9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年10月号

  物語水戸学(四)― 朝恩にこたえる光圀公 ―

 梶山孝夫 /水戸史学会理事 博士(文学)


光圀公と京都

光圀公の生涯を考えるとき、決して見逃すことができないのは朝廷に対する敬虔な心を持ち、朝廷の儀式復興に努力したことです。むしろこれが最も重要といえるでしょう。それは一言でいえば尊王ということです。父頼房公からの教えもありましたが、光圀公の尊王は学問を通じて培われたものです。その経過はどのようなものだったのでしょうか。

光圀公は、若い時分から文学に関心を寄せて自らも詩文を作っています。それは後光明天皇の侍読(じとう)を務めていた冷泉為景との親交を通して、さらに深められていきました。為景は儒学者として知られる藤原惺窩(せいか)の子息です。光圀公は詩歌の交換や『惺窩文集』の刊行を通じて京都との深いつながりができました。後光明天皇は若くして崩御(ほうぎょ)されましたが、父である後水尾天皇は朝廷の儀式の復興を念願されていました。皇位は後西天皇・霊元天皇と受け継がれていきますが、ある時、後西天皇(この時は上皇)から光圀公に「雪朝遠望」の題で作詩の命がありました。光圀公はこれに応じて三首の詩を献上したのです。それは、上皇が今の大名のなかで最も文学に優れている者が光圀公であることを知ったからです。

このように光圀公と京都との関係は堅い絆で結ばれていくのですが、光圀公の具体的な実践は、廃れたるを興し絶えたるを継ぐ「興廃継絶」の精神によって実現されていくことになります。


『扶桑拾葉集』の献上と南朝正統

光圀公の文学、とりわけ和文への関心はやがて和文集の編集へと高まっていきます。その和文集が『扶桑拾葉集(ふそうしゅうようしゅう)』です。『扶桑拾葉集』は三十巻のかなり大きな書物ですが、そこには三百編を超える和文を収録しています。国文学史上、最初の叢書(そうしょ)といってもよいでしょう。そこには古代・中世・近世(すなわち光圀公の時代)に至る長い年月の間に書かれた優れた文章が収められているのです。たとえば勅撰和歌集のすべての序文、物語・日記・歌合・歌集などの序文や跋文(ばつぶん)、紀行文などですが、全文を収めた日記もあります。収録の都合もあり、余りにも長文のものは省かれていますが、これほどの和文を蒐集(しゅうしゅう)した光圀公の努力には驚歎せざるをえません。

その一端は、『扶桑拾葉集』に収められている冷泉為景の「源光圀に報ずる詩歌の序」という文章に「光圀公はいにしえを好み、朝夕におこたらず、いとまさえあれば歌の道に勤しんでおり、私と同じ志の持ち主です。多くの唐、大和文を集めて未だ満足しておりません。さらに探索してほしいとの申し出があり、我が家に伝わるものを提供しています」と記されていることからも知られます。

やがて光圀公が、この和文集を朝廷に献上しますと、『扶桑拾葉集』という勅題を賜わったのです。それは後鳥羽天皇や後醍醐天皇の御文とともに勤皇の志を表わした多くの名文が収められ、朝廷復興の念願を込めたものだったからです。また、後西天皇の皇子有栖川宮幸仁(ありすがわのみやゆきひと)親王から序文をいただくことができ、出版することとなるのです。

『扶桑拾葉集』にはもうひとつ重要なことがあります。それは光圀公が南朝正統を確信した時期の解明につながるものがあることです。『扶桑拾葉集』には勅撰和歌集の序文が収録されていますが、そのなかに「新葉和歌集序」が含まれているのです。『新葉和歌集』は宗良親王が編集され南朝方の人々の和歌を収録したものですが、勅撰和歌集ではありません。それにもかかわらず勅撰和歌集に混じって収録されているのですから、そこに光圀公の意図が込められているはずです。

実は朝廷に献上されたときにはこの序が含まれてはいなかったのです。したがって、献上という大きな仕事の後にこの序が収録されたわけですから、それほどまでにこの序を重要視したということになります。それは南朝の正統を確信したことによって、この序を勅撰集の序と同じように取り扱わなければならないと考えられたからでしょう。序の入集は『新葉和歌集』を准勅撰として認めることでもあったわけです。このように「新葉和歌集序」の『扶桑拾葉集』入集は光圀公の学問思想の深化がうかがえる重要事といえるのです。


