9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和7年11月号

 桜の餘香(十)― 英霊未だ嘗(かつ)て泯(ほろ)びず ―
      片山利子/作家

亡くなった人々の思いは、遺された言葉に込められていると感じます。我が国の言葉には、「言霊(ことだま)」が籠っているのですから。現代においては、「言霊」を信じるかどうかは人それぞれであるかもしれませんが、古代からそのように信じられてきました。だからこそ、英霊の皆様もご辞世やご遺書を遺されたのでしょう。ご遺書に触れて、「ああ、当たり障りのないことを書いていますね」と感想を述べられた方をテレビで拝見したことがありますが、これをお聞きになった英霊はどのように思われたでしょう。私は、英霊の遺された言の葉は、最期の思いを込めた真心であると感じます。今月はご辞世とご遺書から靖國神社に対する英霊の皆様の思いについて考えてみました。

靖國神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊(みたま)を慰め、その事跡を永く後世に伝えることを目的として創建された神社です。
と靖國神社のホームページに説明されています。明治二年(一八六九)六月二十九日、明治天皇の思召(おぼしめ)しによって建てられた招魂社(しょうこんしゃ)が始まりで、明治十二年(一八七九)六月四日、社号が靖國神社と改められて、現在に至りました。

明治七年(一六七四)一月二十七日、明治天皇が初めて招魂社に御親拝された時、詠まれた御製がご本殿に掲げられています。向かって右側です。


 我国の為をつくせる人々の
   名もむさし野にとむる玉かき

神雷部隊の人々は、靖國神社神門から二本目の桜の木で会おうと約束をされておりました。そして戦後を生きて迎えられた部隊の人々が,六本の桜の木を奉納されました。そのうちの四本は、権宮司現職のまま病に斃れました坂明夫大人(うし)から教えていただきましたが、その後、外苑の整備が行われ、私には外苑にありました二本は分からなくなりました。神門をくぐり、お社に向かい右手の二本目に「神雷桜」があります。また、左側斎館(さいかん)前には八重桜に「神雷桜」と札が掛けられています。

境内には各部隊から奉納された様々な種類の桜があり、春ともなれば次々に花を咲かせますのは周知のとおりです。それは単に桜が咲くということではなく、英霊が桜の花となって靖國神社の庭にお集まりになるとは感じませんか。

愚父は、ノモンハンと大東亜戦争を九七式中戦車で戦いました。ほとんど戦争の話はしませんでしたが、テレビ番組の中で「靖國神社で会おうなどというのは戦後の嘘で、映画やドラマの絵空事」という発言を聞いたとき、「何が嘘なものか。明日の戦闘は相当厳しいものになるだろうと覚悟を決めた夜には、戦友と靖國神社で会おうと約束した。嘘でも絵空事でもない。生死を共にする戦友と戦死後も会えるとしたら、靖國神社以外にないではないか」と。そして、晩年、群馬から、体力の続く限りお参りしました。私が「靖國さんに行ってくる」と申しますと、「そうか。俺の戦友にもよろしく伝えてきてくれ。今回は仕事で行けないからなぁ」と申しました。遊就館で御遺影を拝見する時には、「吉丸部隊長(陸軍大佐吉丸清武命。戦車第三連隊連隊長。陸士26期。ノモンハンで戦死後少将。愚父は吉丸部隊長と申しておりました)がみつからない」と真剣に探しました。お写真をご遺族が奉納されなければ、ここには展示されないのだと申しても納得しませんでした。父の大切にしていたアルバムにノモンハンの写真がたくさんあるのですが、その第一頁には、吉丸部隊長と書かれてはあるものの、お写真が剥(は)がれた跡があります。その経緯は分かりませんが、生涯お慕いしていた上官にどんなにお目にかかりたかったのか、おそらくは素晴らしい上官だったのでしょう。愚父にとって連隊長は雲の上の存在の筈ですが、戦死されたときにはお傍(そば)におりましたので。

では、若き英霊の遺されたご辞世には靖國神社にどのような思いが込められていたのか拝読しましょう。

回天特別攻撃隊金剛隊海軍中佐 加賀谷 武命
  驕敵(きょうてき)を三途の川迄(まで)吹き飛ばし
身は九段の華と咲かなむ (『特攻隊遺詠集』)
回天特別攻撃隊金剛隊海軍少佐 原 敦郎命
  靖國の桜と咲かん永久(とこし)に
    南の海に果つるこの身も(前出『特攻隊遺詠集』)
第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊海軍少尉 島村 中(あたる)命
  大君の辺にこそ散らん桜花
    今度咲く日は九段の社(やしろ)
(『英霊の言乃葉 社頭掲示集第六輯』)
第一神風特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊海軍大尉 粕谷義蔵命
  覚悟して大海原に羽撃(はばたき)の
    響きは永久に靖國の杜 (前出『特攻隊遺詠集』)
第一神風特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊海軍少尉 棚橋芳雄命
  若鷲は南の空に飛び立ちて
    還るねぐらは靖國の森 (前出『特攻隊遺詠集』)
神風特別攻撃隊神雷部隊第三建武隊海軍少尉 甲斐孝喜命
  大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と勇み行く
    九段の庭の戦友(とも)を慕ひて
(『大東亜戦争殉難遺詠集』)
神風特別攻撃隊神雷部隊第四建武隊海軍少尉 井辰 勉命
  靖國の庭に競へる若桜
    我も後れじ 散りて開かん
(前出『大東亜戦争殉難遺詠集』)
第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊海軍少佐 高野次郎命
  皇国(すめくに)よ悠久(とわ)に泰(やす)かれと願ひつゝ
    桜花と共に 靖國に咲く
(『英霊の言乃葉 社頭掲示集第四輯』)
第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊海軍少尉 中内静雄命
  身はたとへ南の海に朽ちぬとも
    やがて九段の花と咲くらむ
(『海軍飛行豫科練習生 遺書・遺詠・遺稿集(2)』)

