9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年6月号

義の日本思想史(七)

 新保祐司 /文芸批評家


 第七章 義の椅子と美の椅子
一 国木田独歩「非凡なる凡人」

明治は義の時代であるということは、「明治の精神」が義の精神であったということに他ならないが、この「明治の精神」の典型を挙げるとするならば、国木田独歩になると思う。「明治の精神」の偉大な例となれば、乃木大将などの偉人になる訳だが、その典型となると国木田独歩が最もふさわしいであろう。しかし、それは、国木田独歩という人間というよりも、独歩が描きだした人物によってと言った方が正確かもしれない。特に、その「非凡なる凡人」という小説が、「明治の精神」の典型を表現している。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、日露戦争を描くにあたって、秋山好古、真之の兄弟を選んだ。日露戦争の勝利については、「ひやりとするほどの奇蹟といっていい」と書いている。そして、「その奇蹟の演出家たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数万人もいるであろう」が、小説である以上、その代表者を選ばねばならず、この「一組の兄弟」を選んだという。

私の「数え方」は、日露戦争の勝利という「奇跡の演出家たちは」「数百万も」いるというものである。日露戦争は、乃木大将や東郷平八郎など多くの「英雄」がいたからというだけで勝利したのではない。「数百万」の「非凡なる凡人」が、戦ったからこそ勝利したのである。「明治の精神」は、「非凡なる凡人」に支えられていたのである。

保田與重郎は、「明治の精神」(昭和十二年)の中で、内村鑑三と岡倉天心の二人を論じているが、確かに「明治の精神」の代表者として、この二人の天才はふさわしい。しかし、天才ではない「明治の精神」の典型である「非凡なる凡人」を描きだしたという意味で「明治の精神」を代表する詩人が、国木田独歩である。私は、今、詩人と書いた。小説家とか文学者とは書かなかった。独歩は、その文学の根底に詩を深く持った人だったからである。

独歩は、普通、文学史的には、北村透谷などの明治二十年代の浪漫主義と、日露戦争後の明治四十年代以降に文壇の主流になる自然主義の間をつなぐ存在とされているが、私は、国木田独歩を高く評価している。私が書いた最初の作家論は、二十二歳のときの北村透谷論であったが、次に書いたのは翌年の「『独歩全集』への跋文」という題の批評文だった。

独歩の作品では、「武蔵野」「忘れえぬ人々」「牛肉と馬鈴薯」「空知川の岸辺」などが有名だが、独歩が「明治の精神」を代表する一人とみなされるのは、特に「非凡なる凡人」という小説によってである。「非凡なる凡人」は、明治三十六年(一九〇三)に発表された短編である。日露戦争開戦の一年前である。保田與重郎の言う「三十年代の最高潮の日本」に生まれた文学と言えよう。

独歩は、日露戦争の後、明治四十一年(一九〇八)六月、三十六歳で死んだ。「明治の精神」が失われていく時代に死んだのである。まさに、独歩は、近代日本の「最高潮の日本」である「三十年代」を代表する精神なのである。

独歩については、吉田松陰との精神的なつながりが重要である。明治四年に生まれた独歩は、父が司法省に勤めていた関係で、幼少年期を、山口、岩国、萩などで過ごし、長州という土地で明治維新の精神にも親しんだ。二十歳頃には、吉田松陰に私淑し、『幽室文稿』などを書写熟読している。隣村の田布施に、松下村塾に倣って、「波野英学塾」を開き、英語、数学、作文を近郷の子弟に教えたりもした。松陰の松下村塾で助教であった富永有隣を訪ね、徳富蘇峰の『国民新聞』に「吉田松陰及び長州先輩に関して」を投稿している。この富永有隣をモデルにして書いたのが、名作「富岡先生」(明治三十五年)である。