『礼儀類典』と朝儀復興

朝廷の恩義にこたえる光圀公の最も大きな事業は『礼儀類典』の撰集です。『礼儀類典』は、朝廷の儀式や作法などをまとめた五百巻にも及ぶ書物です。この書物が注目されるのは大嘗会(だいじょうえ)催行のお役に立つようにとの思いが込められていたことです。大嘗会は天皇がご即位に際して行なわれる儀式です。『礼儀類典』の編集所を彰考別館といいますが、総裁に任じられたのが安藤抱琴(ほうきん)という史臣で、年山の兄です。抱琴は六十名を超える館員を統率して膨大な書物を完成させるのです。撰集の途中のことでしたが、光圀公は抱琴に手紙を送って感謝と慰労を伝えて速やかな完成を期待しています。それからわずか一年半ほどで草稿を完成したというのです。抱琴は香を焚いて光圀公の手紙を拝見して子孫の栄誉にしたいと佐々介三郎(さ っさすけさぶろう)に伝えているほど感激しました。なお、弟の年山は「彰考別館の記」という文章に撰集の様子の詳細を美しい和文にまとめています。

最終的な完成は光圀公の薨去(こうきょ)後とはなりますが、幕府を通じて朝廷に献上されました。朝廷では盛んな時であれば勅撰の書物となったことであろうにと、そして東の地でこのような書物が計画されたことに感嘆しています。

これより先のことですが、霊元天皇は御父(後水尾天皇)の遺品である硯の銘文を作るようにと光圀公に命じられました。光圀公は早速作って献上しますと( 鳳足硯(ほうそくすずり)の銘と呼ばれています)、天皇はお喜びになられて天皇からのお手紙である宸翰(しんかん)を下されたのです。そこには、光圀公は文武を兼ね備えた絶代の名士であると記され、御歌が添えられていました。このような事例は、身が関東にあっても心は京都に向かっていた光圀公の本願を示していることをうかがうに十分でしょう。


光圀公の立場

このように、光圀公の朝廷に対する尊崇の念はまことに篤いものがありました。その尊崇の念を抱き続けるためには、幕府に対しても慎重な配慮が必要でした。すでにふれましたが、水戸家は御三家の一つで将軍家の代わりを担う立場です。幕府は朝廷に対しては陽尊陰抑策を採っています。すなわち表では敬いながらも裏ではその権威や勢力を抑えるということです。幕府は常に、朝廷が幕府を超えることを恐れていました。ですから光圀公は慎重にも慎重を重ねて事業を進めたのです。

『礼儀類典』という書名は『扶桑拾葉集』と同じように朝廷から下賜(かし)されたものですが、朝廷からも完成するまでは幕府に内密にするようにとの配慮がありましたし、『扶桑拾葉集』の刊本を贈呈した際には、親王序文を他人に見せないように依頼しているのはそのためでした。

また、光圀公は常々近臣に向かって次のようなことを話していたというのです。

「我々の主人は天子様です。今の将軍家は親類がしらですから、これを取り違えてはなりません」

そして毎年正月の元日には、早朝に正装して京都を遙拝したというのです。今も、隠居先である西山御殿の庭に遙拝石というものが伝わっています。このように、光圀公の立場は微妙ななかにも確乎とした尊王の精神を読み取ることができます。

『大日本史』の編纂によって培われた歴史学を水戸史学と呼びますが、この水戸史学を精神的支柱として現実の世の中に役立てようとするのが光圀公の学問です。『大日本史』編纂の事業を推し進めつつ、一方では『扶桑拾葉集』や『礼儀類典』の撰集を並行して実施しています。後者はすぐに朝廷のお役に立つことを目指したものだったのです。

こうしてみますと、水戸学とは我が国の歴史の中から我が国のあるべき姿(これを国体と表現しますが、光圀公の時代に使われ始めています。)を探求し、それを明らかにして、後世に伝えるべく護っていこうとする学問ということができるでしょう。その学問の根幹は、後に尊王攘夷という言葉で表現されるのですが、尊王は実に光圀公によって実践されていたものなのです。このような光圀公の思いは、その後どのように受け継がれていくのでしょうか。