9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年4月号

小田村庄屋 長島尉信の誇り

 仲田昭一  /水戸史学会理事


農政学者長島尉信

本誌連載中の新保祐司氏論考「義の日本思想史(三)」を拝読した。小田城址の整備、「神皇正統記起稿之地」碑の処遇に違和感を持たれた新保氏の御意見、以前から小田城に親しんでこられた方は同感され、小田城の存在意義を再認識されたのではなからうか。

近年の小田城は、上杉謙信や後北条氏、佐竹氏などと攻防戦を重ねながら、「最後まで滅亡すること無く、厳しい戦国時代を生き抜いた領主の拠点」としてのみの名が知られている。しかし、小田城は筑波山系の三村山麓(みむろさんろく)に築かれた平城であり、城郭としての特色は大きくはない。むしろ、南北朝時代に、南朝方に味方して戦つたことの意義を見極めるべきである。

新保氏の主張に触れた筆者としては、小田村に誇りを抱き、晩年まで学問に励んだ庄屋長島尉信(やすのぶ)の存在を紹介しなければならないと思つた。

長島尉信は、一般には農政学者として、又生涯学習の先駆者として評価されてゐる。天明元年(一七八一)八月十一日、筑波山麓小田村西町の名主(なぬし)小泉吉則の長男として誕生した。名は尉信、字(あざな)は祐卿。二左衛と称し、号は三村山人や郁子(いくし)園などがある。その後、小泉家から同村東町田向の名主長島家の養子となり、二十一歳で名主を継ぎ、文政八年(一八二五)の四十五歳まで二十五年間務めた。

隠居後は、江戸に出て算学者でもある芝増上寺の普門律師に師事して、農政学の基礎となる天文・暦学・和算・度量を学んだ。名主を務めた尉信は、農民の貧富の差の厳しい実情に直面し、農村荒廃の立て直し、改革が急務であると痛感した。このため、「敬農」を根本に据ゑた課税の公平化が必要であり、そのために検地の実施は必須と考へた。それが、測量など諸学の学びへと進ませたのである。

やがて天保十年(一八三九)、水戸藩に招かれ土地方(かた)、郡方勤(こおりがたつとめ) として領内総検地を指導した。その間に、『大日本史』編纂所の彰考館に出入りし、館内の史料の筆写や著述にも精励した。その筆力は「一日一万字」と称された。それらの史料群は、現在、茨城県立歴史館に寄贈されてゐる。

さらに晩年には、自国土浦藩の検地事業や治水事業、街づくりにも従事し、慶応三年(一八六七)七月十六日八十七歳の生涯を終へた。墓は同村内、延寿院にある。


小田村への誇り

小田氏は、宇都宮氏出身の八田知家(はったともいえ)を祖とする。知家は、源頼朝の信任を得て有力御家人となり守護職も務めた。小田城は、その知家が筑波郡三村郷小田に築城したものである。小田氏は、その後、北条政権と対立し、七代小田治久(はるひさ)は配流された公卿万里小路(ま でのこうじ)藤原藤房を迎へて庇護した。治久は、次第に藤房から勤王の薫陶を受け、北条政権を批判する後醍醐天皇を支援していく。治久の名は、後醍醐天皇の諱(いみな)、尊治(たかはる)の一字「治」を拝領したものである。南朝方劣勢の中、治久はやがて常陸国南部海岸に漂着した後醍醐天皇の側近である北畠親房一行を迎へ入れ、南朝方への旗幟(きし)を鮮明にした。

当時の小田城周辺は、かなり水位は高く、城は堀を二重、三重に巡らした割と堅固な城郭であつた。

尉信は「慶長小田城蹟図」を筆写して残した。それは城跡の発掘調査に活かされ、現在のやうに復元整備されたのである。

尉信は、この小田城で北畠親房が『神皇正統記』を執筆したことの意義を十分認識してゐた(関城で修正)。『神皇正統記』巻ノ六を書写し、これによつて「親房卿が小田城に於て神皇正統記および職原抄を書かれたことに決してゐる。喜ぶべし」と小田城と北畠親房との存在意義を称へてゐる。

加へて天保六年、仙台の親友小野寺鳳谷(ほうこく)に十六代小田政治(まさはる)の肖像画を描かせた。水戸藩の名高い郡(こおり)奉行小宮山楓軒(ふうけん)と側用人藤田東湖に題辞を求め、自分で蒐集の三村山清冷院極楽寺の古瓦の拓本で表装した。極楽寺は、小田氏始祖八田知家が創建した時宗の寺で、小田氏に対する尉信の思ひ入れの篤さと深さを窺ふことができる。楓軒は「旧主の徳、思ふべし」と題し、東湖は「状貌魁梧(かいご)、気象の雄、曽(かつ)て将(まさ)に弓箭(きゅうせん)関東を震はす」と揮毫してゐる。

