9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和4年5月号

 ロシアのウクライナ侵略から学ぶ憲法改正のための教訓

慶野義雄  /平成国際大学名誉教授


九条一項にかかわる不都合な真実

「あおによし」とか「たらちねの」という言葉は、それぞれ「奈良」や「母」にかかる枕詞であって、「さしたる意味はない」。一々、青や赤のコントラストに表現される都の情景がどうであるかとか、乳房に象徴される母親の情愛の深さがどうのなどという解説をすると、かえって国語表現の豊かさが失われる。中学か高校の時代、国語の時間にそんなことを習った記憶がある。


ところで、和歌の世界ばかりではなく、憲法の条文の中にも「枕詞」があることを知った。憲法学の最高権威とされている芦部信喜氏の著書『憲法』は、国家公務員上級職の受験者必携書とされているが、この書は、日本国憲法第九条第一項を解説し、「国権の発動たる戦争」という語は、単に「戦争」という言葉と同じであるとする。和歌の世界なら分かるが、論理を尊重すべき法学、憲法学の最高権威が憲法の基本原理とされる最重要語について、「国権の発動たる」に特に意味はないと言うのは驚きであった。もっとも、「国権の発動たる戦争」については、政府も同様な認識を持っているようであるが、私は「国権の発動たる」=枕詞説と呼び、あえてこの説に異論を提起したい。「国権の発動たる戦争」は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本政府に下げ渡した本歌に由来し、「war as a sovereign right」の訳語であった。すなわち第九条第一項は、日本国民は、「国家の主権としての戦争」を放棄する、としていたのである。くどい言い方をすれば侵略戦争が国家の主権である訳はないから、一項は「自衛戦争も含め戦争はすべて否定する」としていた訳である。それが証拠に、GHQから下付された文書の訳文(外務省仮訳)は、「国民(国家)ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス」であった。GHQによって押し付けられたマッカーサー草案は、日本政府案として衆議院憲法改正委員会小委員会(秘密会)にかけられ、現在の日本国憲法第九条の「国権の発動たる戦争」という文言に修正される。特に注目すべきは、再度英文に翻訳する際、英文に、再び、「war as a sovereign right」という文言が復活するのである。「国家の主権としての戦争」という文言を隠蔽し、さらに、英文訳へは元通りに復活するというこの二重の犯罪を実行したのは、芦田均委員長と社会党の鈴木義男委員である。第九条第一項には、主権否定、自衛戦争の放棄という不都合な真実が隠れている。私が、憲法九条第二項だけではなく、第一項も削除しなければならないと考えるのは、この理由による。


改憲論から消えた九条第二項削除論

平成二十九年までは、憲法改正運動は主として、戦力の不保持の否認を定める九条第二項の削除をターゲットにしていた。例えば、百地章氏は、平成十二年五月三日、「九条二項にテーマを絞れ」と述べている。(『新憲法のすすめ――日本再生のために』所収、明成社、平成十三年)。自民党の平成二十四年改憲草案も第二項削除論であった。ところが、何を血迷ったか、平成二十九年五月、安倍晋三首相(当時)は、憲法第九条第一項、第二項固定化論へと変節した。九条一、二項を残したまま(つまるところ「九条を堅持」)、申し訳け的に三項または九条の二を追加して、自衛隊という言葉を明記するという偽装改憲論を発表した。

安倍氏は自衛隊の「明記」と言って「改憲論」を装っているが、安倍語マジックに騙されてはいけない。加計、森友問題や桜を見る会問題などで計百八回の虚偽国会答弁を行ったと言われる安倍氏のことである。安倍氏は、桜を見る会で参加者を「公募したことはない」「広く募っただけである」などと、はぐらかす言語感覚をお持ちである。第九条第二項は、第三項や九条の二を付け加えようが付け加えまいが、どう読んでも戦力の保持を禁止し、交戦権を否認している。これは解釈の問題ではなく、国語の問題である。安倍氏は、自衛隊「明記」と言いながら、その「明記」された自衛隊が「戦力」なのか否か、もっとはっきり言えば、「軍隊」なのか否かという肝心なことをはぐらかしているのである。自衛隊という呼び方を問題にしているのではない。名称は自衛隊でも軍隊でも良いが、その実態が戦力なのか否か、軍隊なのか否かを「明らかに」してほしいと言っているのである。安倍案が国民投票で可決されれば、GHQ製のいかがわしい第九条に正式にお墨付きを与えることになってしまう。


ロシアのウクライナ侵攻と安倍記者会見

ロシア軍のウクライナ侵攻と蛮行は、世界を震撼させ、第三次世界大戦、核戦争の恐怖さえ与えることとなった。ロシアのプーチン大統領は、安倍氏とは二十七回も会い、互いをウラジミール、シンゾーとファーストネームで呼び合った仲である。安倍氏は、三月二十五日、産経新聞の単独インタビューに応えて、ロシアのウクライナ侵攻に関して見解を述べた。産経新聞によると、安倍氏曰く、「露が全面的に戦端開き驚く」「憲法九条を議論する機会だ」「核共有(シェアリング)をタブー視せず議論すべきだ」などとある。

