『日本』平成31年4月号

新帝御即位の慶事を迎えて

永江太郎/(一財)日本学協会常務理事


譲位と退位の弁別

五月一日には、今上陛下の御譲位を受けて、皇太子殿下が即位される。

行事としては、四月三十日に退位の礼、五月一日には、剣璽(けんじ)渡(と)御(ぎょ)の儀と即位が予定されているが、正しくは今上陛下が皇太子殿下に天皇の御位を、三種の神器である剣璽とともに譲って退位された後、新帝が即位されるのである。

第二次安倍内閣が発足してから六年余り、内政・外政、特に外交では大きな業績を上げている。今回も即位の大礼や大嘗祭などの諸準備が粛々と進められている事は評価できるが、問題は譲位の位置づけである。なぜ退位としなければならないのか。そこには、憲法を口実に天皇の御意志である譲位とはせずに退位とした一部の革新政党とマスコミの暗躍があるのではないか。

そのため、今上陛下の思し召しが譲位である事は、平成二十八年八月の御言葉で明白であるにも拘わらず、いつの間にか退位とされてしまった。譲位は新帝への引き継ぎであり継続であるが、退位だけでは新帝即位の保証はないのである。

思えば、終戦直後に天皇の戦争責任が内外で論ぜられた時、昭和天皇から退位の可否についての御下問があった。天皇としての責任を取りたいとの御内意であったが、御翻意をお願いしたのは、日本弱体化の決め手は共和制への移行であると考える連合国が、未成年の皇太子の即位を素直に認める保証がなかったからである。

事実、敗戦国で、元首が在位して君主制を残したのは日本だけである。第二次世界大戦に敗れた日本だけが、立憲君主国のまま残ったのである。第一次世界大戦の時は、欧州の国々のほとんどは君主制であったが、敗戦の結果、ウイルヘルムⅡ世が退位したドイツ帝国とカールⅠ世が退位したオーストリア・ハンガリー帝国はともに帝政から共和国となり、ロシア帝国に至ってはニコライⅡ世が退位したあと、家族とともに処刑された。トルコもスルタン制が廃止されて共和国になったのである。

我が国が、最大の国難である敗戦の危機を乗り越えて今日を迎えているのは、戦前戦後を一貫して昭和天皇が在位され、立憲君主制という国柄が継承されたからである。終戦後、打ちひしがれて帰国した復員兵や引揚者は、二重橋で昭和天皇の御在位を確認して、やっと安心して帰郷した。そして、この安心感が戦後復興の原動力になったのである。

我々国民は、今回の御代替わりは譲位であって、退位ではない事を再認識すべきであろう。その意味で、今回の御代替わりの儀式と慶祝行事を通じて、我が国が君民一体の立憲君主国であり、天皇が国民統合の象徴であり、核心であることが改めて認識された意味は大きい。


新年号の制定と一世一元の制

新年号の制定も同じである。四月一日には発表されるというが、新帝御即位の五月一日に公表されるべきではないのか。行政事務の煩雑やカレンダー業界などへの配慮があるようであるが、早期発表の理由にはならない。便宜だけを考えれば、西暦に統一した方が便利であろう。そうしないで、今日でも我が国だけが元号の制度を守っているのは、歴史伝統を守りたいという国民の意志である。この意志があればこそ、日本人のアイデンティティーは守られ、正直、勤勉などの美質や共存共栄、互助互譲などの精神が守られるのである。

百二十六代天皇の御即位に象徴されるように、建国以来二千年の文化伝統を守り通してきた国は、流転を繰り返す人類の歴史で唯一我が国のみであるが、終戦直後は危機的状況にあった事も事実である。この危機を克服したのは、地方御巡幸に見られる国民の天皇への厚い信頼と同時に外国、特に米国内に日本の君主制の特異性についての理解があった事である。トルーマン大統領が承認したポツダム宣言の第一次案には「現皇統の下に於ける国体の護持を認める」と明記されていた。これは人間には叡智がある事を証明している。


昭和天皇とは異なる今上天皇の治世三十年の重み

今上天皇には、どうしても昭和天皇と比較される側面がある。

帝国憲法下で即位され、統治権を総覧する元首としての重責を担われた昭和天皇には、戦前期の二十年間は、満洲事変や支那事変、国際連盟の脱退、そして大東亜戦争と重大な判断を迫られる事態が相次いで発生した。

特に大東亜戦争の開戦と終戦の決断は重大であったが、いずれも帝国憲法の規定に基づいた閣議決定と関係閣僚の輔弼(ほひつ)を受けた天皇大権(国事行為)の行使であった。陸海軍の作戦命令も参謀総長と軍令部総長の輔翼(ほよく)を受けたものであった点では同じであったと言えよう。

戦後に占領軍の統制下で制定された現行憲法は、内閣の助言と承認という前提を付けて、天皇の国事行為を規定したが、その実態は帝国憲法下の輔弼責任と変わらなかった。吉田茂首相以外の閣僚も、重光葵(まもる)外相を始め戦前の閣僚経験者が次々に復帰して、内奏や御裁可など戦前と同じ様に振る舞っていた。そこには戦前戦後も変わらぬ君臣水魚の交わりがあった。天皇の地位、国民との関係は、憲法以前の伝統であり慣例である。吉田首相の「臣茂」の発言は、当然のそして素直な気持ちだったのである。

今上陛下が御心をくだかれている恵まれない不遇な人々に寄り添いたいというお気持ちも、それを具体的に目に見える形で示されたのも昭和天皇であった。昭和天皇の御代は、戦争の時代であった。二百万人を超える戦死者の遺族、戦災で資産を失った人々を慰労・慰藉(いしゃ)するために、終戦直後から全国を隈(くま)なく(沖縄を除く)まわられたのが御巡幸である。

今上陛下の御代も阪神・淡路大震災、東日本大震災をはじめ、熊本地震、岡山や広島の西日本豪雨などの自然災害が続いた。そのたびに昭和天皇のお気持ちを継承し、より深く関心を深められたのが今上陛下である。

さらに、憲法が規定する国民統合の象徴という言葉に真摯(しんし)に向き合われた今上陛下は、国民の一人一人と君臣の壁を超えて、より身近で親密な関係を築こうとされているのではあるまいか。

被災地への度重なる行幸やその折々の御言葉の端々には、その思いが溢れているように思われる。

また戦没者の慰霊のため、中部太平洋の島々まで行幸される御姿を拝するたびに、靖国神社への御親拝が一日も早く実現する事を祈りたい。そのため、世論の更なる高まりと政府の努力に期待したい。

新帝御即位と同時に皇嗣は秋篠宮殿下と決まったが、問題は天皇の公的業務を補佐する皇族の減少であろう。現在、天皇の公的業務を補佐しておられるのは、常陸宮殿下、秋篠宮殿下の他はすべて女性皇族である。国内だけでなく、外国からも皇族として認知されているこの方々が、御結婚後も皇族として天皇を補佐する道を開くべきである。これは当面の急務であり、安倍内閣が責任をもって対処すべき問題であろう。