『日本』令和2年4月号

郷土の先人に学ぶ教育の重要性

渡邉規矩郎 /桃山学院教育大学客員教授


令和二年度を迎え、新しい学習指導要領が小学校から完全実施に入った。学習指導要領は時代の変化に対応しておよそ十年ごとに改訂されており、今回は平成二十九、三十年改訂のもの。最大の改訂点は、長年の懸案であった道徳が「特別の教科」に位置づけられ教科化したことと、グローバル社会に対応して外国語が小学校高学年の教科に導入されたことにある。また、今回の改訂で強調されているのは授業の改善。国際比較で日本の子供たちの学力低下に歯止めがかからないことから、「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)の視点」から「何を学ぶか」だけでなく「どのように学ぶか」を重視して授業を改善することを強く打ち出した。しかし、ここでキャッチフレーズとして求められている「主体的・対話的で深い学び」は、言葉こそ目新しいが、中身はいわば「将棋の駒になるのではなく、将棋の指し手を育てる」という当たり前の教育、人間を育てる、本来の生き方・在り方の教育にほかならない。

ここでは、教育の基盤である地域に根差す教育、郷土の先人に学びそれを継承している学校の事例をいくつか紹介しながら、教育における不易の部分を考えてみたい。


地域ぐるみで偉人に学ぶ「ビタミンの父」の母校

宮崎市立穆佐(むかさ)小学校を先ごろ訪れた。「穆」とは稲穂が垂れている象形文字という。同校は高木兼寛(たかきかねひろ)(一八四九~一九二〇年)の母校である。高木は海軍軍医総監、医学者、男爵、東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」として知られる。医学博士の第一号で、南極大陸に「高木岬」という個人の名前がつけられた第一号でもある。

校門を入ったところには高木博士の銅像が立ち、台座には「兼寛先生遺詠」として、茸狩(たけがり)にいでたつ児等(こら)がいさましき こゑきく朝のここちよきかなの歌が彫りこまれていた。

玄関には高木博士が「地霊人傑」と揮毫した書の複写が飾ってあった。学校や地域では、この言葉の出典がわからないということだったので、筆者が好んで吟じている乃木希典大将の『富嶽』という漢詩にこの言葉が出てくることを紹介した。この漢詩は乃木大将晩年の作で、書き下すと次の通りである。

  
崚嶒(りょうそう)たる富嶽(ふがく)千秋に聳(そびゆ)     赫灼(かくしゃく)たる朝暉(ちょうき)八州を照らす
説くを休(や)めよ区区風物の美    地霊人傑是れ神州

霊峰富士は、まことに気高く雄々しく、千年万年の昔から今も変わらぬ姿でそびえている。この峰から昇る朝日はあかあかと国中を隈なく照らしている。実に、この山は日本の象徴をなしており、あれこれと細かく、諸々の風景などを並べ立てる必要はない。国土は傑出した人物に富む。これこそ、わが国が神国たる所以である、という大意である。

あとで調べていると、『弘道館記述義』(藤田東湖著)の中に「夫(そ)れ日出之郷、陽気発する所、地霊人傑、食(しょく)饒(ゆたか)に兵足る」という文章があった。『弘道館記述義』は明治の有識者の誰もが親しんだ書物であり、乃木大将も高木博士も「地霊人傑」の言葉をここから採ったのかもしれない。

校長室には、高木博士の「敬神崇祖」の書と若い頃の写真、そして五年生が作詞した「穆園(ぼくえん)先生の歌」が掲げられていた。穆園は博士の号。郷土の偉人に学ぶ「穆園学習」は地域ぐるみで続いており、また、東京慈恵会医科大学は、創設者の母校の児童二人を毎年東京に招く事業を継続して三十年余になる。


藤樹精神を自分色に咲かせる伝統的校風づくり

先年の冬、愛媛県松山市での仕事を終えて大洲(おおず)市に立ち寄った。大洲城の本丸に登っていると、途中に近江聖人・中江藤樹(一六〇八~一六四八年)の銅像が建っていた。大洲は、藤樹が少年から青年時代を送り、志を立てたゆかりの地である。有名な漢詩「忍の字に題す」を刻んだ碑も建っていた。

