『日本』令和6年5月号

五月号巻頭言『国家存立の大原則』解説

文政七年(一八二四)五月、水戸藩領大津浜に英人十二名が上陸する事件が起こつた。調査を命ぜられた一人が会沢正志斎(一七八二~一八六三)である。英人との筆談で、彼等に領土侵攻の様子があることを察知して、「暗夷 問答(あんいもんどう)」といふ報告書を作成するが、完成しないまま『新論』の執筆に移つた。

『新論』には、外国勢力の東洋侵攻を排斥したいといふ攘夷論で記されてゐることはいふまでもない。まさに水戸藩の藩是「尊王攘夷」論を代表する一書であつた。

この『新論』の不足部分を補ふ目的で、弘化二年(一八四五)に執筆されたものが「江湖負喧(こうこふけん)」である。書名は、「隠居した老人が遠くから日光浴の楽しさを申し述べます」といふやうな意味であらうか。その目次の冒頭部分の一文が巻頭言である。

ここでは、尊王は千万世といへども不変であるが、鎖国、攘夷論は時勢に応じて変通すべきであると述べる。これは文久二年(一八六二)の「時務策」に連続する。そこでは開国論に変通する。変通は変化、通用の意味で、変節ではない。

変通といふことはすでに『新論』の文中にも記されてをり、最後に「謂おもふに天地は活物なり、人また活物なり。活物を以てして、活物の間に行ふ、その変勝あ げて窮きわむべからず。事は時を逐お ひて転じ、機は瞬時に存り」といひ、「今日の言ふところは、明日未だ必ずしも行ふべからず。故に一たびこれを口に発すればすなはち空言となり、一たびこれを書に筆すればすなはち死論となる」と述べてゐる。

「時務策」は、一橋慶喜に提出されたと伝へられてゐる。その後、慶喜は将軍職となるが、種々悩み乍ながらも、この精神で生涯を貫き通したことは、その行動が示してゐる。一方、尊王攘夷を主張し、敦賀へ行進した、いはゆる天狗党の行動は、幕藩体制を崩壊させる役割を果たした。

この両者が同時に水戸藩内で展開されたことが、水戸藩の悲劇となつたが、これも新しい時代への生みの苦しみであつた。

王政復古、五箇条の御誓文、欽定憲法の制定、国会開設、すべて巻頭言の示す方向で近代化が進められた。日本の将来を考へ憲法を論ずる者は、巻頭言の内容を熟思再考すべきであらう。 (久野勝弥)