9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和4年8月号

わが国の防衛政策を危機管理として考へる

廣瀬 誠 /元自衛官


今年二月二十四日から始まつたロシアによるウクライナへの侵攻は、ロシアが短期間にその目的を達成して終はるのではないかとの当初の観測とは異なり、本稿執筆の時点でも未だに結着を見てゐない。折しも、わが国では「国家安全保障戦略」等の安全保障三文書の改正が表明されてをり、ウクライナ紛争の教訓を踏まへ、その見直しは、わが国防衛を考へる上で、極めて重要な節目となると思はれる。この機会に、「危機をいかに管理するか」といふ視点からわが国の防衛政策を考へてみたい。


安全のためのシステムの構築とその限界

凡そ物や装置、あるいはシステムを組み上げる際には、設計図が必要である。そのためには、目的を達成するためにどのやうにそれらを組み上げるのかを考へなければならない。その場合、全く前提を設けずに組み上げることはできない。その目的を踏まへ、どれ程の予算が使へるのか、完成までどれほどの時間が許されるのか、どこで誰が使ふのか、どの程度の精度が求められるのか等である。例へば、原発をつくる場合に、その出力や建設費用、建設及び予定運用期間、環境評価、持続コスト、住民の安全など、幅広い前提を設けて原発のシステムを設計するであらう。

東日本大震災での福島原発事故を見ると、原発の建設やその後の検討において、例へば、過去の地震の考察範囲を、約一千年前の貞観地震など詳しいデータが無いものは考慮しないこととし津波の高さも限定し、また、全電源喪失について単一の原子炉で起こることは想定しても複数基で同時に起こることは前提としてゐなかつたといふ。しかし、実際には想定をはるかに超える十メートル以上の高さの津波によつて、予備発電施設や蓄電装置の機能を失ひ、福島第一原発の四基の原子炉が全て電源を喪失した上、隣接の原子炉から電源を供給することもできず、所謂「全電源喪失」といふ事態に陥つた。

システムを組み上げるために前提を設定することは不可欠であるが、ある前提を設定することにより、出来上がつたシステム等には前提から生ずる能力の限界が必ず存在する。従つて、原発が「絶対安全」と言はれてきたのは、少なくとも「設計が前提とする範囲内で」といふ但し書きが抜けてゐるのである。設計時には、その事が明確に認識されてゐたはずである。また、その後、前提を見直す機会もあつたはずである。しかし、前提は徐々に固定化して顧みられず、前提を疑ふ意識も薄れ、その能力の限界への認識も不明瞭になつていつたのではあるまいか。津波等の自然災害は、設計の前提や思惑に拘らず生起する。システムが完成した後、これを運用する段階では、その設計の前提を超える事態に対するシステムが持つ限界を常にはつきりと認識し、限界内はもとより、限界を超える事態にいかに対処するかについても、充分に準備・検討がなされてゐなければならない。このことは、国の存立や国民の生命に関はるシステムの場合、その重大性に鑑み、前提を超える事態生起の蓋然性に拘らず、特に重要である。


わが国の防衛政策上の前提

わが国の防衛政策は、戦後の長い期間を通じて次第に積み上げられてきてゐる。その前提がどのやうなものかについて、そぎ落とした説明になることを承知で述べれば、次のやうに要約できるであらう。

ア  平和主義に基づき、国際社会の公正と信義に信頼することにより、わが国の防衛は可能である。万一、その安全が脅かされても国際社会の力により解決しうる。(憲法・平和主義)
イ 核を含む米国の拡大抑止は、必ず機能する。(日米安全保障条約・非核三原則)
ウ 「専守防衛」により、国と国民の安全は守れる。(専守防衛)

長い戦後の期間を通じ、これらの前提が次第に形成され固定化し、わが国の防衛システムの枠組みが設定されてきた。ウクライナ紛争は、防衛といふシステムにおける、これら設計の前提の妥当性について考へる機会を、私ども国民に提示してゐるといへよう。ウクライナはソ連崩壊後、一九九四年の時点で世界第三位の核保有国であつたが、米・露・英はその核兵器をソ連邦に移して非核国とし、通常兵器も最小限とすることと引き換へにその安全を保障するとの所謂ブダペスト覚書を交換してゐる。フランスと中国も後にこれに加はつた。ウクライナは、その関係国であるロシアに攻撃される事態となつてゐるが、他の関係国はその安全を保障し得ない状況である。核保有国であり、国連安全保障理事会常任理事国でもある一国が紛争の当事国となる場合、国際社会がその武力行使を阻止することは困難なことが白日のもとに晒された。また、核保有国が非保有国に対して核による恫喝を行ひ、核拡散防止体制の前提が揺らぐとともに、核拡大抑止が機能するのかについても改めて検討することが必要な事態となつてゐる。また、ウクライナ国民の悲惨な被害状況も広く知られるところとなり、国土戦の悲惨さが誰の目にも明らかとなつてゐる。「専守防衛」とは、国土で戦ふことを決意するといふことである。ウクライナで起きてゐることは、先に挙げた前提すべてについて改めてその適否の再検討を迫るものであらう。


わが国防衛の前提の再設定

まづ、「国際社会に信頼する」にしても、他国の危急に対して自らは行はないとしてゐる「武力による支援」を自国の危急においては他国に期待するといふ身勝手について省察すべきではなからうか。また、同盟について、条約を締結してゐれば同盟関係が無条件に機能するかのやうな幻想を捨て、第二次世界大戦において、英国が米国による経済支援はもとより、その参戦を勝ち取るためにどれだけの努力をなし、後に「特別な関係」と言はれるまでの関係を築いたかについて思ひを馳せてみる必要がありはしないか。核拡大抑止については、確実に機能するかが危ぶまれる中で冷戦下の米国と欧州がどれ程真摯に思索と交渉を行ひ、INF条約を成立させ、最終的に中距離核戦力全廃までこぎ着けたかについて我が事として復習することも必要とならう。また、国の主権の一部を自ら放棄し、「軍隊」の保持もできない状態で自国領土において外敵と「国土戦」を戦ふことの途方もない困難を思ふべきである。

有事においては国家機能のすべてに亘る発揮を求められる。防衛省の所掌してゐるのはその一部といつてよい。全省庁横断的な検討を通じた、内閣府を中心とするわが国有事の詳細な指導計画を保持しておくことは重要であらう。自衛隊が演習で検証・訓練できる範囲は、そのやうな計画のごく一部にすぎない。

国防といふシステムを組み上げる際の前提と、それによつて決まる自国の能力の限界についてもはつきりと認識することにより、はじめて自らの強点とともに弱点を知り実際的な対応が可能となるのである。また、さうすることによつて、たとへ前提を超えた事態が生起しても、それに対処する方途も見えてくるのであらう。「三文書」の見直しに際しては、戦後長きに亘り次第に積み上がり固定化されてきたその前提について、この際、しつかりと再検討がなされることを期待したい。