『日本』平成30年11月号

教科書を信じるな

葛城奈海/ ジャーナリスト・俳優「防人と歩む会」会長・予備三等陸曹


ノーベル生理・医学賞に決まった京都大学の本庶佑(ほんじょたすく)特別教授が、受賞直後の会見で放った言葉が鮮烈であった。研究のモットーを問われ、「僕は、いつも『ネイチャー』や『サイエンス』に出ているものも、九割は嘘で、十年経ったら残って一割だと言っていますし、大体そうだと思っています。まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信できるまでやる。自分の頭で考えて納得できるまでやる」と語った。さらに、研究者を夢見る子供たちに「教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って、本当はどうなっているだろうという心を大切にする。自分の目で、ものを見る。そして納得する」とメッセージした。

聞いていて青くなった先生方もおられたかもしれないが、これは、何も自然科学の分野に限った話ではなく、多くの日本人が心して聞くべき言葉であるように思う。日本人は、概して生真面目で、ルールがあれば、それに忠実に従おうとする。しかし、ルールには、それを作った人間がいて、そこに意思が働いている。善意に基づくものであれば、まだよいが、善意の仮面をかぶった悪意である場合もある。言わずと知れた、日本国憲法などがその典型であろう。

軍部や軍国主義によって誤った戦争に導かれた日本を、平和を愛する民主主義の国として立ち直らせるかのようなベールで覆い、その実、日本人と日本文化を骨抜きにしようとした日本国憲法。その下で作られた教科書は、自虐史観に覆われ、日本人から誇りを奪い、贖罪(しょくざい)意識を植え付けるように作為されてきたと言っても過言ではないだろう。

しかし、そうとは気付かず、その教科書に沿った授業を真面目に受け、テストで良い点をとろうと頑張り、いつの間にか、教科書製作者、もっと元をたどれば、日本国憲法の実質的な策定者であるGHQの意図したとおりに洗脳された日本人が量産された。そして、日本人は思うようになった。「先の大戦中、日本軍はなんて残虐非道なことをしたのだろう。広島・長崎・東京大空襲で約三十万人の非戦闘員が大殺戮されたのも、元を正せば、あんな戦争を始めた日本が悪かったのだ。だから、『過ちは繰り返しませんから』と反省し、辛い思いをさせたアジアの国々には心からのお詫びをしないといけない。戦争犯罪人が祀られている靖国神社に参拝するなど、もってのほかだ」。

そこに教科書を疑うという発想は、微塵もなかった。原因がどうあれ、戦いはすべて悪、戦争で戦った人はすべて悪人。そんな人殺しの悪人を「英霊」などと美化することは、あってはならないことであった。なにを隠そう、私自身が、かつて、そう考えていた。


ロシア訪問で感じた英霊への思い

この夏、ロシアを訪問した。私は長年、明治神宮の武道場至誠館(荒谷卓館長・当時)で稽古を続けているが、毎夏、ロシアでは、至誠館に縁のあるロシア各地の道場の門人らが一堂に会して講習会が開催されている。今年は、モスクワから北西に約五百キロメートル。寝台列車で一晩行ったところにあるスタラヤルッサという街に、日露の大人・子供合わせて約百名が集結し、約一週間の合宿を行った。

合宿間は稽古主体の生活だが、中日(なかび)は文化研修にあてられる。復路でのモスクワ観光と合わせて、今回、モスクワ、ノブゴロド、スタラヤルッサという三つの都市を訪れた。どの街でも心に焼きついたのは、国のために戦って亡くなった方々の慰霊顕彰碑があり、そこに赤々と火が燃え続けていたことだ。炎を絶やさないのは、英霊たちを忘れないという意味が込められているという。

七年前に初めてノブゴロドを訪れた際、講習会主催者が炎の前で語った。「歳月と共に人の記憶は薄れゆくものです。しかし、国のために戦って亡くなった方のことを忘れてしまったら、生きている意味がありません」。心の琴線に触れる言葉であった。

今回は、赤レンガの建築群が緑に映えるメドヴェーディ村にもご案内頂いた。以下は、その村で聞いた日露交流史だ。

日露戦争時代、村には捕虜収容所があり、日本人捕虜約三千名が収容されていた。所長の方針で、待遇が良く、ロシア人が鳩麦のスープを飲んでいたのに、日本人には米のスープを出したり、ロシアの黒パンは日本人の口に合わないということで、普通のパンを出したりしていた。

日本人は態度が良かったので警備も緩く、村人とも自由に交流できた。一軒のバーにも入れたが、そこで日本人が酔いつぶれたり、喧嘩したりしているのをロシア人は見たことがなかった。

