『日本』令和6年12月号
義の日本思想史(十二)
新保祐司 /文芸批評家
第十二章 義と侠骨 一 遥かなる江差
「名曲アルバム」という五分間のテレビ番組がある。今は、NHKのBSで早朝の五時五十五分から放映している。主としてクラシック音楽の名曲をとりあげて、それを五分間に編集、曲や作曲家に関係した街や自然の風景、あるいは歴史的文物などの映像を流す。
先日、「江差追分」をやっていた。クラシック音楽以外のものをとりあげるのは珍しいが、「江差追分」は、日本の代表的な民謡だからであろう。その「名曲アルバム」は、冒頭に、北の海の荒波の光景が映され、やがて港の海の上を一羽の鷗が飛んでいる映像が流れる。テロップは、江差が、北海道南西部の日本海に面した町であるとの文章から始まり、この町が明治期にニシン漁で繁栄したこと、そして大正になって衰退していったことなどを紹介していた。
「江差追分」については、以前『江差追分物語』(館和夫著、道新選書、一九八九年刊)を読んだことがある。追分とは、そもそも街道の分岐点をいい、当然、全国各地にこの地名がのこっているが、なかでも軽井沢の追分がよく知られている。中山道と北国街道の分岐点であった。軽井沢に滞在していたとき、その先の信濃追分駅まで行って、軽井沢追分の分去 (わかさ)れの周囲を歩いてみたことがある。この「分去れ」という地名は、味わい深い。街道の分岐点では、当然無数の別れがあった訳であり、その追分から追分節という民謡の代表的な形が生まれてきたことは、別れというものが人間にとって最も切実な感情をもたらすものであることからも、納得できることである。
「信濃追分」という追分節は、宿駅信濃追分で、飯盛女(めしもりおんな)が酒席の座興に歌いだした三味線伴奏の騒ぎ歌を元としている。それは、この街道付近の馬子唄(まごうた)の節を母体としているという。馬子にしても、飯盛女にしても、言うまでもなく、苦しい境遇にある人々であり、そういう生活の中から、あるいは別離から追分節が自然に発生して来たのであろう。
これが越後に伝わって「越後追分」となり、さらに日本海沿岸を北上して、「酒田追分」「本庄追分」「秋田追分」などそれぞれの節回しの追分節として展開していった。そして、ついに天保年間(一八三〇~四四)の頃、北前船によって北海道の地にたどり着き、定着 した。それが「江差追分」である。館氏は、当時の松前藩の施政下、過酷な状況があったことに触れた後で、「過酷な労働を余儀なくされた人々こそ災難であったといわなければならない。つまり、大勢の出稼ぎ漁夫やその家族、小前の百姓達、旅芸人や花街の女といったような下積みの人々である。江差追分は、何よりも、まずそのような人々の胸奥からほとばしり出た魂の叫びであった」と書いている。
私は、「江差追分」の流れる中、映し出される町並みや漁船などを見ながら、懐かしさに堪えなかった。というのは、私の本籍地は、江差だからである。正確に言えば、私が二十歳頃に、父が当時住んでいた横浜市に本籍を移したから、今は本籍地ではないのだが、私の意識上の本籍地は、いまだに江差である。子供の頃は、東京の世田谷に住んでいて、学校の書類などで本籍地を記入するとき、本籍地が現住所と同じ、あるいはどこかの都会の友達の中にあって、子供心に自分が何か「遥かなる」ところから来たる者という感じを持ったことを思い出す。「名曲アルバム」のテロップには、「北前船は一獲千金を夢見る多くの季節労働者を江差に運んできた」「彼らは危険な船旅を乗り越え、たどり着いた江差でニシン漁を支えた」「寒風と荒波にもまれる冬の漁、離れた家族を養うために必死で働いた」とある。祖父は、戦前に中国の徐州で死んだので、その生涯のことはほとんど知らないが、江差で商店を開いていたというから、「ニシン漁を支え」ていたわけではないが、このような人々の間で「必死で働いた」に違いない。
生まれたのは、父が当時勤務していた仙台だが、四歳で東京の世田谷に移ったので、仙台時代の記憶はほとんどない。かえって、住んだこともない江差の方が、私の意識の上に重みを持っている。
