9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年12月号

日本経済の長期停滞とその行方        

 吉田和男 /京都大学名誉教授


日本経済の見通し

日本経済は、令和六年になってようやく三十年続いてきた長期停滞からの明るい兆しが見え始めてきたと見られている。株価は、日経平均が四万円となり、バブル期の水準を超えて史上最高値となった。令和六年の春闘による賃上げ率は、三十年以来の高い五・三%となり、消費の拡大を期待させている。物価も上昇し、長期不況の原因とされたデフレも解消の期待が高まっている。令和六年第二四半期の実質経済成長率は〇・八%、第三四半期は一・一%となり、景気上昇の兆しとなっている。円安によって自動車、機械類などの輸出企業や観光産業が勢いを持っており、日本経済の楽観論が広がっている。

しかし、令和五年第二四半期はマイナス〇・七%、第三四半期実質のGDPはマイナス〇・一%、令和六年第一四半期はマイナス〇・二%であり、日本経済が成長軌道に乗ったわけではなく、以前からのゼロ経済成長の流れの中にある。賃金は確かに上昇したが、実質賃金の伸び率はマイナスである。しかも、これまでの異次元の日本銀行の金融緩和策、円安傾向、世界的なインフレーションなどで物価上昇は避けられない。物価・賃金の好循環を期待できる状況ではない。下手をすれば、インフレ下での低成長になる可能性もある。


長期的な日本経済の停滞

日本経済はバブル崩壊後、三十年間ゼロ成長を続けてきた。三十年間、名目でも実質でもGDPは一・一倍、ドル建てでは〇・八五倍で、購買力平価では一・二倍である。これは普通の国にはなく、日本特有のものである。ドル建てGDPでは、アメリカは三・八倍に、ドイツは二・三倍に、中国は三十二倍になっている。購買力平価ではアメリカは三・六倍に、ドイツは二・七倍に、中国は十九・四倍になっている。他の先進国も二~三倍になっている。

日本は高度経済成長の結果、アメリカに次ぐ経済大国であったが、ドル建てGDPは平成二十二年に中国に抜かれ世界第三位になり、令和五年にドイツに抜かれ四位になっている。しかもアメリカ二十七兆ドル、中国十八兆ドルに対し日本は四兆ドルである。中国にも圧倒的な差がある。この結果、ドル建ての一人当たりGDPは平成十二年に世界第二位で、第一位がルクセンブルグなので実質第一位であり、文句なしの豊かな国であった。しかし、令和五年には日本は第三十二位で、第三十三位の韓国、第三十四位のスペイン、第三十五位のクエートと肩を並べている。購買力平価では日本は第三十八位で、第三十九位のスロベニア、第四十位のスペインと並んでいる。

なお、シンガポールは第三位であり、台湾は第十三位、韓国は第三十一位である。すでに日本は先進国ではなくなっている。先進国の定義は三万ドル以上なので、これでは先進国であるが、同等の国を見ても通常の先進国ではない。もちろんG7では最低である。

かつての日本は環境問題などを起こしたが、失業者も少なく終身雇用で、所得も平等で豊かな分厚い中間層があり、貧困の問題は解決したものと思われていた。しかし、今日、パート・アルバイトに加え契約社員や派遣労働者が雇用労働者の四割を占めるようになり、人手不足で失業問題はないが、シングルマザーや子供の貧困問題が議論されるようになっている。少子高齢化と言う現実を前に、長期的な日本経済の不安要因が大きくなっている。


政府の対応と評価

バブル崩壊後の経済停滞に対して、政府は種々の経済政策を行なってきた。初級の経済学の教科書では、不況時には公共投資を行なって総需要を増やすべきとしている。ただ、公共投資をすると財政収支が悪化する。社会保障費のため財政支出は拡大し、ゼロ成長から税収は伸びず、財政赤字が拡大しており、このジレンマの中で経済政策を行ってきた。

バブル崩壊後の平成三年の宮沢喜一内閣は、金融緩和策の一方、景気刺激策として公共事業を拡大した。成長率は三・三%、〇・八%であった。平成五年の細川護煕(もりひろ)内閣は定額減税を行なうとともに、平成九年度に消費税を三%から五%にすることを決めた。成長率は〇・二%であった。平成六年の村山富市内閣も積極策を採ったが、成長率は〇・六%、一・九%であった。平成八年の橋本龍太郎内閣は「六大改革」を掲げ、金融ビッグバンや消費税率の引き上げを行うとともに基礎的財政収支均衡を目指して財政構造改革を試みた。成長率は三・四%、マイナス〇・一%であった。

平成十年の小渕恵三内閣は財政構造改革を凍結して大規模な公共投資を行なった。成長率はマイナス二・〇%(アジア通貨危機があった)、〇・五%であった。平成十二年の小泉純一郎内閣は「聖域なき構造改革」を掲げ、公共投資を抑制し、不良債権問題から「日本発世界恐慌」がささやかれた金融危機を回避した。また、日本銀行は量的緩和政策を実施した。成長率は二・九%、〇・二%、〇・三%、一・七%、二・四%、一・三%であった。平成十八年の安倍晋三内閣・平成十九年の福田康夫内閣も公共投資の抑制や財政健全化を続けた。平成二十年の麻生太郎内閣はリーマン・ショックという世界的な金融危機で日本経済も深刻な不況となり公共投資を中心に大規模な景気対策を打ち出した。成長率はマイナス一・二%になった。