一九〇五年、ポーツマス条約が結ばれ、日本人は帰国。残念ながら、二十三名がそれまでに亡くなったが、ロシアの人々は彼らに敬意を表し、鎮魂の花火を上げ、葬式を行い、墓地を作った。一九〇八年、死者の遺骨が帰国する際には、日露の人々の行列が数キロメートルにわたって続いたという。

旧ソ連やロシアというと、複雑な思いを抱く日本人も多いように思うが、国境を越え、このような心の交流があったこともぜひ世に知られて欲しいと感じた。


防衛省構内でインドネシア独立記念日の式典

じりじりと肌を焼く陽射しが照りつけていた八月十七日、防衛省の一角で、スディルマン将軍像献花式(藤井厳喜実行委員会代表)が、小野寺防衛大臣(当時)、アリフィン・タスリフ駐日インドネシア大使列席の下、挙行された。

スディルマン将軍は、日本軍政時代、日本軍の軍事訓練を受けてPETA(郷土防衛義勇軍)大団長(大隊長)を務め、独立戦争を戦い、初代国軍司令官となった英雄だ。三十四歳という若さで歿したにもかかわらず、その名は、ジャカルタをはじめ主要都市の最も賑う通りの名に残されるなど、今なお国民の尊敬を集めている。

平成二十三年にインドネシア国防省から寄贈された将軍像は、防衛省の西の端、市ヶ谷記念館脇の緑地に、力強く立っていた。その像の前に、約百三十名の参列者が所狭しと並んだ。市ヶ谷記念館は、東京裁判が行われた大講堂など、旧一号館の象徴的な部屋だけを移設・復元した建物だ。同館は、事前予約すれば「市ヶ谷台ツアー」の一環として見学できる。だが、そのすぐ隣にあるにもかかわらず、スディルマン将軍像はツアーコースに入っていない。従って、一般人は、この像を、おいそれとは見ることができない。私はそもそも、市ヶ谷記念館自体を防衛省の敷地から独立させ、もっと自由に見学できるようにすることを望んでいるが、その暁には将軍像もセットでぜひ公開してほしい。だが、当面は、せめてツアーのコースにスディルマン将軍像を入れることを提案したい。


日本兵の献身に私も開眼

献花式後には、憲政記念館で映画『ムルデカ17805』(藤由紀夫監督)の上映会が行われた。インドネシア独立戦争に携わった日本兵を描いた作品で、「ムルデカ」は独立を意味し、「17805」は、初代大統領・スカルノによって独立が宣言された皇紀二六〇五年八月十七日を、日・月・年の下二桁の順に並べたものだ。公開は平成十三年。冒頭に記したように、学校で教えられたことを信じ、日本はアジアの国々にひどいことばかりしてきたと思い込んでいた私は、この映画で目を啓(ひら)かれた。三百五十年に及ぶオランダ植民地支配からの独立を勝ち取るべく、戦後も帰国することなく、インドネシア人とともに戦い続けた日本人が約二千名もいた。その事実を知って心を揺さぶられ、自国の歴史に初めて誇りを持てた。

昨年七月、インドネシアを訪れた私は、独立戦争を戦った英雄たちが眠るカリバタ墓地と、PETA博物館を尋ねた。カリバタ墓地に入るには、慰霊塔に向かって必ず全員が敬礼しなければならない。広大な墓地は手入れが行き届いており、そこには多くの日本兵も眠っていた。

作品上映後に、元自衛官の佐藤和夫氏が「主人公の島崎中尉は、(アジアを解放するという)天皇陛下の大御心を体して、インドネシアに残ったのではないか」と話されたことが、深く心に残った。

日本を骨抜きにするため、価値観を根底から崩す大本となった東京裁判。その裁判が行われた市ヶ谷記念館を睥睨(へいげい)する如く立つスディルマン将軍から言われた気がした。「いつまで東京裁判の呪縛にとらわれ続けるのか。日本人よ、ムルデカを!」と。


「英霊に感謝」は世界の常識

かくのごとく、ロシアでもインドネシアでも、「国のために戦って亡くなった方々」への尊崇の念は篤かった。「英霊に感謝すること」が軍国主義・右翼などと見られる奇妙な国は、日本ぐらいのものであろう。しかし、国内だけにいて、その異常さに気付くことは難しい。

今回のロシアには、二十名近い中高生、大学生の門人も同行した。感性の柔らかな若いうちに、「世界の常識」に触れることは、その後の人生・ものの見方にも大きな影響を与えるであろう。今回の訪ロが彼らに「教科書を疑う」視点を与え、素直な愛国心を育 (はぐく)むとともに、癌の免疫療法を開発した本庶教授のように、世のため人のためになる人生を歩むきっかけのひとつになれば、うれしく思う。