懐かしさと書いたが、大学時代に北海道旅行のついでに寄っただけで、そのときにも特別な感情は湧かなかったように思う。その後、やっと五十代半ばになって訪ねることになったのは、やはり人並みに自分のルーツを確認したくなったからに違いない。しかし、それだけではなかった。戊辰戦争のときの江差の歴史に関心が高まったからである。徳川幕府がオランダに注文して建造した当時最強の軍艦、開陽丸が沈んだのは、江差港の沖だったのである。
この史実を知ったのは、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの第十五巻『北海道の諸道』によってだった。私は、幕末維新期の歴史を、大佛次郎の『天皇の世紀』を熟読することで学んだのだが、この未完の大作は、戊辰戦争については北越戦争の河井継之助の死で終わっていて、函館戦争については書かれていなかった。だから、開陽丸の最期については知識が抜けていたのである。『北海道の諸道』の中で、開陽丸は「開陽丸」「政治の海」「開陽丸の航跡」「江差の風浪」「海岸の作業場」の五つの章で触れられているが、「江差の風浪」の中に、次のように書かれていた。
榎本武揚が開陽丸以下の艦隊に陸兵を満載(海陸兵三千五百人)し、厳冬の蝦夷地へむかったのは、当然のことながら徳川家臣団としての独立共和国をつくるつもりであった。(中略)
このとき松前半島への作戦を指揮したのは新選組の土方歳三(五稜郭政府の陸軍奉行並(なみ))であった。榎本はあらかじめ土方と話し合い、
「江差の攻撃を開陽がお手伝いする」――
と約束し、海陸が江差で落ちあう日も決めた。さらにはみずからこの旗艦に搭乗して函館を出港した。政府総裁自身が艦を指揮したのは、開陽丸の初陣にあたって自分が後方にいる手はないと意気込んだからに違いない。
開陽丸が江差沖にあらわれたのは土方と約束した十一月十五日(新暦十二月二十八日)の夜明け近くであった。対岸の山々の雪が黎明とともに白くうかびあがって来るのを榎本は艦首に立って眺めていたが、山を背負って海浜に人家をならべる江差は、なにやら静かであった。
「どうも、敵も味方も居そうにない」
榎本は望遠鏡をのぞいてはつぶやいた。
たしかにそうであった。この時期、味方の土方軍は江差まであと五、六キロという上ノ国付近で松前兵の抵抗に遭って行軍が手間どっていたし、江差を守る敵の松前藩兵は状況の不利に耐えかねて撤退してしまっていた。
江差港は、港外の鷗島(弁天島)が港を風浪から守っている。松前藩はかつてこの島に砲台を築いていたが、この朝、その砲台も沈黙していた。ためしに射ってみようと榎本は思い砲門をひらき、砲弾を送ってみたが、応射して来なかった。
このあと榎本は短艇を出して兵員を上陸させると、町に敵も味方もおらず、難なく諸役所を占領した。榎本自身も、上陸した。多くの者が、ぞろぞろ上陸した。
艦は、ちょうど門外につながれた空馬のように、港外に錨をおろして停泊した。
それが、その日の夜、九時頃から、風浪が激しくなり、その荒天の中、暗礁に乗り上げて 破船してしまう。暴風は終夜やまずに、その後、四日もつづき、十数日後に、海底に沈んだ。わずか三年ほどの短命な船であった。この不運も、何か江差にふさわしいように感じら れる。
この江差沖で座礁、沈没した幕府の軍艦、開陽丸が平成二年に復元されたことを知って、 一度見に行きたいと思っていたのである。それが、偶々(たまたま)函館に用事ができたので、 行ってみることにした。十一月も末のことだった。
函館から江差線の終点、江差駅には二時間半くらいかかる。この江差線も、平成二十六年 に廃線になってしまった。駅からタクシーで開陽丸に行くことにする。日本海に面した国道 に出て、しばらくすると、開陽丸が遠くに浮んでいるのが見えて来る。車が進んでいくに従 って、軍艦がどんどん大きく見えて来るのは心を高ぶらせる光景であった。なかなかの威容 である。その姿は戊辰戦争のときと変わってはいまい。
