『日本』令和6年4月号

四月号巻頭言 「治国の道」 解説

橘良基〈天長二年(八二五)~仁和三年(八八七)〉は、伊予、常陸、越前、丹波、信濃五ケ国の国司を歴任して治績を挙げ、「循良(じゅんりょう)」の吏り と評された人物である。農耕を勧督し、租課を軽くし、民は業を楽しみ家に蓄へがあまるほどで、「調庸を輸貢し戸口(ここう)を増益するは、当時の最たり」と評された。自身は「雅素清貧にして、家に寸儲(すんちょ)無く」、中納言在原行平(ありわらのゆきひら)が絹布をおくり嬪葬(ひんそう)することを得たといふ。その良基が、子供から「治国の道」を問はれて応へたのが巻頭の言詞である。

九世紀のこの時代、律令国家の基盤を支へる班田制は規定通り行はれず、数十年振りに行はれた元慶三年(八七九)の班田は、京の女子には班給せず、畿内の男子に一段半を班(わか)つといふものであつた。京、畿内でさへこの有様だから、地方諸国ではどのやうに崩れてゐたか想像するに難くない。それだけに、地方国司として律令国家を支へ、高い評価を得た良基の苦心と、清らかで気高い風格と気概とが偲ばれる。

学生と講読した『日本三代実録』のこの記事にハッと驚き、さらにこの言葉が、吉田松陰先生を厳しく指導した玉木文之進が常用してゐた印に、「百術一清にしかず」と彫つてあつたことを後で知つて、感銘は倍化した。今日の諸情勢に鑑み、教へられること多い一言である。

(清水 潔)