この古瓦の発見は天保元年のことである。三村山麓にあつた尼寺入口付近で「楽寺」刻字の瓦片を拾ひ、極楽寺の考察を始めて極楽寺と付属の薬師堂、尼寺の存在を確信したことである。それは「常州小田尼寺古瓦記」としてまとめられた。

尉信は、「小田家滅亡後に、これらの古瓦や名家小田氏を知るものなし。この村に関心を持つ者が少なかつたからであらう。この古瓦が世の中に認められたのは、今日を嚆矢(こうし)といふべきである」と愁ひと喜びを表してゐる。


水戸藩時代
 (一)検地と追鳥狩

長島尉信は、江戸での留学を終へた後、小田に留まることなく土浦藩や水戸藩の人々と交流を深めてゐたやうである。水戸藩の藤田東湖や会沢正志斎などであり、また東湖と親交のあつた土浦の桜任蔵(さくらにんぞう)や藤森弘庵らも考へられる。

この交流の中、水戸藩では藩主斉昭による天保の改革が推進され、検地事業が喫緊の課題であつた。その指導者として、測量術を学んでゐた尉信が招聘(しょうへい)されることになる。天保十一年五月のことである。招かれた尉信は、はじめに水戸藩初期の寛永の検地事業を担つた望月恒隆や川村覚助の墓を、藤田東湖の案内で参拝した。望月、川村両者の墓は、それまでほとんど顧みられたことがなかつたが、これ以降、両者は「検地明神」と称へられ参拝者で賑はうことになつた。尉信の、先駆者への敬意と完遂への覚悟、祈りを見ることができる。

「追鳥狩(おいとりがり)」は、水戸藩主斉昭が考案した軍事訓練である、尉信は天保十一年と十三年に参加し「追鳥狩御行粧記」を残してゐる。その勇壮、豪壮な訓練に驚嘆したのであらうか、嘉永二年(一八四九)、画人でもあつた仙台の友人小野寺鳳谷に、武装した自身の肖像画を描かせてゐる。ここからは、水戸藩の一員として認められ、事業に参画できた尉信の誇りと喜びとが窺へる。

それだけに、天保十五年五月九日に藩主斉昭が幕府から隠居謹慎、藤田東湖も蟄居(ちっきょ)謹慎の処罰を受けた報に接しては、尉信は「悲歎鬱悶(うつもん)堪へ難し」と憤つてゐる。同月十九日に水戸へ入り会沢正志斎を訪問した時には、「涙のほかなし」とその無念さを記してゐる。


 (二)彰考館と益友市毛幹規

長島尉信は、水戸藩政への関与の傍ら彰考館所蔵文書への関心を高め、それらの筆写にも努めた。それには、館員である市毛幹規(もとのり)の協力があつた。尉信は述べる。

石川桃蹊や小宮山楓軒に就いて大いに学んだ。現在、諸家の系譜を知る者で、幹規以上のものはゐない。身分の低い官吏ではあるが、故実を好み、記録に詳しく、剛毅で篤実な人物だからこそである。

自分は幹規の助けによつて秘書・珍書を見ることができた。幹規がゐなかつたならば、これもかなはなかつた。幹規は実に吾がための益友である。この人のやうに、篤実信義をそなへ、一点の欺きを持たない者は、世間にもゐないであらう。


ネットワーカーとしての長島尉信
 義兄弟の契りと遠来の友

長島尉信は、近在および遠来を含む多くの人々と積極的に交流を重ねてゐる。まづ、天保四年、地元土浦の色川三中(いろかわみなか)や佐久良東雄(あずまお)らと義兄弟の契りを結んだ。色川三中は、今川伝左衛門の三男から色川家の養子となり、醤油醸造業を営む。図書の収集筆写に努め、学者を後援し、勤王の志士佐久良東雄ら志士らの活動資金を提供してゐる。

尉信は、水戸からの借用・書写史料を三中に提供し、三中の古文書の書写・収集を促進した。佐久良東雄は、「万葉法師」と称へられた住職康哉(こうさい)の弟子となり、康哉歿後の天保四年に尉信と義盟の杯を酌み交はした。尉信も兄弟の契りを結んでゐた北条(つくば市)の医師古宇田文斎が死去してから一年後のことであり、義盟は互いの心の支へとなつた。尉信は東雄作の「万葉集和歌抄」を保存してゐた。義兄弟色川三中の弟美年(みとし)が、朱筆を以て読み仮名を付した貴重な本である。東雄は、万延元年(一八六〇)三月の桜田門外の変に連座し、獄中での吟味中に絶食し餓死した。遺骸は小塚原回向(えこう)院に埋葬され、後に土浦市善応寺に改葬された。