艦内に入りそこに並べられた展示物を見ながら一巡した後、甲板上に立って寒風に曝さ れながら周りを見渡した。鷗島がすぐそこにある。その後、町を歩いてみた。余り人はいな い。姥神(うばがみ)大神宮に寄った。というのは、昔書いた本籍が、記憶が正しければ、北 海道桧山郡江差町字姥神九〇だったからある。この神社の近くに違いなかった。日帰りのこ ともあり、その他には、江差追分会館に行ったくらいである。
今、調べてみると、旧檜山爾志郡役所前に、土方歳三の嘆きの松というものがあるという。 伝えられるところでは、土方歳三と榎本武揚は、座礁した開陽丸をこの地で眺め、土方が嘆 きながらこの松の木を叩いた。その後、松の木に瘤ができてそこから曲がっていったとのこ とで、この瘤は土方歳三のこぶしともいわれている。この話は、同じく戊辰戦争の際の上野 戦争で、十代で彰義隊に参加した戸川残花が、明治になって詠んだ俳句「玉疵も瘤となりた るさくら哉」を思い出させる。
私が、江差に心惹かれるのは、北方的なるものに対する共感が根本にあるが、その繁栄と 衰退の歴史と貧しさと苦難の風情がそれを増幅しているように思う。「江差追分」という民 謡は、その歴史の哀愁を凝縮したような唄である。そして、その江差が、戊辰戦争のときに 開陽丸が沈没した場所という歴史的な意味を持った町であることは、一層私の江差に対す る思いを誇らしいものにする。江差という町の歴史には、ニシン漁の衰退にからんだものを はじめとして有名無名を問わず、嘆きの瘤が多く出来ているようである。
江差のことで私にとってもう一つうれしいことがある。それは、「海ゆかば」や交声曲「海 道東征」の作曲家、信時潔に関係したことである。信時は、私にとって極めて重要な批評の 対象だった。その信時は、校歌を九百曲ほども作っているが、江差町立南が丘小学校の校歌 が、信時の作曲によるものなのである。
二 柳川熊吉と清水次郎長
江差から日帰りで戻った夜は、函館で一泊し、次の日は、市内を散策した。函館は、親戚 が住んでいたこともあり、大学生のときに江差に行ったときに寄ったことがある。一度しか 行ったことがないが、函館という街には、何か心惹かれるものがある。函館というと、石川 啄木の短歌「函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌やぐるまの花」を思い出す。函館という 街の抒情は、これで尽きている。石川啄木一族の墓が、函館山南端の立待岬近くにあり、訪 ねた。津軽海峡の寒風が吹きつける中、将棋の駒のような形をしてどっしりとした重量感の ある墓石に対した。上の方に啄木一族の墓とあり、墓面には短歌「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」が刻まれている。啄木は函館で眠ることを願ったほどにこの 街に愛着を抱いていたのか。盛岡生まれの啄木は、やはり北方の精神の人である。この墓石 は、樺太の北緯五十度線にあった日露境界標石を模したものだという。
函館といえば忘れられないものは、函館戦争である。五稜郭に行くことは行ったが、観光 スポットになっているようですぐに出た。私は、何よりも碧血碑(へきけつひ)に行きたかったのである。碧血碑は、函館戦争旧幕府軍戦没者の慰霊碑である。土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、約八百名の将兵を慰霊するために明治八年に建てられたものである。
小林秀雄の親友で小林と共に昭和の文芸評論家として知られる河上徹太郎に、「大鳥圭介 南柯の夢」という少し珍しいものがある。昭和三十年三月『別冊文藝春秋』に発表された。 大鳥圭介は、幕末の歩兵奉行であり、伝習隊を結成し、戊辰戦争では函館の五稜郭政府の陸 軍奉行であった。
河上の先祖は、倒幕側の長州勢(吉川藩)に属し、夫人は大鳥圭介の令孫であった。こう いう私的な背景が、河上の作品の中では数少ない歴史物を書かしめたのである。慶応四年四 月に、伝習隊歩兵四百五十人を率いて江戸を脱出するところから書き起こされ、会津などを 転戦して、ついに函館の五稜郭に入る。そして、新政府軍と激戦の末に、五稜郭政府総裁の 榎本武揚らの幹部とともに投降したところで終わる。
