9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年3月号

二 宮 尊 徳(上)

 中山エイ子  /佐佐木信綱研究会会員


はじめに

二宮金次郎(尊徳(たかのり))は、全国的な大飢饉の最中、天明七年(一七八七)七月、相模国(さがみのくに)の栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市栢山)の百姓の家に生まれました。

五歳の時、近くの酒匂(さかわ)川の大洪水で父祖伝来の広い田畑を失い貧困生活を送る中、金次郎は十代半ばで相次いで両親を亡くしました。伯父宅で厄介になりながら身を砕き、工夫と勤勉を重ね、数年後には自力で実家を立て直しました。

各地で農地の荒廃、農民の疲弊が深刻化していた江戸時代末期、金次郎は小田原藩家老服部家や下野国(しもつけのくに)桜町領を始め、諸家・諸村・諸藩の財政の立て直しや、荒地の復興、貧民救済に尽力し、功績を上げ、幕臣の身分を得て御普請 (ごふしん)役となりました。安政三年(一八五六)十月、日光神領の復旧事業の途上で七十年の生涯を閉じました。

二宮尊徳は明治時代に有名になりました。唱歌の前に、まずはその辺りの事情から覗(のぞ)いてみたいと思います。


幸田露伴の『二宮尊徳翁』

金次郎の高弟富田高慶(とみたたかよし)(相馬藩士)が記した『報徳記』の写本が、明治十三年、天覧に供せられて以来、『報徳記』や福住正兄(ふくずみまさえ)著『二宮翁夜話』などが刊行され、二宮尊徳の名は一般に知られつつありました。同二十四年十一月には、特旨により従四位が贈られています。

ちょうどその頃です。常々、弟や妹たちに古人の伝記を話して聞かせていたという幸田露件が、博文館の少年文学叢書の一冊にと書いた『二宮尊徳翁』が、出版されました。同年十月、文壇に登場して三年目、二十四歳の時でした。文語調の大文字版、百十二ページ程の短い和装本です。

内容は、『報徳記』から抜粋したもので、金次郎の少年期、服部家の立て直し、物井村の大酒飲みの改心、烏山(からすやま)の飢民と僧円応、吝嗇(りんしょく)家の豪商川崎屋孫右衛門(まごえもん)、終日、木の根を掘っている老役夫(えきふ)、桜町の復興と悪風改善、小田原の飢民救済などの話です。「二宮先生」の誠実と報徳の実践や教えを交えて詳述してあるため、大変説得力のある人物伝です。

さて、父の亡き後、金次郎は薪(たきぎ)採とりの行き帰りに、儒学の経典である『大学』を大きな声で誦読していました。この様子を露伴は金次郎の志にまで及んで次のように書きました。

人と生れて聖賢の道も知らずに過ぎなむは口惜(くやし)きことの限りなりと、僅(わづか) に得たる大学の書を懐(ふところ)中に常(つね)離さず、薪伐(きこ)る山路の往返(ゆきかへり) 歩みながらに読まれける心掛(こころがけ)こそ尊けれ。

少年金次郎のイメージを決定づけたと言われるのが、この読書歩行の場面を、日本画家の小林永興が描いた本書の口絵①です。鋳造家岡崎雪声は、この絵を元に三十三センチ程の銅像を作り、販売しました(明治四十三年)。このことが大正、昭和期の小学校に設置された金次郎像につながっていったようです。また、この少年時代の刻苦勉励の姿は、「二宮先生」を称える同書末尾の次の文と呼応しています。

貧賤に身を錬 (ね)り、寒苦に心を鍛ひ、常に学問を実際より離さずして遂に、道に明かに行(おこない)に敏(さと)き君子(くんし)となられしなり。

作家を志す露伴が、「誠ありて徳をほどこせる人」「近世の君子とも豪傑とも申すべき人」(同書冒頭)と、敬意を表して熱く語った『二宮尊徳翁』は、徳育推進に関わる学校関係者の多くの目に止まったのではないでしょうか。一年前には、教育勅語が渙発(かんぱつ)されていました。


明治二十七年の国語の本に載る

金次郎を教材にした早期のものに、今泉定介・須永和三郎著『読書教本』があります。日清戦争の最中(同二十七年十一月)に発行された、愛国心の養成に力を入れたという本です。

巻六(三年生用)の「二宮尊徳(一)(二)」には、父母に孝行したこと、万兵衛宅で家業を手伝いながら菜種を育て燈油に替えて、夜、読書・習字に励んだこと、捨苗を植え、多くの米を収穫し、実家を再興したこと、小田原侯の家臣、幕府の役人となり公益に努めたこと、朝廷より従四位を贈られ、小田原で神に祭られたことが、平易な文語体で綴られています。