他人事のように驚いている「場合」であろうか。ロシアの侵略を招いたことには、安倍氏にも一端の責任がある。思えば、ロシアの国際法を無視したクリミア併合に対し、欧米が厳しい経済制裁を加えているとき、北方領土返還を進めるためとはいえ、経済制裁に加わらないばかりか、八項目の経済協力を申し出るなど、プーチン大統領を増長させた。岸田文雄首相が、ロシアによる新たな侵略行為に対し経済制裁に転じたのは当然であるが、ロシアは平和条約締結の交渉を停止すると発表した。安倍氏は、「責任は日本にではなくロシアにある」と言うが、そんなことは安倍氏に言われなくても分かる。責任問題を言うなら、お粗末外交によって我が国の国益が大きく損なわれたことの責任は誰にあるかだ。元々、北方領土はロシア(ソ連)が日ソ中立条約を破って不法占拠している領土だ。安倍氏が四島に対する主権の主張を引っ込め、プーチンの「引き分け」理論のマジックに引っ掛かり、二島返還(歯舞、色丹は面積比では五パーセント未満)に後退したことの責任こそ問題である。

先に触れた『新憲法のすすめ』は改憲論者達による共著である。平成十三年当時には改憲論者は全て、九条第二項削除を唱えていた。ところが安倍改憲案以後、かなりの改憲論者が第二項削除論を引っ込めた。安倍氏は、お粗末な改憲案を提案することにより、改憲論者を堕落させ、分断した。例えば、前述の百地章氏は、「『自衛隊明記』には批判もあるが、誤解によるものも少なくないようだ」と述べ、「(既存の)憲法九条に矛盾をきたさない」としている(平成三十年一月二十三日、産経新聞「正論」)。これは、前出の平成十二年の「九条二項削除にテーマを絞れ」との主張と正反対であり、明らかな変節である。空気を読んで自在に方向転換できる政治家や活動家は、「ウクライナを見ろ」「憲法九条を議論する機会だ」などと、過去の自分の発言などなかったように無責任に旗を振っていれば良い。しかしながら、論壇を引っ張ってきた憲法学者は、そう簡単に「もとへ」「再転向いたします」とは言えないだろう。一時盛り上がった憲法改正の機運を急速に衰退させたのは、安倍氏の責任である。


核シェアリング論で煙に巻く主権放棄論

安倍氏を「戦後政治からの脱却」を目指す政治家と考える人々の中には、「核共有(シェアリング)をタブー視せず議論すべきだ」との発言に共感する人もいるかも知れない。国家の存立のためには、核保有も含め、あらゆる選択肢を検討するのは当然である。だが、何故、核保有ではなく、いきなり、核保有の特殊形態である核シェアリングなのか。

安倍氏の大叔父の佐藤栄作元首相は、「持たず」「作らず」「持ち込ませず」の非核三原則を掲げ、昭和四十七年、核抜き本土並みの形で沖縄返還を実現した。「持ち込ませず」を担保するのは事前協議制であるが、歴代内閣は、国会質問等においては事前協議はないから持ち込みはないと答弁してきた。ところが、駐日大使を務めたライシャワー氏が、昭和五十七年、「米政府は一貫して、核の領海通過、寄港は事前協議の対象ではないという立場を取ってきた」と述べ、非核三原則の嘘が明らかとなる。綺麗ごとを言っても、核シェアリングの原型は、所詮、戦勝国が敗戦国に強いた核の居座り、施設の永久使用権なのである。元首相さえ、核つき沖縄返還は国民の前に正直に説明できなかった。因みに、佐藤元首相は、非核三原則の功績によりノーベル平和賞を受賞している。

イタリア、ベルギー、ドイツなどがアメリカと核シェアしているが、核使用の最終決定権はアメリカにあり、共有国は敗戦国としてアメリカの使い走りを演じているか、弱小国としてロシア(ソ連)の核の恐怖に慄く余りの究極の選択をしたかであり、いずれも自らの意思で核の使用を決定できる立場にない。もし核保有するなら、理想は単独保有であろう。形式的な協議の儀式さえやれば、アメリカの核兵器を日本の領土に置くことはアメリカの勝手放題、おまけに膨大な費用は日本が喜んでお払いしますと言うのでは意味はない。最初に述べたように、日本国憲法第九条第一項は主権放棄の条文である。平成十八年、中川昭一元財務相は、「日本も核保有の議論をする必要がある」と述べてはいる。ただし、中川氏は、国家の安全保障は「主権」という概念に基づき、主権は「その国以外の者に支配され」てはならないとする。これは、九条一、二項を固定化しようとする安倍氏の議論とは対照的である。「核の保有」と「核の共有」は似て非なる概念である。日本国憲法の九条一項二項を残したままでの核シェアリングは、日本を完全にアメリカの属国化するであろう。

ロシアによるウクライナ侵攻は、憲法改正に臨む日本人に大きな教訓を与えた。その最大のものは、憲法は「国家」の法であるということである。国家主権の自覚なくして憲法はない。