この歴史物の中で、河上は、大鳥圭介が転戦した跡を訪ねているが、函館に行ったときの 記述の中で、次のように碧血碑のことが書かれている。
図書館は函館山の北麓、人気のない公園の中にあり、周りには疎(まば)らな樹や児童の遊戯台などが雪に埋もれて立っていた。帰りに序(ついで)だから見てゆけ、といって、近所の碧血碑に案内された。それは図書館裏手の、もっと函館山に近い所、というよりも山をかなり登った小高い所に建っていた。膝を没する雪をかき分けて、漸くどす黒い松林に囲まれた碑に達する。どんより曇った雪空の下で、山を真南にしているので、午後四時というに薄暗い。眼下に大森浜の波が鉛色に打ち寄せていた。
この碑は表に大きく楷書で碧血碑と書き、裏には
明治辰巳実有此事
立石山上以表厥(その)志
明治八年五月
とあるだけで、何の叙述も詠嘆も署名もない。然しこれが函館戦争で戦死した全「賊軍」方の遺骨を合葬したもので、戦後柳川熊吉という侠客が建てようとして、屢々官憲に弾圧され、その後出獄した大鳥圭介が漸く許可を得て、明治八年にこれを建てたということである。碧血とは、孤忠の丹心三年にして碧石と化す、という故事から来ている由。殊に裏の文句は、官憲の忌諱を慮って何も具体的に書かず、しかも万感籠った追悼と恨みを述べてあます所がない。稀代の名文句である。これも圭介の文であろうか?彼は、漢学は達者だが、それにしても出来過ぎている。然し、表の碧血碑の字は、彼のものとされている。「どうでしょう?御鑑定願えませんか?」と人々にいわれて、私は恐れ入った。「私は彼の楷書は初めてなんで」といったが、これはそういえば、そうらしくもある。
私が、碧血碑に行ったのは、十一月末の晩秋の午後 であった。まだ雪はなかったが、「どす黒い松林に囲まれて」立っていることは同じであっ た。もちろん、私の他に誰もいない。しーんとしている。六メートルもあるかと思われる大 きな碑に向かって立った。何か霊気が漂っているようである。裏に回って、「明治辰巳実有 此事云々」の文字を見る。確かに、これは、河上がいうように「稀代の名文句」である。函 館戦争という歴史の大きな悲劇が背景になければ、このような言葉は出てこない。
これが、「稀代の名文句」である所以は何か。「此事」という表現は、明治政府のことを慮 って具体的に書くことを避けたという説が多くみられる。確かにそうであろう。しかし、「此 事」という言葉が思い浮かんだとき、この言葉は当事者たちの思いを超えたものとなったの はないか。「此事」は、単に函館戦争のことではなかった。実に此事有りと、「実に」と思い が込められているのは、「此事」が具体的な戦争を超えて、何か人間の悲劇の歴史であった ことを示唆しているように思われる。碧血とは、義に殉じた武人の血は、三年経てば碧玉なるという故事に基づく。「此事」とは、義の発現であったのだ。私は、何ものかを約束さ せられたかの思いを抱いて、この碑の前を辞した。
この碧血碑を訪ねたとき、私はこの「柳川熊吉という侠客」のことを知らなかった。迂闊 なことである。碧血碑の傍らに「柳川熊吉翁之碑」があるという。大正二年、熊吉八十八歳 の米寿に際して、有志たちによって建てられた。その年に、熊吉は死んでいる。函館市によ る説明版には、次のように書かれている。
柳川熊吉は、安政三(一八五六)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造の際には、 労働者の供給に貢献した。
明治二年(一八六九)、函館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰 霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されてままであったが、新政府軍のこの処 置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じ た新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。