遠来の友には仙台の小野寺鳳谷、関宿(せきやど)藩(千葉県)の船橋随庵(ずいあん)、久留米藩(福岡県)の村上量弘(かずひろ)らがいる。小野寺鳳谷は、尉信の肖像画を二点描いてゐる。蔵書を後ろにして机に向かつて思案してゐるものと、水戸藩の追鳥狩に参加した時のものとである。鳳谷は、文化七年(一八〇九)、仙台郊外の松山藩の農家に生まれ、名は篤謙、後に鳳谷と号した。伊達氏の一族で、松山茂庭(もにわ)氏の家臣であつた。鳳谷は、天保六年(一八三五)四月二十七日に小田村の尉信を訪問した。二人は初対面であつたが、「旧友の如く」であつたと尉信は記してゐる。鳳谷は同年六月一日、筑波山探勝の帰途尉信を再訪、尉信を評して「性質卓犖(たくろう)、不覇(ふき)の士なり、余の資あれば必ず書籍を購(あがな)ふ」と称へてゐる。

さらに嘉永二年(一八四九)にも西遊の帰途土浦の尉信を訪問し、水戸藩の追鳥狩に参加した尉信の肖像を描いた。鳳谷は、慶応二年(一八六六)四月十三日に歿し、仙台の定禅寺に埋葬された。

船橋随庵は寛政七年(一七九五)、関宿藩の生まれ。諱は愨信(いしん)、通称が亘、随庵は号である。明治二十八年(一八九五)建立の「船橋随庵先生水土功績之碑」が関宿にある。随庵の治水に関する学問は、尉信に学ぶところが大きく、随庵は後年、「長島尉信の記」を著した。その中で、「尉信の筆力は一日一万字」と驚嘆を以て称へてゐる。明治五年四月、七十八歳で歿し、地元の宗英寺に葬られた。

村上量弘は、文化七年(一八一〇)筑後国久留米に生まれた。字は士精、通称は守太郎、名は量弘である。天保十三年四月に水戸に入り、翌年三月まで会沢正志斎の塾に学んだ。量弘は自著『水戸見聞録』の中で、「土地方(かた)御正しの事」と題して水戸藩の検地を記した が、特に長島尉信の功績を称へてゐる。土浦藩へ招かれ、水戸を去る尉信に対して「長島翁の土浦へ帰るを送るの序」を記し、その中で「田制において、その一、二を知るを得るは、皆翁の賜物なり」と感謝してゐる。

このやうに、長島尉信は水戸や土浦時代に全国各地の有志者と交流し、情報を交換し合つてゐた。まさに「ネットワーカー」であつたといへやう。


高山彦九郎に心酔
 (一)高山彦九郎

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)、上野国(群馬県)新田郡細谷村の郷士高山家に誕生した。名は正之(まさゆき)、字は仲縄(ちゅうじょう)、彦九郎はその通称である。林子平・蒲生君平と並んで「寛政の三奇人」と称される。

彦九郎は勤王家であり、上洛した際に三条大橋から御所を遥拝している姿の銅像は有名である。また孝道の実践者であり、名も無き人々への愛を持つ人物でもある。さらに、全国を旅して地域の実情を観察見聞し、「旅日記」にその詳細を記録してゐる。久慈(岩手県)の琥珀の埋蔵・発掘の様子や奥羽地方の天明の飢饉の惨状についての記録は代表的な個所である。全国行脚の中で、善政を奨励し救民運動を支援し続けた。

ほかに、彦九郎の評価を二点挙げておきたい。一つは、「清心な心の持ち主」であること。安永九年(一七八〇)六月の富士登山の際に、「身をつつしみ清め、途中で大小便をしないようにと努めた」。山を信仰の対象と考へる自然観、自然保護の思想に注目したい。

他の一つは、封建時代といふ閉鎖された時代に旅を重ね、各地の優れた人物を紹介し、情報を交換することで互いの連帯を図つていつたネットワーカー的存在となつた点である。その意義は実に大きいものがある。

寛政二年(一七九〇)五月、蝦夷地渡航を決意して北上中、水戸へ寄り、七月一日、藤田幽谷を訪問。その日の日記には「一正(かずまさ)(幽谷)と大義の談有りける、一正能(よ)く義に通ず」「才子にして道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける」と記して幽谷の将来に期待してゐる。後の幽谷を偉大ならしめた人物の一人ともいへる。彦九郎は憂憤と焦りからか、寛政五年六月二十七日久留米の森嘉膳宅にて自刃した。四十七歳であつた。


