『日本』平成30年12月号

貿易戦争とWTO自由貿易制度の行方

今岡日出紀/ 島根県立大学名誉教授


WTOの機能不全化

一九四五年、アメリカが中心となって「貿易と関税に関する一般協定」(GATT)が締結され、自由貿易が制度化された。この自由貿易制度の下、互恵無差別の原則にのっとった数次の円卓型多国間関税一括引き下げ交渉で、製造工業品の関税率は一九七〇年代末頃までにはほとんど無視しても良い水準にまで低下した。農産物、サービス(例えば金融サービス等)を関税引き下げ交渉の対象として加え、直接投資の自由化、および多国間供給チェーンに関わるルール(特に原産地規則)および知的財産権の保護のルールの制定などをGATTに包摂する形で一九九五年に「世界貿易機関」(WTO)が設立された。GATTのルールはそのままWTOに受け継がれている。

しかし、WTOにおける新しい多角的貿易交渉(ラウンド)に手間取り、今日に至るまで妥結への道筋は見えていない。WTO内の議決が全会一致方式を取っていることから、紛争解決協議の時間がかかり過ぎることもあり、次第に加盟国の信頼が失われた。WTOがこのように機能不全に陥ってしまったことから、少数国間の自由貿易協定(FTA)が繁茂したが、世界全体の多国間自由貿易ルールとして機能するものではなかった。かえって、二国間FTA内で攻撃的交渉をしようとするトランプ米大統領に良き場を与えてしまったようである。いずれにしても、WTOの機能不全化は、同大統領の攻撃的貿易政策の展開を正当化することになった。


貿易戦争の実態

トランプ大統領の貿易政策の目標は、アメリカの貿易収支の赤字を減らすことである。アメリカの貿易収支赤字は、例えば二〇一四年には四千百六億ドルである。輸入財の生産には労働力を投入する。これを輸入に体化された労働力と言う。財を輸入すればそれと同時に外国から体化されただけの労働力を輸入したことになる。したがって、その分だけ国内での雇用機会を減らすことになる。輸出財は国内で生産されるので、輸出に体化された労働力分だけ国内雇用は増加したことになる。その故に、貿易収支の赤字分は、財の貿易を通じて発生した国内の雇用機会の純減分に相当することになる。トランプ大統領は、選挙民に対する演説で「(貿易収支の赤字分に相当する)雇用機会が、アメリカの貿易収支赤字を作り出している外国の輸出諸国によって、盗まれている」と煽 せん 動 どう 的演説をしている。

アメリカの貿易収支赤字分への寄与度の大きい国々は、泥棒として攻撃されることになる。これらの国々が、中国を筆頭に、メキシコおよびカナダの北米自由貿易協定(NAFTA)のメンバー国、欧州連合(EU)、日本などの国々または地域である。これらの国または地域がアメリカに多く輸出していると思われる製品を取り上げ、これらの製品のアメリカへの輸入を、米通商法三〇一条(安全保障に関連の品目の貿易制限)、または米通商拡大法二三二条(不公正貿易)を根拠として輸入を一方的に削減している。削減要請に従わない国々に対しては、高関税を課すとか輸入数量制限を宣言して、あるいはそれらの措置を実行して脅迫し、アメリカの要求に従わせる。これに対しては、追加的報復関税を課すなどの手段で輸出国が抵抗する。一方的強制とそれに対する報復が行き交い、力に屈服するしか終息の見込みのないルールなき戦いが、アメリカを中心とする貿易世界で現在起きている貿易戦争である。

以下では具体的に貿易戦争の実態を示して行きたい。

二〇一八年三月、トランプ大統領は、鉄鋼に二五%の関税を、またアルミニウムに一〇%の関税を課すことを決定した。課税対象国は当初、中国、日本、EU、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチン、韓国、カナダ、メキシコであったが、NAFTA再交渉中などの理由で、中国と日本以外は適用を一時猶予とされている。ただし、日本が輸出している鉄鋼に関しては、アメリカ国内でアメリカ産の鉄鋼によって即座の代替が不可能であることから、対象鉄鋼品目が三分の一にまで減らされた。アメリカ通商拡大法二三二条が課税の根拠とされているので、鉄鋼とアルミニウムが中国では国営企業によって生産されていることから、輸出品に隠れた補助金が含まれていると憶測して、WTOの相殺関税に相当する高関税が課されているのであろう。または製品が中国国営企業での過剰生産部分が輸出されていると言う理由付けで、反ダンピング税にも相当するものとして高関税が課されているのかもしれない。しかし、日本の鉄鋼・アルミニウムがダンピングまたは補助金輸出とされているのは甚だ迷惑な話である。

このような理由から、当初EUも課税の対象として指名された時には、即座に遺憾の意を表して、百二十八品目に報復のための高関税をかけることを発表したほどである。勿論、中国は、このような輸入制限措置に対して、即座に、果物等の品目の輸入額十億ドル相当に一五%の上乗せ関税を報復として課し、また豚肉等の品目の輸入額二十億ドル相当に、二五%の上乗せ関税を報復として課した。

米中間の貿易紛争は、知的財産権を巡っても起きている。アメリカが、中国による知的財産権の侵害、および中国によるアメリカ企業に対する技術移転の強要の改善要求を、通商法三〇一条を根拠に行い、中国産品千三百品目(五百億ドル相当)に一律二五%の関税を課すこととした。更に、アメリカは、中国からの輸入(二千億ドル相当)に一律一二%の追加関税を課すことを宣言し、これに対して中国は更なる報復追加関税を課すことを発表している。チキン・レースは依然として続いている。


カナダ、メキシコとの貿易戦争

アメリカはNAFTAの解消を提案して、その圧力によりNAFTAの見直し交渉を同意させた。交渉の結果、NAFTAを見直し、アメリカ・メキシコ・カナダ協定(USMCA)を締結することを、カナダ、メキシコに同意させた。USMCAの交渉の焦点は、自動車の原産地規則の比率であった。締結された協定によれば、協定発効後三年をかけて現行の原産地規則の国産比率(製品が国産である比率)六二・五%を七五%まで引き上げることになる。 この協定におけるアメリカの狙いは、日本とかヨーロッパ諸国の自動車生産多国籍企業の国際工程間分業のアメリカ市場への最終生産拠点であるメキシコとカナダからの自動車輸出を抑えることであった。そのために原産地規制比率を引き上げさせたのである。


WTOの行方

『日本経済新聞』の平成三十年九月十八日付の記事によれば、EUを中心にWTOの改革機運が高まっ ていると言う。しかし現実的に考えれば、改革が実現するためにはいましばらくの時間を要するであろう。現実的には、現在批准されつつある環太平洋経済連携協定(TPP)を拡充することに努力すべきだろう。先ず原提案国アメリカの復帰を説得すべきかと考える。アメリカにとっても、今の貿易戦争の中期的コストは膨大なものになるとする研究が出つつある。その他にも、インドネシア、タイ等がTPPへの参加を検討していると聞く。