文豪坪内雄蔵(逍遥)は、同三十三年発行の自著『国語読本』巻三(二年生用)で、学問に勤しむ金次郎を強調しています②。歩きながら本を読んでいる挿絵は、前述の口絵①と同様です。


人物主義修身教科書の二宮尊徳

明治三十年代には、二十年代の徳目主義に代わって、フンバルト学派の教育思想の影響を受けた人物(人物伝記)主義の修身教科書が多く作られました。これらの検定教科書は、児童の模範となるに相応しい人物を大きく取り上げる点に特徴があります。尊徳はその主要人物の一人でした。

例えば、同三十三年の尋常小学校用『単級修身訓』甲編(金港堂)巻三の「二宮尊徳先生」は、五課にわたっています③。

同じ三十三年の高等小学校用『修身教典』(普及舎)巻一の場合は、十二課にもわたる「二宮尊徳先生」を載せ、各課に孝行・友愛・立志・忍耐・仁慈・勤倹・廉潔・公益・実直・改過・剛毅・誠実の徳目を提示して、その事例を挙げ詳述するという徹底した方法を用いています。例えば、「剛毅」の内容は、『二宮翁夜話』巻二の「不動尊の像に付ての説」を易しく記した上で、「先生が、終に身を立て家をおこし、そのうへ、一身をなげうちて国益をはかり、多くの人民を救はれたるは、常に道理に照して、よしとおもひしことを貫かんとの堅固不動の気力ありしによるなり」と教えています。

当時の学校教育は、教科間の連絡を密にする方針で行われたため、また、修身が重視されていたため、二宮尊徳の歌もこの三十年代半ばから作られています。


石橋蔵五郎編『二宮先生 報徳唱歌』

前置きが長くなりましたが、ここから尊徳の唱歌をご紹介したいと思います。

まず、早いところでは、明治三十四年七月発行の『二宮先生報徳唱歌』(大久保綱浦作歌・石橋桂水作曲)があります。これは、当時流行した七五調長編唱歌の類で、四十七番まである小伝的内容の単行本(一曲)です。編者は、その三年後の三十七年四月に私学上野女学校を創立した石橋蔵五郎です。

歌詞の上部に、「孝行」「友愛」「立志」…「剛毅」「誠実」と、先の『修身教典』(明33)と同一の徳目が示されているところをみると、この教科書に対応させて女学校で使用したのかもしれません。

「昔し天明(てんめい)七とせの/薮(やぶ)をも枯らす七月に/相模の国は酒匂 (さかわ)川 /流れに沿へる栢山村(かやまむら)/ながめ淋しきこの里に/生れたまひしその人は/公徳世にもたぐひなき/尊徳先生二宮氏」と始まり、「先生元(もと)は一農夫/千辛万苦のかず〳〵を/積(つみ)てとげたるいさをしは/世の亀鑑(かがみ)なれ心して/其の成功 (いさおし)の源(みなもと)を/胸に修めて国のため/勉(つと)め励めや我が稚児(ちご)よ」と終わっています。典型的な激励型の修身唱歌です。


田村虎蔵作曲の「二宮尊徳」

同三十五年発表の桑田春風作歌・田村虎蔵作曲の「二宮尊徳」は、非常に端的に人物像を述べた分かりやすい歌詞です。


二宮尊徳

桑田春風作歌

田村虎蔵作曲

一、あしたに起きて 山に柴刈(しばか)り
  草鞋(わらじ)つくりて 夜(よ)はふくるまで
  路行(みちゆ)くひまも 書(しょ)をばはなたず
  あはれいぢらし この子誰(た)が子ぞ

二、勤倹力行(きんけんりょくこう) 農理(のーり)をさとり)

世に報徳の 教(おしえをつたへ

  荒地ひらきて 民を救ひし
  功績(いさお)のあとぞ 二宮神社

楽譜④には、「愛情を込めて」歌うようにと注記されています。その思いで作曲したということでしょう。三拍子の深い味わいのある旋律が、不動の信念で事に当たった尊徳のスケールの大きさをよく表現していると思います。

この「二宮尊徳」を収録する田村虎蔵・納所弁次郎共編『幼年唱歌』(明治三十三~三十五年)は、各学年ごとの本を作り、その学年の読本や修身教材とつながりのある歌を載せました。口語唱歌を載せたことでも注目を浴び、低学年用の「キンタロー」「兎と亀」「はなさかぢぢい」などは有名になりました。歌に挿絵を付けたことも画期的なことでした。「二宮尊徳」は、修身訓話と関連付けた四年生用の歌で、①と同様の読書歩行の挿絵⑤があります。