『日本』令和6年12月号
菅谷鹿島神社の絵馬に学ぶ
― 平重盛、父清盛を諫言する ―
齋藤郁子 /水戶・歴史に学ぶ会代表
昨年、文化財めぐりの案内役として、茨城県那珂市の菅谷鹿島神社を訪れました。この神社も、初詣(はつもうで)は賑(にぎ)はひを見せます。夏には、三年に一度ですが、町を挙げての一大祭礼「大助(おおすけ)祭り」、別名「提灯(ちょうちん)祭り」が催されます。昔時(むかし)、八幡太郎義家(よしいえ)が奥州遠征の戦勝を祈願したことにちなんでの祭事で、町内十三地区から繰り出される提灯で飾られた山車(だし)や屋台が夕方の神社境内に繰り込む行列は見事です。
拝殿の鴨居(かもい)に掲げられたこの絵馬「平重盛(しげもり)、父清盛(きよもり)を諫言(かんげん)」は、明治十八年(一八八五)に、茨城県那珂郡菅谷村の高野知厚(ともあつ)が奉納したものです。
奉納者の高野氏の出自は、鎌倉御家人八田知家(はったともいえ)の流れを汲むといはれてゐますが、菅谷村への移住の経緯は明らかではありません。高野氏は、中世の江戸氏支配時代は「菅谷十騎」といはれる領主の一人に数へられてゐました。絵馬を奉納した知厚は、この高野家の子孫と推定されてゐます。
絵馬を描いた松平雪山(せつざん)は水戸藩士で、郡奉行(こおりぶぎょう)や書院番組、留守居同心頭(るすいどうしんがしら)を務め、文久三年(一八六三)に隠居して雪山と号しました。殊に、人物や花鳥の画に優れてゐました。雪山には、水戸藩の一大軍事演習である「追鳥狩(おいとりがり)」を、藩命により弟子の加藤雪潭(せったん)とともに描いた絵巻十九巻の大作があります。
知厚が、この絵馬制作を雪山に依頼したのか、または、誰からか求めた物なのかなどの経緯は不明です。
絵馬「平清盛と重盛父子」
絵馬の場面は次のやうです。権勢を振るひ驕(おご)つてゐた平清盛は、後白河法皇が平家討伐を企ててゐると邪推して、鎧甲(よろいかぶと)に身を固め、一族を挙げて法皇邸へ押しかけようと準備を進めてゐました。そこへ、それとは知らずに直衣(のうし)直垂(ひたたれ)の平服姿の長男重盛が訪問します。日頃から諫言を受け、敬遠してゐた重盛の来訪に、清盛は大いに驚きます。急ぎ袈裟(けさ)を纏(まと)ひ、武装した姿を隠さうとしますが、袈裟の裾(すそ)からは鎧の端(はし)が見えてゐました。
父清盛の魂胆(こんたん)に気づいた重盛は、父が後白河法皇を攻めるといふことは、臣下として到底(とうてい)許されることではなく、「不義不忠に当たる」と厳しく諫(いさ)める場面です。ここから「衣の下の鎧」の諺(ことわざ)も生れました。
父としての平重盛
絵馬の中の重盛について、『大日本史』「列伝」第八十三に記された清盛と重盛との会話を通して、重盛の心の中に迫つてみました。
嘉応二年(一一七〇)、重盛の子資盛(すけもり)が、都大路を進んでいた途中で、摂政(せっしょう)藤原基房(もとふさ)に遭遇(そうぐう)した際のこと。資盛は、基房に牛車(ぎっしゃ)より降りて挨拶の礼をしませんでした。資盛は咎(とが)められ、摂政の家人(けにん)に牛車から引きずり出される辱(はずか)しめを受けました。これを聴いた重盛は、次のやうに資盛を責めて言ひます。
役人には、役職により上下関係がある。たとひ、同等であつても、そこには互ひに敬意を持つことが大切である。ましてや、最上級の摂政に対して、礼を欠くことがあつてはならない。お前は、十歳を過ぎて、まだ礼法を知らない、辱めを受けるのは当然である。
一方の基房も、その家人を捕らへて重盛の屋敷へ詫びを入れました。重盛は恐縮して、悪いのはわが子資盛であり、それには及ばないことと謝したのでした。
ここには、親の責任を感じつつも、わが子を叱責(しっせき)する重盛の毅然(きぜん)たる姿勢と、摂政基房の道理を弁(わきま)へた態度が賞讃されてゐます。わが子をかばひ、相手を責めることのみに奔(はし)る現代の親に聞かせたいところです。
これに反して、孫資盛が恥を掻(か)かされたとの話しを聴いて激怒した清盛は、報復を企てます。それに対しても重盛は、次のやうに諫めます。
幼い資盛が、摂政に対して礼儀を欠いたことは、付き添つた補導役の従者が悪い。しかも、そのことを問題にしないで、逆に摂政方を責めるのは、正当ではありません。
