異議を唱えられたこともあり、世間の注目を浴びた。一知半解の議論と言わねばならない。

大東亜戦争敗北後、米国を中心とする連合軍は、占領下で日本に帝国憲法、皇室関係法規の廃棄を強 要し、現行憲法を制定するよう強制した。これは交戦法規や「ポツダム宣言」に違反する行為である。 このように重大な国際法違反で制定された現行憲法では、第二十条第三項(国及びその機関の宗教活動 の禁止)、第八十九条(公金の宗教組織への使用禁止)の政教分離規定がある。

問題の第一は、一部の憲法学者、政治学者が唱えているように、政治と宗教を厳密に分離することが 妥当か。第二に現行成文憲法や慣習法などの法制は、厳密な政教分離を求めているか否か。第三に憲法 を始めとする成文法を「不磨の大典」視するのが、立法政策上妥当か否か、を検証する必要がある。

先ず政治と宗教の関係について考える際に承知しておくべきは、文化と宗教の関係である。S・ハン チントン教授は、現在、世界に存在する主要文化は七つ存在すると指摘している。ここで留意すべきは、 主要な文化がそれぞれの国の独自の宗教と緊密な関係にあるという点である。

同教授は主要文化として、米国、欧州、チャイナ、日本、ロシア、インド、イランを挙げている。米国はキリスト教プロテスタント、欧州は同カソリック、ロシアは同オーソドックス、日本は神道、チャ イナは儒教、インドはヒンドゥー教、イランはイスラム教中心の文化だと言う。つまり、あらゆる文化 は特定の宗教の影響を大きく受けている。政治は文化の一部である点を考えると、文化抜きの政治は存 在し得ないのだ。

ソ連、中国などマルクス主義国は宗教を否定し、社会主義の一種であるナチズムは宗教を無視した。 もっとも、J・シュムペーターは「マルクス主義は無宗教者の代替物といえる」と指摘している。その 点はともかく、その背景には、人間の知恵に全幅の信頼を置く「ヒューマニズム(人間中心主義)」が 潜んでいた。欧州でキリスト教の影響力が極めて強かった時代には、全てのことが「神の御心のままに」 ということが重視された。

だが、近代になってヒューマニズムの影響が強くなった結果、科学、技術が発達し、欧州優位の時代 が到来した。それ自体は好ましいことだが、反面、「神を恐れぬ所業」が横行することになる。中国、 ソ連等の国家では人権弾圧が行われ、社会主義の流れを汲むナチズムのもとではユダヤ人虐殺など残酷 な所業が繰り返されたのはその典型だ。それだけではなく、産業革命に成功した欧州諸国は資源入手・ 商品販売のため植民地確保に乗り出したが、そこではアジア・アフリカの有色人種への人道に反する行 為が繰り返された。

因みに、日本では「ヒューマニズム」を「博愛主義」の意味に使用されることが多いが、ここで言う 「ヒューマニズム」とは違った概念である。いずれにしろ、神を軽視・無視した国家ないし政治は、人 道に反した結果を生むに至ったことに留意する必要がある。このように見てくれば、宗教を否定した政 治は望ましくないと言える。

第二に問題となるのは、日本の政府当局や最高裁判所が、皇室の祭祀と政治との関わりをどのように捉えてきたかである。占領下において、政府はGHQの了解を得て、「皇室令及び附属令廃止に伴う事 務取扱に関する通牒」と題した指令を出している。この中で「従前の規定が廃止となり、新しい規定が できてないものには、従前の令に準じて事務を処理する」よう指示している。ところが、皇室令に代わ る法令は、今に至るも整備されていない。このことを、大原康男博士は「旧皇室令は廃止されたけれど も、慣習法という形で残り、旧令に準じて様々な皇室の儀式・典礼が行われてきた」事例を挙げ、一部 旧令が慣習法化している点を強調している。


最高裁は限定的な分離論の判決

さらに政教分離関係で注目すべきは、「津の地鎮祭」訴訟に対する最高裁判所の合憲判決である。こ の判決は最高裁判所による「憲法にいう政教分離に関する一般的基準」と言われているものだ。同判決 では、地鎮祭が「神道の色彩を持つ宗教的行事」だとはっきり認めたうえで、次の三基準をクリアすれ ば、国や地方公共団体が宗教と関わっても構わないと判断している。

その三基準は①信教の自由という制度の目的に合致する、②我が国の社会的、文化的条件に照らして 妥当か、③宗教と関連ある行為を行った際、その目的が宗教的意義を有し、その効果が特定宗教を支援・ 助長・促進したり、逆に圧迫・干渉しない ―― 点を挙げている。この基準で判断すれば、地方公共団 体の地鎮祭への協力は合憲とされた。

世界の多くの国は「政教分離」策を採用している。それは絶対的な分離ではなく、限定的分離と言わ れているものだ。日本に政教分離を押しつけた米国では、上院に教会があり、連邦から給与を支給され る専属牧師がいる。湾岸戦争時などの大軍の出陣には、大統領がこの教会で祈祷を受けている。また、 選挙で選ばれた大統領は聖書に手を置き宣誓するのが習わしだ。現・元大統領の葬儀もプロテスタントの教義に従って行われる。さらに大統領の重大発言の際は、「神のご加護を」で結ぶ場合が多い。一方、 英国では、政治の重要機関である軍の統帥権を持つ女王(国王)は英国国教会のトップでもある。

第三に我が国の憲法学者は、成文憲法を宗教の経典のように絶対視し、時代に合わせて改訂すること を峻拒する者が多い。戦前においても、帝国憲法は“不磨の大典”視された。例えば、第一次大戦を契 機に戦争は総力戦となり、国家は軍隊だけでなく、その保有する全ての機能を活用して戦うようになっ た。だが、国家総動員体制や非常事態法制の憲法上の整備面で、欧米の主要国に大きく後れをとった。

時代の動き、世界情勢を無批判に憲法を反映させることは望ましくない。それでは根無し草のように その動きに翻弄されるからだ。「不易流行」という言葉通り、一国の成文法として「不易」の部分と「流 行」に合わせるべき部分がある。日本国家が東アジアで二千年余、存続し続けたのは他でもない。「不易」 と「流行」を的確に認識し、対応してきたからである。

国家には尊厳機能と権力機能が不可欠である。尊厳機能は不易の部分であり、権力機能は国際社会、 国内社会の変動に対応すべきものである。我が国の権力機能は時代により興廃しているものの、不易部 分である天皇・皇室は存続している。その結果、日本は二千年余も存続し、現在も独立した「文化」を 誇っている。世界に七つある文化のうちで、日本文化以外は複数国家に信者が広がっている。ところが、 日本文化の中核である宗教的存在の「神道」は、日本の領域内だけで尊崇されている。他の文化の中心 をなしている宗教は力で布教活動をしているが、神道を他民族に強制することはなかったからである。

仮に皇室の祭礼への国費支出が現行憲法違反だとしても、それは結論ではない。憲法学は憲法解釈学 に終わってはならない。解釈は適切な法制定のためのものである。それは医者のガンの診断の目的がその治癒にあるのと同じく、違憲判断は現行憲法自体を改める必要性を示しているにすぎない。