『日本』令和6年12月号

十二月号巻頭言 「吉田松陰先生漢詩」 解説

吉田松陰先生は嘉永四年(一八五一)十二月、東北地方巡遊に旅立ち、水戸で会沢正志斎や豊田天功らに学び、会津を経て二月十五日、越後出雲崎に至り、翌日、佐渡に渡らうとしたが、海は荒れ、漸く渡れたのは二十七日のことであつた。翌二十八日、行を共にしてゐる

熊本藩士宮部鼎蔵と、真野の順徳天皇の御陵に参拝した時の漢詩の一部である。

順徳天皇(上皇)は、御父、後鳥羽上皇の朝権回復の御企てに共鳴され、北条義時討伐の兵を挙げられたが、事は敗れ、佐渡に遷幸されることとなつた。承久三年(一二二一)の承久の変である。順徳上皇は北国の厳しき島にあること二十二年、仁治三年(一二四二)九 月十二日、都に帰る望みも絶え、絶食して崩御せられたのである。時に四十六歳であつた。

松陰先生は、北条義時を姦賊と断じ、当時、上皇の至願を理解する人が無かつたことを嘆くのである。だが、現地においては上皇を慕ふ風が六百年後においても存してゐることを喜んだ気持ちが示されてゐる。

翻つて今日、承久の変は無謀なる権力争ひと評され、上皇らの至願は全く無視されてゐる。平泉澄博士の『三続父祖の足跡』により、これを正す努力をしなければならない。 (堀井純二)