独歩の、二十三歳から二十七歳までの足かけ五年間の日記は、独歩自身によって『欺かざるの記』と命名されている。このタイトルそのものが、松陰的である。この間の二十五歳の年には、吉田松陰の文章を選んで解説を付した『吉田松陰文』を、蘇峰の民友社から上梓している。日記の中に「シンセリテイ」(誠実)という語が繰り返し出て来るが、若き独歩の精神を貫いたものは、この「シンセリテイ」であった。これは、松陰などの維新の志士たちの「義」とか「誠」に通じるであろう。独歩の精神の台木は、松陰的なものであり、接ぎ木は、英国のロマン派の詩人、ワーズワースであった。この独歩と松陰の関係を見ると、「非凡なる凡人」とは、松陰の「草莽」に通じるものとも言えるのであって、明治維新が「草莽」によってなされたと言えるように、明治の時代は、「非凡なる凡人」に支えられていたのである。

この「非凡なる凡人」という小説は、「五、六人の年若い者が集つて互ひに友の上を噂し合つたことがある、その時、一人が」語った、桂正作という人物が主人公である。桂は、武士の子である。父は「維新の戦争にも出て一かどの功を立てた」が、維新後没落したのである。

「僕の小供の時からの友に桂正作といふ男がある、今年二十四で今は横浜の或会社に技手として雇はれ専ら電気事業に従事して居(い)るが、先づ此(この)男ほど類の異(ちが)つた人物はあるまいかと思はれる。

非凡人ではない。けれども凡人でもない。さりとて偏物でもなく、奇人でもない。非凡なる凡人といふが最も適評かと僕は思つて居る。

僕は知れば知るほど此男に感心せざるを得ないのである。感心すると言つた処で、秀吉とか、ナポレオンとか其(その)他の天才に感心するのとは異ふので、此種の人物は千百歳に一人も出るか出ないかであるが、桂正作の如きは平凡なる社会が常に産出し得る人物である、又た平凡なる社会が常に要求する人物である。であるから桂のやうな人物が一人殖(ふ)へればそれだけ社会が幸福なのである。僕の桂に感心するのは此意味に於てである。又僕が桂をば非凡なる凡人と評するのも此故である」

この「平凡なる社会」とは、保田のいう「三十年代の最高潮の日本」の社会だったことを忘れてはならない。独歩が「平凡なる社会」と書くとき、それは今日のような精神の低調な時代のことを指しているのではない。

この桂少年の愛読書が、『西国立志編』であった。『西国立志編』は、スコットランドの思想家、サミュエル・スマイルズの『Self-Help』(自助論)を、元幕臣の中村正直(敬宇)が翻訳して、明治四年に刊行され、福沢諭吉の『学問のすすめ』と並んで、明治初年のベストセラーであった。「ワットやステブンソンやヱヂソンは彼の理想の英雄である。そして西国立志編は彼の聖書である」と書かれている。

ある日、語り手は、桂少年の家に寄った。そのとき、桂少年は、一冊の本を脇目もふらずに読んでいるので、「何を読んで居るのだ」ときくと、『西国立志編』だと答えた。
「『面白いかね?』
 『ウン、面白い。』
 『日本外史と何方(どっち)が面白い。』と僕が問ふや、桂は微笑(わらい)を含んで、漸く我に復(かえ)り、何時(いつ)もの元気の可(よ)い声で『それやア此の方が面白いよ。日本外史とは物が異う。昨夜(ゆうべ)僕は梅田先生の処から借りて来てから読みはじめたけれど面白うて止められない。僕は如何(どう)しても一冊買ふのだ』と言つて嬉しくつて堪らない風であつた。

其後桂は遂に西国立志編を一冊買ひ求めたが、其本といふは粗末至極な洋綴で、一度読み了(おわ)らない中に既にバラバラになりさうな代物ゆゑ、彼はこれを丈夫な麻糸で綴直した。

此時が僕も桂も数へ年の十四歳。桂は一度西国立志編の美味(うまみ)を知つて以後は、何度此書を読んだか知れない、殆ど暗誦するほど熟読したらしい、そして今日と雖も常にこれを座右に置いて居る。

