9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和7年12月号

高市新首相に日本の改革を期待する

  吉田和男 /京都大学名誉教授


衆議院選・都議選・参議院選に三連敗した石破茂氏は、日米関税交渉の合意を花道に自民党総裁を辞任し、高市早苗氏が総裁に選ばれた。公明党が自公連立政権から離脱したことから立民・国民・維新の連立による政権交代の可能性が生まれ、政局は混乱した。最終的に自民党が日本維新の会と連立を組み、高市内閣が発足した。高市氏の経済政策の基本は安倍内閣の「上げ潮路線」の継承である。上げ潮路線は「成長なくして財政再建なし」であり、積極財政により景気を引き上げ、それによる税収増によって財政も健全化させるというものである。そして、安倍内閣以降主張されてきた、物価上昇→企業の収益増→賃金上昇→消費増→景気上昇→物価上昇……という物価・賃金の好循環論を基本としてる。同時にインフレ対策として、ガソリン税・所得税の減税、電気、ガスへの補助金を明言している。責任ある積極財政は高市氏のかねてからの持論である。このために赤字国債を増発できるように、長年の財政運営の基本であった基礎的財政収支均衡に近付けるのを単年度で考えるのではなく複数年度で考えるとしている。また、高市内閣は維新が公約している諸政策の実施のための予算・法律を成立させなければならない。維新は財政規律を公約しておらず、消費税減税を連立合意に盛り込ませている。

上げ潮路線の物価・賃金の好循環は、実現するであろうか。インフレーションの始まった二〇二二年以来、名目賃金は上昇したが実質賃金は年々、下落している。実質消費は二〇二二、三年は微増であるが二〇二四年度は横ばいである。二○二四年度の実質成長率は○・八%である。すなわち、物価・賃金の好循環は事実として実現していない。初級の経済学の教科書では、インフレーション率の上昇は総需要を減少させるものとされている。さらに、経済学での一般的な考えとしては、一生の所得、あるいは子供への遺産を考慮して最適な消費を行うことを考えると、インフレで最適な貯蓄残高が目減りするのでこれを補填(ほてん)するために貯蓄を増やす、すなわち消費を減らすことになる。標準的な経済学の教科書には、物価・賃金の好循環は出てこない。むしろ実質賃金上昇率がマイナスを続けているところから現実を見れば、物価・賃金の悪循環を指摘する方がまともであろう。ただ、ニューケインジアンの考えでは金融政策で金利がこれ以上、下がらない時には、期待インフレ率を高めることで実質金利をマイナスにして、消費・投資を促進させるという議論はまともである。ただ、その効果の大きさについては議論の余地はある。物価・賃金の好循環という議論はどう見ても怪しいものである。現実に、国民はインフレに対し怒っている。先の参議院選挙での自公政権の敗北の原因の一つにインフレがある。米の価格が二年で倍になるのは異常である。在庫米放出もあまり効かなかったようである。さらに、七十七万トンのミニマムアクセス米があるが、農業者への約束として十万トンしか食用として放出されていない。他の大部分は五百億円の税金を使って飼料用にしている。これを食用として放出すれば米不足は難なく解消される。

もともとインフレは金融現象である。あれだけの金融緩和を行ったのであるからインフレにならない方がおかしい。二〇二四年のコアCPI(消費者物価指数)上昇率は三%程度であり、すでにインフレーションターゲットの二%を越えている。食料品などを加えたCPI上昇率は三・六%である。そして、インフレ対策として減税・補助金を表明しているが問題は財源である。財源を国債発行によって賄(まかな)えば長期金利の上昇となり、財政収支を悪化させ、設備投資・住宅投資の減少要因となり景気後退を起こしかねない。もちろん減税による総需要拡大効果はあるが、これを相殺(そうさい)することになる。一方で脱炭酸ガスと言いながら、ガソリン価格を引き下げることも矛盾である。日本銀行が長期金利を維持するために買いオペレーションをすれば、通貨供給を増やしてインフレの要因になる。インフレ対策として国債発行で減税を行ってインフレを起こしていては、全く意味のないことになる。さらに、減税でインフレ対策を行うこと自身、おかしな話である。一般にインフレを抑えることが最も重要政策であり、これには金融引き締めと財政赤字の抑制が必要であるが、その様にはなっていない。高市氏は積極財政派である。

