『日本』令和2年8月号

「戦後七十五年」を迎えて

仲田昭一 /茨城県那珂市歴史民俗資料館長


 

この八月、戦後七十五年を迎える。米国のトランプ大統領は、新型コロナウイルスによるパンデミックについて、第二次世界大戦時の日本による真珠湾攻撃よりも被害が大きいと述べた。ロシアのプーチン大統領は「第二次世界大戦から七十五年目における真の教訓」との論文を発表し、「対日戦はヤルタ合意に従ったものだった」「連合国が日本の軍国主義を打倒した」と旧ソ連の対日戦を未だに正当化している。米露両大国が、今もって当時の日本の存在に関心を抱かざるを得ないことを示している。

 

そもそも、大東亜戦争開戦の目的は「自存自衛ノ為」「万邦(ばんぽう)ヲシテ各々(おのおの)其(そ)ノ所ヲ得シメ」、「万邦共栄(ばんぽうきょうえい)ノ楽(たのしみ)ヲ偕(とも)ニスル」であり、東亜の安定を確立し、世界の平和に寄与しようと国民一致して大戦に挑んだのであった。しかし、次第に戦況は不利となり、昭和二十年八月十四日「堪(た)ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ万世(ばんせい)ノ為(ため)ニ太平ヲ開カムト欲ス」との終戦の詔書が発布されて日本の敗戦が決まった。この時、昭和天皇は、「兹(ここ)ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民(なんじしんみん)ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と、君民一体の日本の不滅と、再興に向かう国民のひたすらな誠意とに信頼と期待をおかれたのである。

 

日本は、この戦争を「大東亜戦争」と称して戦ったが、勝者となって、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)はその呼称を許さず「太平洋戦争」を使用するよう命じた。最近では、戦後六十年頃から「アジア太平洋戦争」の呼称が唱えられ始めている。節目となる今年重光葵、(しげみつまもる)元外相の『昭和の動乱』をひもときながら、日本の将来に向けても大東亜戦争の意義を再考してみたい。


国体は護持された  

一九一七年のソ連邦出現以来、共産主義拡大のためにコミンテルンの策謀が暗躍していた姿は、「ヴェノナ文書」や近現代史研究家江崎道朗(えざきみちお)氏の著書『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』などで明らかにされている。『昭和の動乱』の中で重光葵は、一九四二年五月の対独共同作戦会議について「世界をソヴィエト化せんとするソ連と、世界の民主化を目標とする米英とが、対独戦争を奇縁として、直接接触することとなつて以後の両者の交渉は、外交史上異数のものである」と驚き、将来への暗雲・対立を予測していた。昭和二十年二月十四日、近衛文麿(このえふみまろ)元内閣総理大臣の上奏(じょうそう)文には「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態(敗戦)ヨリモ伴ヒテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ」「(一億玉砕を叫び背後より扇動するのは)革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨(にら)ミ居(お)レリ。一方ニ於テ徹底的英米撃滅ヲ唱フル反面、親ソ空気ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル様ニ思ハル」(『木戸幸一関係文書』)とある。戦況の深刻さや国内生活の悪化、および「鬼畜英米」のスローガンが、「共産革命」機運を醸成していることへの非常な危機感を見ることができる。

 

一九四五年(昭和二十)二月、ヤルタで米英ソの秘密協定が結ばれソ連の対日戦が決定した。当時駐じまいソ大使であった佐藤尚武は、この秘密協定について「日本側には終に判らず仕舞になってしまったのですが、これは不覚でもあり、また是非もない事でもありました。不覚というのは、日本の死命を制したこの協定を、我々現地の者が嗅(か)ぎ出し得なかったことであります」と語っている(『日本外交史』24)。 二月中旬には、ストックホルム駐在の小野寺信陸軍武官からヤルタ会談でのソ連の対日参戦密約の情報を日本へ送っているが、政府はソ連仲介和平案に固執してこの情報を握りつぶした(江崎道朗『日本占領と敗戦革命の危機』)。終戦近くに、木戸幸一内大臣も「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか、欧州も然り、支那も然り、残るは米国位のものではないか」と発言している(松浦正孝論文「宗像久敬の終戦工作」)。中立条約を信じていたとはいえ、共産国家ソ連の和平仲介を期待していた政府の方針には理解に苦しむ。