げに桂正作は活(いき)た西国立志編と言つてよからう、桂自身もさう言つて居る。

『若し僕が西国立志編を読まなかつたら如何であつたらう。僕の今日あるのは全く此書のお蔭だ。』と」

この『西国立志編』を愛読した人間、「若し僕が西国立志編を読まなかつたら如何であつたらう。僕の今日あるのは全く此書のお蔭だ」と言ったに違いない人間を、ここで挙げるとするならば、後藤新平はその代表者であろう。後藤新平は、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第七代市長などを務めた大政治家である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案したことでも知られる。晩年には、「政治の倫理化運動」を展開したような、普通の政治家とは違った人物であった。「西国立志編を読まなかつたら」、こういう政治家にはならなかったに違いない。

この後藤が、若き日の苦学生の頃、『西国立志編』を愛読したことについては、娘婿の鶴見祐輔が執筆した『正伝 後藤新平』(全八巻)の中に次のように書かれている。第一巻第一章「修業時代」のところである。

「多くの人傑の青年期に見るような苦学力行の時期は、彼の福島と須賀川時代にもっともよく現われている。(中略)ナポレオンが『プルターク英雄伝』に求め、リンカーンが『ワシントン伝』に求めたる刺激と奨励とを、彼は『西国立志編』の中に発見したのである。(中略)

かかるがむしゃらなる勉学の間において、彼のもっとも好んで読んだのは『西国立志編』であった。この書が発行せられるや、彼はただちに二本を購(あがな)い、一本を故郷なる弟彦七に贈り、自らもまた、飽くなくこれを耽読した。いかにこの書が、彼の精神生活に影響するところ深かったかは、それより二十幾年の後に誌せる『自叙伝』のうちに、特に、『余暇アレバ好ンデ西国立志編ヲヨム』と記しているによっても明らかである」

後藤の有名な「自治三訣」は、この『西国立志編』耽読の経験から生まれたに違いない。「自治三訣」とは、「人のおせわにならぬやう 人の御世話をするやう そしてむくいをもとめぬやう」というものである。これは、「明治の精神」の一つの表現である。

さて、桂少年は、上京して苦学の末に、「電気部の技手として横浜の会社に給料十二円で雇はれた」。そして、五年後のある日、桂青年を会社に訪ねたとき、語り手は、感動的な場面に出会う。「桂の仕事を為(し)て居る場所に行つて見ると、僕は電気の事を詳しくは知らないから十分の説明は出来ないが、一本の太い鉄柱を擁して数人の人が立て居て、正作は一人其鉄柱の周囲を幾度となく廻つて熱心に何事か為して居る。最早電燈が点(つい)て白昼(まひる)の如く此一群の人を照して居る。人々は黙して正作の為る処を見て居る。器械に狂の生じたのを正作が見分し、修繕して居るのらしい。

桂の顔、様子! 彼は無人(むにん)の地に居て、我を忘れ世界を忘れ、身も魂も、今其為しつつある仕事に打込んで居る。僕は桂の容貌、斯くまでに真面目なるを見たことがない。見て居る中に、僕は一種の荘厳に打(うた)れた」

この「非凡なる凡人」は、見る者に「一種の荘厳」を感じさせるものを持っていた。また、このような「非凡なる凡人」の一心不乱に働く姿に「一種の荘厳」を感じ取る感受性を、明治の日本人は持っていたのである。「美と義」に関連して言うならば、「美と崇高」という並べ方が、カントやエドマンド・バークなどにあるように、義は崇高を孕む。崇高はまた、荘厳と言ってもいい。「一種の荘厳に打たれた」とは、言い得て妙である。先に「感じ取る感受性」と書いたが、これは余り正確な表現ではなかった。「荘厳」には、向こうから「打たれ」るのであって、人間がこちらから「感じ取る」のではないからである。語り手は、義に「打たれた」のである。