明治四年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同八年、旧幕府脱走軍の戦 死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正二年(一九一三)、熊吉八十八歳の米寿に際し、 有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。
あのとき、私は、この「寿碑」に何故か気がつかなかった。碧血碑に関心が集中していた のだろうか。柳川熊吉翁に申し訳ないことをしてしまった。
この「義挙」は、これも「侠客」の、それもその代表的な人物、清水次郎長のことを連想 させる。旧幕府海軍榎本艦隊に属する軍艦咸臨丸が、台風に遭遇して破損した。清水港に緊 急避難したが、明治元年(一八六八)九月十八日、新政府軍の軍艦の攻撃を受け、交戦した。 二十人余の乗組員が殺され、海中に投棄された。駿府藩は、新政府の眼を気にして清水港内 に浮ぶ死体に手を出せなかった。これに立ち上がったのが、清水次郎長であった。
「是非ハ即チ我レ知ラズ。然(し)カモ此輩皆命ヲ国家ニ致ス者ナリ。如何(いかん)ゾ之ヲ 魚腹ニ餧(くらわ)セン」と言って、子分を連れて密(ひそ)かに夜を待って港内をさらい。死 体を新開地向島の古松を目印に埋葬した。この際の、次郎長の啖呵(たんか)は、「人ノ世ニ処 (お)ル、賊トナリ敵トナル。悪(にく)ム所唯其生前ノ事ノミ。若(も)シ其レ一タビ死セバ、復 (ま)タ何ゾ罪スルニ足ランヤ。今官軍戦勝テ余威アリ。而(しこう)シテ特ニ敵屍ヲ投棄シテ 去ル。我レ其不仁ヲ憾(うら)ム。腐屍港口ニアル者数日、漁者為メニ業ヲ廃ス。我レ其不幸 ヲ憫(あわれ)ム。不仁ノ為メニ仁ヲ為シ、不利ノ為メニ利ヲ計ル、何為(なんす)レゾ嫌疑ヲ 避ケン」というものであった。翌年、この地に壮士墓を建てた。墓の字は、山岡鉄舟が揮毫 したものである。
内村鑑三は、『基督教(きりすときょう)問答』の中で、清水次郎長の辞世「六でなき四五と も今はあきはてて先だつさい(妻)に逢ふぞ嬉しき」をとりあげて、「多くの貴顕方の辞世 の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望の溢れたる思想に至つては、とてもこの博徒の述 懐に及ばないと思ひます。彼れ次郎長は侠客の名に恥じません。彼れはこの世にあつては多 少の善事をなした報酬として、死に臨んでこの美はしき死後の希望を抱くことができたと 見えます」と書いている。この「多少の善事」の最たるものが、咸臨丸事件の際の義侠であ ろう。「侠客」次郎長をこのように評価するところに、内村鑑三の面目躍如たるものがある。義の内村鑑三が、侠の清水次郎長に共鳴している。いわゆる無教会主義の弟子であった東 大総長の南原繁や矢内原忠雄よりも、侠客清水次郎長の方に、内村鑑三は親近性を感じるよ うな人間だったのではないか。
その他、「明治の精神」から挙げるならば、北村透谷は、「我性尤(もっと)も侠骨を愛す」 といい、岡倉天心は、「奇骨侠骨 開落栄枯はなんのその 堂々男子は死んでもよい」と歌 った。次郎長の墓の「侠客次郎長之墓」の字は、榎本武揚のものであった。ここで、函館戦 争の榎本武揚が登場する。このように義と侠は、響き合うのだ。
侠と義は、地下茎でつながっているのではないか。侠のない義は、形式的なものに堕す。 日本人においては、侠とは義が血肉化したものではないか。清水港で、武士道という義を学 んだはずの駿府藩の武士たちは何もしなかったのである。こういう形だけの義が肥大化し 空疎化すると、大義とかが声高に唱えられることになる。義を語るとき、この侠とのつなが りを忘れてはならない。侠の頭に義がついて、義侠心となる。一方、義も、侠骨に貫かれて いなければならない。義の精神は、侠骨によって垂直に立つ。