 

カナダの共産主義者で占領政策の方策決定に大きな力をもっていたE・H・ノーマンらは、一九四五年の太平洋問題調査会第八回大会で「天皇制」を残すのであれば、日本に勝っても意味は無い。日本国民が自発的に天皇を退位させないのなら、アメリカ政府の手でやるべきだとの考えを示した。また同年九月二十二日、アメリカ政府が作成した「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」が公表され、「究極の目的」として「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすること」とあった。これが占領政策すべての根本であり、日本の国体は危うい状況にあった。

 

昭和二十一年元旦、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発せられ、冒頭に「五箇条の御誓文」を掲げ、さらに「天皇と国民の間は終始相互の信頼と敬愛とにより結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず」と、天皇自らが国民と共に新生日本の建設に邁進しようとの御決意を示された。この詔書によって、皇室の存在・国体護持は絶対のものとなったのである。世界に冠たる皇室の存在、これを誇りとし、護持しようとする国民意識を確かなものとしていかなければならない。


東西の対立は不変  

戦後、米ソは分裂対立した。冷戦終了後も、ソ連に代わるロシアの登場、更に中国の台頭により資本主義社会と共産主義社会との対立の本質は変わらない。朝鮮半島の同族間の分断・対立は悲劇であり、南北両国の日本への対抗意識も解ける気配は見られない。かつて朝鮮国独立党の金玉均は、明治二十七年(一八九四)三月、反対党のために上海で暗殺された。彼を保護・支援していた福沢諭吉は、明治二十八年七月五日、在朝鮮の高見亀に遺族への義援金送付の仲介を依頼し、八月には母子を日本に迎えたいから意向を確かめてくれと書き送った。実際には、母子には渡日の意思はあるが思うに任せないとのこと。理由は、これら妻子が日本に去ると、金づるが切れてしまうと朝鮮国内の親類が遮(さえぎ)ったのであった(『福沢諭吉全集』18巻)。今日、韓国内で問題となっている従軍慰安婦問題を想起させるものでもある。

 

一方、大陸では昭和七年(一九三二)三月に満洲国が建国された。重光葵は、満洲統治の態様は五族協和を主義とする独立国家の形を採ったけれでも「内実は何と云つても、軍の力による軍国主義的の旧思想を根底としてゐた」「日本は、(満洲)以上進出して行く理由もなく……日本が、支那事変といふ力以上の仕事に突入したことが破綻の原因であつた」と評し、日本は満洲問題の解決に全力を投入すべきであったと批判している。重光は大使として南京に赴任してからは、政治上、経済上の支那における指導を支那人に譲り、日本は一切支那の内政に干渉せず、日支間の不平等な条約関係を一切廃止して、完全な平等関係において、対等の同盟関係を樹立すべしとした。また、戦争の進行につれ必要がなくなるときは、日本は完全に支那から撤兵して、一切の利権は支那に返還し、「日支の平等及び相互尊重の政策の外には、日本が勝つても負けても、日支関係を調節するの方法はない」と考えた。その上で、「主権尊重と平等対等の関係とをもつて、支那をはじめ東亜諸民族に臨むのでなければ、この戦争は、日本に取つては全然無意味である」と言い切っていた。英米の援助を頼む蒋介石の中華民国と中国共産党の確執など、複雑な要因が解決を困難にしていたことは事実ではあったが。

   

現在、隣国中国は南沙諸島や尖閣諸島に侵出する機会を窺い、新疆ウイグルなどを軍事制圧し、香港の自由化を抑圧している。北朝鮮はミサイル開発に狂奔している。米中をはじめ東西勢力の対立は依然として厳しい。世界中を恐怖に陥れた新型コロナウイルス。日本はそれへの対策を、諸外国と違って法的強制ではなく自粛要請で乗り越えつつある。戦後のGHQによる神道指令によって日本社会の良き伝統は崩されたが、私どもはそれを乗り越え、世界から仰がれるような国家・国民となって、開戦の目的とした諸民族の真の独立自存の実現をめざして努力邁進していきたいものである。