今日の時代思潮に見られるような、「凡人」でいいという悪しき平等主義ではない。また、「非凡」に空しく憧れる卑しさでもない。「非凡なる凡人」が、人間の高貴さを持っていることをしっかりと認識するという人間観が、明治にはあった。これが、「数百万」の人々であり、明治という時代と「明治の精神」を支えていたのである。

「非凡なる凡人」の主人公、桂正作は、「今年で二十四歳」というから、日露戦争に従軍したに違いない。司馬遼太郎の言うところの「奇蹟の演出者たち」の「数百万」の一人は、このような人間だったのである。乃木大将の義のような強烈なものではないとしても、「非凡なる凡人」の義であった。この小説は、「見ている中に、僕は一種の荘厳に打たれた」という文章の後に、改行して次のような一行で終わる。

「諸君! どうか僕の友のために、杯をあげて呉れ給へ、彼の将来を祝福して!」

桂正作が、日露戦争で戦死したかどうかは分からない。戦死したとしても、「彼の将来を祝福して!」という「祝福」に変わりはないであろう。それが、「明治の精神」であり、明治の義であったからである。


二 義の椅子としての桂正作の椅子

小説「非凡なる凡人」の中に、『西国立志編』についてのやりとりが出て来る前のところで「僕は一人桂の宅に立寄つた」とあり、「黙つて二階へ上つて見ると、正作は『テーブル』に向ひ椅子に腰をかけて、一心になつて何か読んで居る」。そして、次のような文章が続く。

「僕は先づ此『テーブル』と椅子のことから説明しやうと思ふ。『テーブル』といふは粗末な日本机の両脚の下に続台(つぎだい)をした品物で、椅子とは足続(あしつぎ)の下に箱を置いただけのこと。けれども正作は真面目で此工夫をしたので、学校の先生が日本流の机は衛生に悪いと言つた言葉を成程と感心して直ぐこれだけのことを実行したのである。そして其後常にこの椅子テーブルで彼は勉強して居たのである」

私は、この「箱」の椅子に「一種の荘厳に打れ」る者である。「直ぐこれだけのことを実行」するのが、「明治の精神」である。この桂正作の椅子を、私は、義の椅子と呼びたいと思う。もう二十年くらい前になるが、山口県の長府にある乃木神社を訪ねたことがある。その境内には、乃木が幼年時代を過ごした家が復元してあった。貧しい小さな家で、押し入れもないので、布団は、日中には天井から吊るすようになっていたのにはさすがに驚いたのをよく覚えている。「和製ピューリタン」の乃木ならば、この桂少年の椅子を見て、「桂君、よくぞ工夫した!」と褒めたに違いない。


三 美の椅子とポストモダン

明治が義の時代であったのに対して、戦後の日本が美の時代であったことを示す例として、明治の「義の椅子」を語った後で、「美の椅子」について書いてみようと思う。

椅子の美というものは、機能と一致して生まれるものであろう。イームズのシェルチェアはすばらしいと思うし、アールトなどの北欧椅子も愛用している。民芸の柳宗悦の息子の柳宗理のバタフライスツールまでは、美と機能のバランスがとれていていいと思う。

しかし、戦後の昭和が、美の時代であったことを示す椅子として、ここで二つの椅子を挙げよう。美が機能から流離してしまい、無意味な美に陥ってしまった例である。美は、機能という義を失うとき、ほとんど喜劇的なものにまで堕落するのだ。

一つは、磯崎新のモンローチェアである。昭和四十七年(一九七二)に作られた。磯崎新は、ポストモダン建築の旗手と言われたが、私は、ポストモダンなどというものに全く関心がなかった。関心がなかったというより、嫌悪感を抱いていたと言った方がいいかもしれない。これが作られたのが、昭和四十七年と改めて知ると、あの頃はこんなものがもてはやされる時代だったのだと思い返される。