  
一たび忍べば七情皆中和す    再び忍べば五福皆並び臻(いた)
忍んで百忍に到れば満腔(まんこう)の春    熙々(きき)たる宇宙総(すべ)て真境

人間の感情には、喜・怒・哀・懼 (ぐ)・愛・悪・欲の七種があるが、はじめに一度抑えると、そのまま心の中で和らげられる。さらに再び抑えると、長寿・富裕・無病・道徳を楽しみ、また天命を全うすると、五つの幸福が自分に集まる。さらに百度も抑えると、心は春の暖かさに包まれ、宇宙のすべてのことは楽しく受け入れられ、真の境地に到る。こんな大意である。

中江藤樹邸「至徳堂」が愛媛県立大洲高校にあると聞き、同高校に向かった。校内に入ると、「天心園」という庭があり、そこには藤樹の青年像が「知行合一」の文字を刻んだ台座の上に立っていた。

校庭の奥まったところに「至徳堂」があった。藤樹は十歳の時に大洲に来て、十五歳で家督を相続、この地に屋敷を賜った。二十七歳の時に近江にいる母の孝養と自らの病を理由に辞職を願い出るが許されず、その冬、無断で脱藩している。

大洲高校は明治三十四年の創立以来、中江藤樹の教えを「邸址校教育」として重視。昭和十四年の至徳堂建立、天心園や「中江の水」の整備など、伝統的校風づくりに生かし、「藤樹祭」を毎年行っている。校舎には、中江藤樹精神をバックボーンにした重点努力目標「藤花躍動 咲き誇れ自分色に」が懸垂幕に大書されて掲げられていた。この日は、みぞれが降る寒い日だったが、心はあたたかくなった。


教育の品格と精神性を引き継ぐ「ふるさと学習」

数年前の秋、広島県世羅(せら)町を訪れ学校を視察したあと、当時の時永教育長からいろいろと話をうかがった。同教育長は、「世羅教育」を継承するキーワードとして「品格」という言葉を使い、「品格」に象徴される精神性に世羅教育の目指す姿を重ね、「世羅は教育に熱心な土地柄(風土)。この風土の中に精神性が引き継がれてきたような気がする」と話された。

その風土が生んだのだろう、先人には、世羅出身で大妻学院(大妻女子大学)を創設した大妻コタカ(一八八四~一九七〇年)がおり、現在も郷土の先輩として学校教育に生きている。時永教育長の話では、甲山中学校の当時の校長が三年前に着任した。その頃、学校の一部に荒れが見られる状態だった。そこへ赴任した校長は、郷土の先輩であり名誉町民でもある大妻コタカを学校の偉大な先輩として位置づけた。甲山中学校は統合してできたため、厳密にいえば大妻の母校ではないが、縁(ゆかり)のある中学校には違いなかった。甲山中学校には、大妻が書いた「愛郷崇祖」という石碑があり、この「愛郷崇祖」を生徒指導の中心にした。世羅町では、各小中学校が道徳の時間や総合的な学習の時間を使って「ふるさと学習」を行っており、校長は「ふるさと学習」の時間で大妻のこの「愛郷崇祖」を生徒たちに解説した。また町内には、大妻のもう一つの石碑「恥を知れ」がある。自分に厳しくあれと諭した大妻が絶えず口にした言葉である。この二つの言葉を生徒会活動の中核に据えた。

その後、同校では「大妻コタカ先生の思いを受け継ぐ生徒会」をスローガンに生徒会活動や地域活動を行い、修学旅行では、東京の大妻学院を訪問。そして、中学生が中心になって小学生や地域の人も巻き込んだ「クリーン大作戦」を行うなど、自ら進んで地域に出ていく活動に変わっていったという。

郷土愛は祖国愛に発展し、世界平和につながっていくことだろう。