次にご遺書をみてみましょう。


陸軍伍長玉田久太夫命(たまだきゅうたゆう) 昭和二十年四月八日 フィリピンルソン島にて戦死
(前略)お前は俺のもとに嫁(とつ)いで本当によく尽(つく)してくれた事を深く感謝する。(中略)しかし、俺も一度家を出たからは、敢へて生還は期すことは出来ないと。しかし、これこそ皇国(こうこく) 男子(だんし)の本懐(ほんかい)だ。又、俺の戦死を聞いても決して取り乱した振る舞ひはしてくれるな。
俺は一足先にあの世とかに行つて、必ずお前の来るのを待つてゐる。
二十年三十年は長い様でも悠久の天地から見れば、ほんの一瞬だ。
(中略) 何卒(なにとぞ)、今後は身の重責を自覚して健康に注意して、俺亡きあとは心丈夫(じょうぶ)にしつかりとこの世の中を渡つてくれる事、靖國の社内より祈つてゐる。
又、幼子成長すれば一度は靖國神社へ連れて参つてくれ。(後略)
(『英霊の言乃葉 社頭掲示集第十二輯』)

三十三歳の夫が妻に宛てたご遺書です。我が身亡き後、妻を心配をしながらも「必ずお前の来るのを待つてゐる」と励ましています。どんなに悲しくとも苦しくともそれを頼りに生きていくことができるように…。そして靖國神社に子供を連れてきて欲しいと。深い愛情を感じます。

陸軍曹長金子正男命 昭和二十年三月十九日 フィリピンのルソン島にて戦死
(前略)
大命(たいめい)に依り征途(せいと)に就く再び生還(せいかん)を帰(き)せざる覚悟なり
大和女として男々しく生きられよ
今度会ふ日は靖社
最後に多幸を祈る
(前出『英霊の言乃葉 社頭掲示集第十二輯』)

二十四歳の兄が妹に宛てたご遺書です。「靖社」とは靖國神社を意味します。やはり「大和女として男々しく生きられよ」と励ましています。「今度会ふ日は靖社」靖國神社に来れば会えるぞと微笑んでいるように感じます。「最後に多幸を祈る」のは、靖國神社のお社で英霊となって大切な妹の幸(さち)を祈るのです。

陸軍少尉田沢清作命 昭和十九年九月三十日 テニヤン島にて戦死
笑つてゐるこの写真
やるだけ俺はやつたんだと
笑つてゐる写真
あこがれの桜花と散つたよと
笑つてゐる写真
これで俺の一生は意義があつたんだと
笑つてゐる写真
あとの大東亜は貴様らに頼むぞと
笑ってゐる写真
靖國神社で待つてゐるぞと
笑つてゐる写真
神様になつた戦友の
この写真 (前出『英霊の言乃葉 社頭掲示集第二輯』)

戦友の写真に、自分自身の覚悟と残る人々に後のことを託す心を重ねています。その「後」とは「あとの大東亜」です。個人の幸せではなく、我が国の弥栄(いやさか)と 植民地政策に苦しむアジアの国々の独立のことです。そして戦死後は靖國神社で会おうという約束です。 陸軍軍曹 西島観空命 昭和十九年十月二十日 ビルマ国モーライク県カレワ付近にて戦死

(前略)靖國の宮居に神として御祭祀下さる陛下の御仁慈には、感泣するのみです。臣としてこれ以上の名栄・名誉がありませうか。自分一身のみでなく、一家の名誉です。喜んでください。(後略) (前出『英霊の言乃葉 社頭掲示輯第十一輯』)

戦死後、靖國神社に神として祀られることは、天皇陛下のお慈しみであると感謝申し上げ、それはいかに名誉なことであるかを述べています。この御真情こそ、英霊が「靖國神社で会おう」とお約束され、祖国存亡の危機に命を捧げられた心の支えの一つであるのです。

人間は国家を離れて生きていくことはできません。祖先から脈々と継承されてきた文化・伝統・歴史を護らなくて、どこに祖国が存在するでしょう。日本を祖国とする私どもが英霊の御真情を受け継ぎ、守り、次代へ繋げていかねばならないのです。