9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年6月号

北条時宗(下)

 中山エイ子  /佐佐木信綱研究会会員


佐々木弘綱の「聖徳」

第九十代亀山天皇は、文永十一年(一二七四)正月に譲位の後、上皇として院政を行われました。元寇の際には、諸社に国家安泰を祈願され、特に伊勢神宮には、我が身を以って国難に代わりたいと深い祈りを捧げておられます。

佐佐木信綱の父である佐々木弘綱は、このことを「聖徳」と称えて、仁徳天皇と醍醐天皇のよく知られている美談に並べて、次のように詠んでいます。


  聖 徳

佐々木弘綱作歌

西洋曲
一、高津の宮に もる雨を
  御袖にかけて 世の民の
  かまどの煙  たちそふを
  まちまししこそ かしこけれ
二、こがらしさえて 霜こほる
  天津雲井に よの民の
  さむさあはれと 大御衣(おほみけし)
  ぬぎまししこそ かしこけれ
三、筑紫の海を おほひたる
  うき雲はらひ たまはんと
  いのちにかけて 神風を
  まちまししこそ かしこけれ

この歌を収める小山作之助編『国民唱歌集』は、軍歌で有名な「敵は幾万」を始め、「とどろくつつおと」「勝利」「観兵式の歌」「海軍」「朝日の御旗」「大和島根」ほか、愛国心を養い、護国の士気を鼓舞する歌を集めたものです。出版は、清国との関係が悪化しつつあった明治二十四年(一八九一)七月でした。翌年には、我が国初の五線譜の軍歌集と言われる納所弁次郎編『日本軍歌』ができました。今も歌い継がれている佐佐木信綱の「凱旋」(あなうれしよろこばし)も、ここに入っています。


『日本軍歌』の「海ゆかば」

話は前後しますが、明治二十四年に清国の北洋艦隊の水師督丁汝昌(ていじょしょう)が、優勢を誇る「定遠」「鎮遠」など六隻で日本に来て、長崎・東京など各地でその威容を見せつけたという出来事がありました。

「定遠」「鎮遠」に対抗するために、我が国はフランスに軍艦「厳島」「松島」を発注していました。二艦が完成して、同二十五年に日本に回航したときには、国民の喜びは大変なものだったそうです。「厳島」「松島」は、二年後の日清戦争で戦った有力な軍艦です。

軍艦に対する国民の期待を示す一例が、鳥山啓作歌、山田源一郎作曲の「軍艦」(守るも攻むるもくろがねの)の出現です。同二十六年の伊沢修二編『小学唱歌』に発表されました。数年後、この詞に瀬戸口藤吉が「軍艦行進曲」の題で作曲して、ヒット曲となりました。この「軍艦行進曲」のトリオ(中間部)に、前述の『日本軍歌』にある「海ゆかば」(東儀季芳(とうぎすえよし)作曲)の旋律が使われています。

この「海ゆかば」は、「保育唱歌」の一つとして明治十年代には作曲されていたものですが、それを軍歌集に載せたり、軍歌の一部に採用したりしました。「海ゆかば」(海ゆかばみづくかばね)という、神武天皇の親兵であった来目部(くめべ)の軍隊が歌っていた古謡に光を当て、新たに息を吹き込んだということになります。それは、建国時代の忠勇無双の兵士の心構えを明治の軍人に伝え、忠義の精神を養い、堂々とした生気漲(みなぎ)る日本を作るためであったでしょう。

 対外的な危機が迫って来ると、自国の歴史や人物伝の中に、偉業や教訓、誇りや覚悟を求め、皆で共有・団結して国を護ろう、国威を揚げようとする気運が高まるのだと思います。明治時代はその熱意が強く、唱歌・軍歌作りに非常に気合いが入っていたと感じます。その好例が永井建子(けんし)の「元寇」です。


永井建子の「元寇」

元寇の歌と言えば、永井建子作歌作曲の「元寇」を思い浮かべる人が多いでしょう。かつては小学校の教材にもなったそうですが、それは戦前のいつ頃のことなのでしょうか。それはともかく、この歌は最初、「軍歌元寇」の題で、明治二十五年四月の『音楽雑誌』第十九号に発表されました。日清戦争以前から歌われていた名曲です。永井建子は広島県出身。陸軍軍楽隊の最初の公募(明治十一年)に応募して、十三歳で入隊して、見る見るうちに才能を発揮しました。同二十三年頃から軍歌の作詞作曲を始め、日清戦争には軍楽次長として従軍しました。日露戦争中は、陸軍戸山学校の軍楽隊に所属して在京。三十九年から戸山学校軍楽隊長を務め、大正四年に満期退職しました。「元寇」は、意気盛んな青年時代の作品です。

堀内敬三氏の『日本の軍歌』(昭和四十四年)によれば、日清両国の関係が切迫しつつあった時分に、国民の士気を鼓舞する必要を感じた陸軍の高島鞆之助(とものすけ)将軍たちが、過去最大の国難であった元寇を記念して、亀山上皇の銅像を博多の筥崎(はこざき)宮の前に建立することを計画しました。その趣旨に感動して、宣伝に協力するために作ったのが、この「元寇」なのだそうです。


  元寇     

永井建子作歌作曲
  一、鎌倉男児
 四百(しひゃく)余州を挙(こぞ)る 十万余騎の敵
 国難ここに見る 弘安四年夏の頃
 何ぞ怖(おそ)れん我に 鎌倉男児あり
 正義武断の名 一喝(いっかつ)して世に示す

  二、多々良浜
 多々良(たたら)浜辺の戎夷(えみし) そは何(なに)蒙古勢(ぜい)
 傲慢無礼(ごうまんぶれい)もの 倶(とも)に天を戴(いただ)かず
 いでや進みて忠義に 鍛へし我が腕(かいな)
 ここぞ国のため 日本刀(にっぽんとう)を試(ため)し見ん