また、積極財政派を勢いづかせているものには、近年の税収の増加がある。物価が上昇すれば消費税収入は必然的に増える。賃金が上昇すれば個人所得税が増えるのも当然である。法人税が増えたのは物価上昇で法人所得が増え、また円安で輸出が拡大して法人所得が増えたためであるが、もう少し複雑な要因がある。インフレになると在庫評価益が拡大し法人税が増える。さらに、近年のグローバル化の結果、海外に生産拠点を移した企業が多く、そこでの収益が法人所得を増やしている。またさらに、円安のために円建てでの法人所得をさらに拡大させている。これらの資金は国内に資金を運用している場合もあるがグローバルな資金運用をしている。税収の増加はインフレの抑制に成功すれば消えてしまう。従って、減税や給付金の原資はインフレ抑制に成功した時はなくなってしまうという矛盾にある。実質の経済成長が起こっていないためである。インフレ・円安への対応は、植田和男日本銀行総裁の判断にかかっている。インフレの抑制のためには金利を引き上げるべきであり、植田総裁は引き上げのタイミングを探っている。

これだけの経済対策を行いながら三十年間も総需要不足であるというのは、経済に対する認識を間違えている。また、深刻な人手不足であるという。総需要を拡大しても生産を行う人がいないのである。人手不足経済で総需要を拡大しても、実質国内総生産は増えず物価が上がるだけである。長期にわたるゼロ成長は総需要が過少なためでなく供給側に問題がある。かつて高度経済成長が実現したのは総需要拡大政策ではなく、供給の側での生産性の向上があったためである。これを思い出す必要がある。

一九七〇年代のアメリカ経済はインフレと高失業率の併存するスタグフレーションとなり、主流派経済学と合理的期待形成論との間で激しい論戦が行われ、合理的期待形成論が勝利し、財政金融政策による総需要管理政策で経済を改善することができないことが認識された。そこで一九八一年に出てきたのがレーガン大統領による供給側政策であった。物価上昇に対しては高金利になることを放置する厳しい金融引き締めを行い、規制緩和と税率の引き下げであった。減税で手取り所得を増やして消費を増やそうというのではなく所得税率の引き下げで勤労意欲を高める、法人税率の引き下げで利潤率を高めて設備投資を増やす、株式譲渡益課税の税率引き下げで株式投資の利益率を高め、特にベンチャー・ビジネスのように株式で資金提供することが有利になるようにした。この結果、スタグフレーションは解消し、民間経済では金融革命、経営革命、通信革命、ベンチャー・ビジネスの興隆が起こり、経済の姿は大きく変わってこの三十年間で国内総生産は四倍となる成長経済になった。日本では小泉内閣時代に構造改革が行われ金融危機回避・郵政民営化があったが、民間経済での大改革は行われなかった。バブル崩壊後、日本の企業経営に問題があるとして、私は日本型経営の改革を主張し、経営者側でも改革が検討された。しかし、改革の熱意は下がり、いつの間にか「政府の政策が悪い」との話になり、無駄な経済政策を続けて三十年間ゼロ成長となってしまった。物価・賃金の好循環の様な似非話(えせ)から脱却して、経済の革命的な改革に取り組まなければ世界史上例のない三十年間ゼロ経済成長の罠から脱却できない。

近年、先進的な企業でローテーション・年功序列人事からジョブ型人事を導入し始めている。しかし、終身雇用制度を保証している労働契約法第十六条が改正されなければ企業は自由な改革を行うことができない。労働法制改革で経済成長の障害となっている日本型経営の一角に穴をあけ、ITを中心とした第三次、AIを中心とした第四次産業革命に対応しなければならない。他にも財政改革、社会保障改革、農業改革など多くの改革を必要としている。高市首相には、過去の間違った議論から脱して日本経済を正常な成長軌道に持ってゆく改革にチャレンジしてほしいものである。