そもそも、摂政など高位高官は、陛下の政務をお輔(たす)けし、国民の生活を守り安定させる重要な役割を担つてゐるものです。現在、盛んな平家の勢(いきお)ひを以て、摂関家(せっかんけ)の藤原氏に圧力をかけようとするのは大きな誤りです。
仁徳を以て事に当たるものは栄え、権力を以て事に当たるものは滅すると言ふではありませんか。願はくは父上よ、この事をよくよくお考へ下さい。
今日の政治家に限らず国民は、この重盛の諫言に謙虚に耳を傾けなければならないと思ふところです。
近衛大将としての重盛
治承元年(一一七七)、重盛は左近衛大将となり、次いで内大臣に列せられました。
この頃、後白河法皇の側近であつた藤原成親(なりちか)が、党を結び、密(ひそ)かに平家討滅を謀(はか)ります。しかし、事は漏(も)れて成親は捕縛され、清盛に斬られようとします。
この時、重盛は、父清盛を次のやうに諫めて言ひます。
成親は、法皇の寵臣(ちょうしん)です。今、直(ただ)ちに私怨を以て殺さうとするのは誤りです。厳罰として、ただ成親一人を都の外に追放し、他の一味はそれなりに処罰すれば足りることです。
父上よ、「積善の家に余慶あり」との訓言を思ひ、子孫のために、どうか忍んでいただきたい。
一方で重盛は、武士たちを戒めて言ひます。
父は、一旦は激怒するが必ず後悔されることが多い。たとひ、成親処刑の命令があらうとも、お前たちは決してそれを為してはならない。
これによつて、成親は死を免れました。
しかし、清盛の怒りは収まらず、一族郎党を武装させて招集しました。それとは知らずに、召集に応じて遅れて着いた平服姿の重盛は、武装の面々を見て驚き、弟の宗盛を詰問(きつもん)します。
近衛大将は、兵権を掌握する最高位である。しかも自分は、たまたまこの職に就いてゐる。濫(みだ)りに武装するものではない。もし、反逆者が出たやうな国家の一大事に際しては、直(ただ)ちに武装して兵の指揮を執る。今、自分は、諸君がなぜ武装し、事を起こさうとしてゐるのかを知らない。
いつたい、敵とは誰のことか。そもそも大事とは何か。大事とは、国家皇室に関する事だけである。今、諸君が事を起こさうとしてゐることは、単に平家に関する私事である。どうして大事といふことができようか。
これを聴いてゐた清盛は、心に恥じ、慌(あわ)てて袈裟を着(つ)けて武装を隠さうとしましたが、縫ひ目が裂けて裾(すそ)が現れる始末でした。
清盛は平静を装ひ、逆に重盛の遅参を責め、「成親の姦謀(かんぼう)は事実法皇の計(はかりごと)にある。法皇を他所へ移し禍(わざわい)の根源を除くのだ」と、激しました。
父の姿勢に対し、重盛は涙を流しながら、「太政大臣に昇進した者が、武装した例を未だ聞かない。ましてや出家した後に於てをや。仏説の四恩は、国恩を最も重しとし、これを知るを人とし、知らざるを禽獣(きんじゅう)とすと言ふではありませんか」と、諫言したのでした。
重盛の説く忠孝
続けて重盛は言ひます。
我が一門は、いはば成り上がりものです。それが今や、一門の領地はほとんど天下に半ばするほどの繁栄ぶりです。かうなつた皇室の恩義を忘れては、鬼神も必ず怒り、平家の滅亡も間もないことになるでせう。そもそもこれは、一、二の首謀者を罰すれば済むことです。それを、どうして法皇にまで迫る必要がありませうか。
さらに加へて、重盛が父清盛に迫つたことは、前に「絵馬」解説の場面で触れたところです。即ち、重盛が父の孝子であらうとすると不忠となり、法皇の忠臣であらうとすると不孝となる。「進退これ極まる」と苦悩したところです。
しかし、重盛は決断しました。
父上よ、もし私の言ひ分が認められないのであれば、お願ひです。先づ、この重盛を斬られよ。
これについて想ひ起すのは、保元元年(一一五六)の保元の乱のことです。源為義と嫡男義朝は、敵味方に分かれて戦ひます。結果、父為義方は敗れ、不忠者として処刑されます。しかも、その執行者は嫡男義朝でした。
北畠親房は、『神皇正統記』の中で、命を下された朝廷を非とすると共に、義朝は自分が身代はりとなつても、父を助けるべきであつたと批判してゐたのです。
この絵馬について、近所の九十歳超の方が、「子どもの頃は鮮やかな色の絵馬だつた。宮司さんから、この意味を教へられたものです」と、語つてくれました。
現在では、色彩はかなり薄くなつて見えにくい状態ですが、歴史上有名な場面を描いた絵馬を奉納された高野知厚の、心根を窺ひ知ることができます。