  三、筑紫の海
 心筑(つくし)紫の海に 波押し分けて行く
 大丈夫(ますらたけお)の身 寇(あだ)を討ちかへらずば
 死して護国の鬼と 誓ひし箱崎の
 神ぞ知ろし召す 大和魂(やまとだま)潔(いさぎ)よし

  四、玄海灘
 天は怒(いか)りて海は 逆(さか)巻まく大浪(おおなみ)に
 国に寇をなす 十余万の蒙古勢は
 底の藻屑(もくず)と消えて 残るは唯三人(ただみたり)
 いつしか雲はれて 玄海灘(げんかいなだ)月清し


弘安の役で戦った鎌倉武士の気迫そのものが間近に迫って来るような力強い歌です。潑剌(はつらつ)とした軽妙で簡潔なメロディの繰り返しは、軍人気質によく合っていると思われます。この「元寇」には、実戦で軍歌の効力を発揮した話も伝わっています。

明治二十七年九月十五日、日清戦争における平壌の戦の時のことです。箕子廟(きしびょう)付近で日本の部隊は敵兵多数のために苦戦に陥り、兵力も衰退していました。突然、一人の兵が「元寇」を歌いだしたのです。それを機に全部隊が声を大にして歌い、歌ううちに皆の士気が揚がり、遂にここでの戦闘に勝利したということです。敵を眼前にして、かねてから歌っている「元寇」を大声を出して皆で歌ったことが、心身を元気にしたのです。はるか昔の鎌倉男児を手本に敵を退散させることができたと言える、胸が熱くなる話です。


修身書で教えられた河野通有の武勇

弘安の役(一二八一)では、北九州に集まった武士たちが、雲霞(うんか)の如く押寄せて来た元軍を恐れず、二ヶ月もの間、勇敢に戦い上陸を阻止していました。そこへ大風(台風)が吹き荒れ、大半の敵船が難破したという状況だったのです。

この時に上陸を阻止した豪胆な武将河野通有(こうのみちあり)を、明治二十六年の東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)著『高等小学修身書』では、「義勇」の課で取り上げています。

伊予の国の守護河野通有は、元の賊が来ると聞いて非常に憤慨して、僅かな土地でも神州を犯されるようなことはさせないと、一族郎党を率いて、氏神三島の社に祈って九州の警備に向かった。果たして元の賊船が来て筑紫の海に充満した。我が軍はみな、石築地を前にして陣を張っているのに、通有は築地を背にして前面に幕一重を張って賊を防いだ。ある夕方、通有は伯父の通時と二艘の船で賊船の中に分け入り、大将の船と思われる船に漕ぎよせ、檣(ほばしら)を倒して梯(はしご)の代わりにして賊船に乗り移り、大刀や長刀で散々に切りまわり、賊将を虜(とりこ)にして賊船に火を放って退散した。その夜、大風が起こり賊船はことごとく海中に沈んだ。

およそこのような内容です。この『高等小学修身書』は、わが国の国体や美風、古来の忠孝道徳を教材にした徳目主義の修身書で、古歌や古典の引用、例話の掲載という体裁を取っています。全国に普及した代表的な修身教科書であったと言われています。

この課では、「義勇とは義によりて奮ひ起る気象をいふ」と説き、この気象を失うときは、君国に事(つか)えて己の本分を全うできないと述べ、次のように教えています。「我国は、神代の昔より、武を尚ぶ風俗にて、我等祖先は、みな、義勇の気象に富み、護国の心あつかりしを以て、嘗て、一度も、外国の侮(あなどり)をうけしことなし。されば、我等臣民に至りても、この気象は、一日も失ふべからざるなり」。そして、結びに

 千万(ちよろず)の軍(いくさ)なりともことあげせず
  とりて来(き)ぬべき男(お) の児(こ)とぞ思ふ

と、『万葉集』の防人の歌を引用しています。

わが国の独立は、国を護る覚悟と命掛けの戦によって保たれて来たことを、改めて思い知らされます。


第一期国定教科書の「元寇」

明治三十七年四月から使用された第一期国定教科書の『尋常小学読本』巻六(三年生用)に、韻文教材として「元寇」が載りました。


    元寇            

尋常小学読本
  今からむかし六百年
  ころは弘安四年の夏
  元(げん)の国からわが国に
  よせたるてきは十余万

  わが日本の武士はみな
  「おのれ、につくき元軍め
  日本男子のうで見よ」と
  すすんでてきをやぶりたり

  このとき大風ふきあれて
  なみは山よりまだ高く
  てつかん(敵艦)四千くつがへり
  こはれて海にしづみたり

  あー元軍の十余万
  にげたるものはわづかにて
  あとはのこらずわが国の
  海にしづみてしまひたり

国定第一期の『尋常小学読本』八冊には、二十数編の韻文(唱歌教材)が載っていました。これらの詩に著名な作曲家が作曲して、それぞれの読本唱歌集が作られました。東京・静岡・和歌山・大阪などで出版された八種が知られていますが、これら以外にもあったかもしれません。同じ詩にいろいろな曲が付いていたのです。「元寇」の曲も八曲、あるいはそれ以上あったようです。

当時、唱歌はまだ必修科目ではなかったために、授業のある学校も、どの唱歌集を用いるかで、曲が異なるという状況でした。明治四十一年から義務教育が六年になると、唱歌もようやく必修科目に加わりました。明治の終わりから大正にかけて、全国共通の『尋常小学唱歌』六冊が用いられるようになり、これがいわゆる文部省唱歌です。以上、「元寇」の歌一つにもいろいろな事情が絡んでいることをご紹介いたしました。