平成二十一年に民主党政権(鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦)となる。「コンクリートから人へ」をスローガンに掲げ、従来の公共投資拡大から転換し、歳出削減で財政再建を行なうとしたが、結局、消費税率の引き上げを公約して下野した。成長率はマイナス五・七%、四・二%、マイナス〇・一%(東日本大震災)、一・五%であった。

平成二十五年の第二次安倍政権は「成長なくして財政再建なし」という「上げ潮路線」を基本にアベノミクスを始める。第一の矢として「大胆な金融政策」を掲げ、長期に続くデフレが経済を停滞させているとして物価上昇率を二%にすることを目標とした「インフレーションターゲット政策」を導入する。日本銀行黒田東彦総裁は「異次元の金融緩和」を行なう。第二の矢として「機動的な財政政策」を行ない、毎年、大規模な補正予算で公共投資を拡大させた。一方では平成二十六年に消費税率を八%に、三十一年に十%(軽減税率あり)に引き上げ、財政健全化に配慮した。第三の矢として「民間投資を喚起する成長戦略」を掲げ規制緩和等の対応を行った。この結果、成長率は二%、〇%、一・二%、〇・九%、二・二%、〇・三%、〇・七%となった。令和二年の菅義偉内閣はアベノミクスを継承するがコロナ感染のために巨額の財政支出を行なった。成長率はマイナス四・六%であった。令和三年の岸田文雄内閣は新しい資本主義を提唱し「分配による成長」を目指す。ただ、コロナ対策として大規模な補助金などを続けた。成長率は一・七%、一・九%となった。

以上のように、各内閣はバブル崩壊後の長期の経済停滞に対して財政金融政策で景気回復を図ったが、ほとんど成功していないことが分かる。すなわち、経済対策と経済成長率はあまり関係がなかった。低いが安定していたのは、公共投資に消極的な小泉内閣時代であった。マイナス成長が起こったのは、ITバブル崩壊、リーマンショック、アジア通貨危機、コロナ感染などの外的ショックであった。日本の低成長経済は政府の政策では何ともならなかった。ここから分かるように、長期の低成長の要因は需要側にあったのではなく、供給側にあった。


アメリカの例

一九七〇年代のアメリカ経済は、インフレーションと失業の併存するスタグフレーションになり、経済対策を行なうとますます悪化する状況であった。一九八〇年にアメリカ経済を復活させたのがロナルド・レーガン大統領であった。レーガンのレーガノミクスは、需要側ではなく供給側に問題があるとして、税率の引き下げと規制緩和を行なうことでアメリカ経済を成長軌道に導いた。減税といっても、可処分所得を増やして消費を拡大させるのではなく、手取りの賃金を引き上げることで勤労を引き出すものであった。

法人税率の引き下げも、投資収益率を高めて設備投資を引き出すものであった。キャピタルゲイン課税の引き下げで、株式投資を促進させた。規制緩和によって、金融革命、経営革命、情報通信革命、ベンチャービジネスの発展を導いた。この結果、この三十年の間にドル建てGDPは三・八倍になった。

経済成長の要因は、初級の経済学の教科書では、労働人口増、設備投資、技術革新とされている。日本経済はバブル崩壊で金融閉塞になり、設備投資が抑制されたことで供給側から経済成長を抑制したのである。また、人口の高齢化で大量の引退者が増え、より少ない若者の労働市場への参加しかなかった。ワーク・ライフ・バランスが強調され、労働者の勤務時間は傾向的に減少していた。このため有効求人倍率はバブル崩壊後は低下したが、平成二十五年以降は一を超え、令和六年には一・二になっており、一貫して人手不足経済が続いている。公共投資で総需要を増やしても、実質GDPは増加のしようがない。このため経済対策はほとんど効果がなかったのは当然であった。そして、国債の大量発行を行ったため令和五年度末の政府債務残高は千四百九十三兆円で、そのGDP比は二五三%になった。これをど の様に処理すべきかは大きな問題である。このまま続けば、いつか財政破綻にもなりかねない。

経済成長を起こすには、アメリカの様な金融革命、経営革命などが必要であるが、日本では起こらなかった。小泉内閣では、「構造改革」でそれを狙ったが徹底したものではなかった。労働規制緩和は不可欠であり、派遣労働の規制緩和などは行われたが、本丸の正規社員の制度には手が付けられなかった。また、インターネットの誕生でアメリカの経済は様変わりしたが、日本のIT革命は周回遅れである。デジタル庁の設立は令和三年で、ウインドウズ95が出てから二十六年後である。アメリカの株式総額上位企業のほとんどがGAFAMに代表されるベンチャー・ビジネス出身であり、新しい技術と新しい経営でアメリカ経済を牽引してきた。いま最もホットな話題になっているAIに関しても、令和五年のAIへの民間投資はアメリカ六百七十二億ドルで、中国は七十八億ドルであるのに対して日本は七億ドルである。しかも、アメリカではベンチャー・ビジネスが中心である。このような状況で日本経済が勝てるはずがない。


日本の取るべき対応

日本政府は国土強靭化のための公共投資には熱心であるが、先端的技術に遅れを取っていることを自覚していない。これでは、ゼロ経済成長から抜け出ることは難しい。先進国で最低の消費税率を引き上げ、最高の法人税率を引き下げて、設備投資を活性化すべきである。経済政策の基本を、公共投資による総需要拡大政策から、規制緩和、設備投資促進、官学民の研究開発費の増強、ベンチャー・ビジネスの振興などの供給側政策に切り替えなければ日本経済を成長軌道に乗せることはできない。