『日本』令和6年10月号

十月号巻頭言 「松下村塾記 (抄)」 解説

松下村塾は、吉田松陰の叔父玉木文之進が始めた家塾で、松陰も少年期にこの塾で学んだが、文之進が藩の役職に就くこととなり、外叔久保五郎左衛門がこれを襲いだ。松陰は安政元年(一八五四)三月、下田沖の米艦に乗船することを企てて事成らず、翌日自首、江戸伝馬町の獄舎に繋がれ、十月には萩の野山獄に移された。それより約一年二ヶ月の間、獄中で読書と思索・執筆に専念すると共に、獄囚に『孟子』を講じ、国内外の情勢を説き、いかにすれば国を護り、日本人として生き、道義を実践できるかを説いた。その高い識見と人格と真しん摯し な求道の姿勢に、獄風は一変したといふ。

安政二年十二月、獄を免ぜられて生家杉家に戻ることができ、親兄弟一族が松陰の『孟子』の講義を聴き、やがて外部の青年たちも教へを受けるやうになつた。安政三年九月、外叔より託されて村塾の指導理念や教育方針を記したのが「松下村塾記」である。巻頭に掲げたのは、その核心部分に当たる。

この小さな村塾の掲げた「君臣の義」「華夷の弁」を究明することは、それ以来、昭和二十年に至るまで約九十年間、堅持してきた日本の中心的な指導理念であつた。しかし敗戦被占領によりその精神は失はれた。もう八十年にならうとしてゐる。「学の学たる所以(ゆえん) 、人の人たる所以、其れ安(いず)くに在りや」は、厳しく私どもの肺腑(はいふ)を衝(つ) く。

(清水 潔)