 (二)高山彦九郎遺書蒐集

高山彦九郎が歿した後、彦九郎を敬慕する人々が遺書遺品を求めあつた。遺書類は盟友の簗次正(やなつぎまさ)に渡り、それらは次正の甥で林鶴梁の門下生として江戸に在住してゐた簗紀平に渡つた。鶴梁は、幕府の儒臣であり民政家であり藤田東湖とも交流する尊王家でもあつた。その一部は、藤田東湖や東湖の盟友の桜任蔵にも渡つた。

桜任蔵は別途彦九郎の生家を訪ね、遺品の大半を譲り受けた。その一部が土浦神龍寺の如連大寅禅師と長島尉信に渡るのである。如連禅師は、「これら皆彦九郎の血誠、紙面にあふれてゐる。一字一涙なくしてはゐられない」と香を焚いて礼拝するほどであつた。

尉信は天保六年十月「高山氏遺書漫録」一を作成した。翌七年から九年十月にかけては、「高山紀行集」、「高山氏安永四年北国日記」、「高山子遺書漫録」二・三・四・五、「古河渡の記」、「小田原行」「武江旅行記」「赤城従行」「小股行」「沢入道の記」「子安神社道記」「武州旗羅」などを集中的に筆写した。

一方で尉信は、実際に蒐収(しゅうしゅう)した遺書を水戸藩の藤田東湖、市毛幹規、杉山忠亮(ただあき)、盟友の桜任蔵、加藤桜老、土浦藩の大久保要、藤森弘庵、久留米藩の村上量弘、薩摩藩の有馬新七ら同志同好の士に分与した。

杉山忠亮は水戸彰考館の総裁を務め、深く彦九郎に心酔し「高山正之伝」を著してゐる。尉信は、天保十一年五月に、彦九郎が二十六歳の時の前髪や櫛・小刀・水滴などを贈つてゐる。また、自(みずか)ら高山彦九郎の書簡、和歌などの遺墨をまとめた「冊子」への序文を、江戸在中の忠亮に依頼した。忠亮は天保十三年五月、「題高山処士遺墨」と題してそれに応へた。


 (三)長島尉信歿後の高山遺品と矢嶋行康

長島家には、尉信が蒐収した彦九郎の自筆日記四冊が所蔵されてゐた。安永六年(一七七七)の「丁酉春旅」、天明二年(一七八二)の「江戸日記」、「京都日記」、天明三年の「京都日記」である。

尉信が歿した後の明治五年(一八七二)から六年にかけて、信州海野宿(上田市)の矢嶋行康(ゆきやす)が長島家を訪ね、彦九郎関係の資料を書写・収集してゐる。行康は、天保七年に生まれ、十六歳で上田の国学者成沢寛経に入門。その後江戸に出て平田鉄胤の門下生となつた。行康は、彦九郎を深く欽慕し、安政元年(一八五四)十九歳頃からその遺墨遺品の蒐集に努めた。譲り受けできないものは、いかなる遠路も厭はず訪ね行き、書写してその大部分を集めてゐる。

そもそも行康は、養蚕業をも営み蚕種の販売に諸地方へ出行してゐたのであり、そこで林鶴梁の旧宅や長島家などを訪問し、彦九郎の遺書等に出会つたのである。現在矢嶋家には、尉信が筆写した「高山子遺書漫録」「高山仲縄紀行集」「安永四年北国日記」なども残つてゐる。

行康は、集めた彦九郎関係の資料を上田藩の能書家二人と経師屋を雇ひ、住まはせて表装・整理し、さらにその複製本を作らせ「玉能御声(たまのみこえ)」や「高山錦嚢(きんのう)」などにまとめてゐる。明治七年には、彦九郎遺書等の縁で岩倉具視と交流が始まり、同十一年の明治天皇の北国巡幸に際しては「玉能御声」などが天覧に供され、そのうち数点が献上された。

高山神社は、明治十二年十二月に造営されたが、その時行康は蒐集した彦九郎の遺品の中から浄衣・笏・冠・沓の四点を献納してゐる。

さらに加へたいことがある。行康に対する林鶴梁の警告である。「あなたは彦九郎の万巻の書を所蔵してゐても、彦九郎を目標として行動できるかどうか。あなたの覚悟はどうか。単なる好事家であつてはならない」と。


長島尉信の最期

長島尉信は、慶応元年(一八六五)七月、土浦藩を致仕して小田村へ戻り、同年の十月に、これまでの志願成就を謝して村内の八坂神社に獅子頭(ししがしら)を奉納した。この時、生涯を顧みて「ひとらしき我にあらねどひとまねにまことひとつを置き土産(みやげ)かな」と詠んだ。郷土を誇り、地道に誠実に、「まことひとつ」を貫いた人生であつた。