モンローチェアは、その名の通り、女優のマリリン・モンローから発想を得てデザインされた椅子である。背が必要以上に高く(機能から離れて)、モンローのボディラインをなぞった曲線を描く。これに、何の意味があるのか。これが、美なのか。この椅子は、今、一脚五十万円以上もする。こういう代物が、話題になったのであり、こういう話題を作るのが才能とみられた嫌な時代だった。こういう風潮は、いまだに続いているようだが、私は、こういう贋物の時代が一日でも早く終わることを願っている。

もう一つは、倉俣史朗のミスブランチと名付けられた椅子である。倉俣は、インテリアデザイナーであり、やはりポストモダンの人である。こちらは、昭和六十三年(一九八八)のものである。造花のバラをアクリルに封入するという奇抜な構造の伝説的(?)な椅子である。まさに、「奇抜」である。この「奇抜」さは、「クラマタ・ショック」と言われたらしいが、「奇抜」なだけではないか。こういう奇抜さを競う時代だったのである。ミスブランチという名は、テネシー・ウイリアムズの戯曲を映画化した「欲望という名の電車」に主演した女優のヴィヴィアン・リー(こちらも、女優だ)が演じた「ブランチ・デュボア」にちなんでいる。最近、この椅子は、オークションで六千七百万円以上の価格で落札されたという。常軌を逸している。

二人とも、ポストモダンの時代に流行した。ポストモダンに対しては、令和四年の十二月に九十二歳で亡くなった渡辺京二の「ポストモダンの行方」が完膚なきまでに批判している。これは、奇しくもミスブランチが作られた昭和六十三年の講演である。このような流行の絶頂にあった時代思潮に対して、これほどの根源的批判ができたのは、この講演の冒頭で、渡辺氏が自ら「浪人」と呼ぶような立場にあったことや熊本市という地方に長く(死去するまで)住んでいたということもあるであろう。東京などに生活していた「文化人」は、ポストモダンに理解を示さなければ、文化業者として生きていけなかったからである。昭和六十三年と言えば、私が「三田文学」に内村鑑三論を連載していた頃である。私は、このポストモダンなどという流行に全く背を向けて思索していた。渡辺氏は、この講演の中で、第一次世界大戦のニヒリズムや近代というパラダイムの破壊は、何か信じ得るものを確かめたいという欲求をまだ持っていたという。合理主義、人間中心主義、進歩信仰といった近代の世界観への不信を痛切に実感すればするほど、それに代わる新しい光を求めたのだが、「今日のポストモダンなるものはそこが大違いなのです」と言って、次のように続けている。

「第一次大戦前後の思想崩壊・人間不信、さらにアウシュヴィッツや広島を経験した第二次大戦後のニヒリズムは悲劇的でありました。ところが、今日のポストモダンをめぐる言説は悲劇的でさえない。近代パラダイムの崩壊は悲劇でなく解放とうけとられている。もはや悲劇も苦悩も新しい光の希求もありゃあしない。もう醒めきりしらけきっているわけで、われわれを律する一切のパラダイム・規範・根拠がうち壊されて、そこに非常に自由な空間が出現したということが、むしろ一種多幸症的な感覚で解放感をもって迎えられているのです」

「ありゃあしない」というような口調に、渡辺氏の嫌悪感がよく出ている。文化の相対主義や恣意性の理論の上に「今日のポストモダニズム的な面白文化の盛行が築かれたといってよろしい」とも言っているが、文化は「面白文化」に覆われたのである。

この「面白文化」から、義は消えていった。また、美も「面白文化」の中で、堕落していった。マリリン・モンローの曲線をなぞった椅子や造花のバラを埋め込んだアクリルの椅子が、もてはやされる時代となったのである。

義の椅子に座った人間は、『西国立志編』を読んでいた。そして、長じては、後藤新平的な「自治三訣」を実践する人物になった。一方、美の椅子に腰かけた人間は、果たして何を読むのか、何を考えるのか、あるいは、何を妄想するのか。そして、作るのは、「面白文化」に過ぎなかったのだ。内村鑑三の「美と義」の中の「真個の美は義の在る所に於てのみ栄える」という言葉を思い出そう。