『日本』令和7年12月号

十二月号巻頭言「述懐」解説
この歌は、水戸の藤田東湖が禁錮中の時、蝦夷地の探検に出かける伊勢の松浦武四郎に贈つた。これを武四郎は、弘化三年八月二日、知しれ床とこに到達し国くな後しり島から上る日の出を拝しながら二三度口詠したと蝦夷日誌(二)に記す。アイヌと寝食を共にしながら六回も踏査して詳細な地図を作製し、明治二年、北海道の名付け親となつた。明日への希望を抱かせる一首である。
ロシアの南下を阻止し、樺太・千島交換条約やポーツマス条約によつて国境線が画定されたが、大東亜戦争の終結間際、ソ連の不法参戦によつて悲劇に見舞はれ、今に日本固有の領土は侵されたままである。
来年は昭和改元百年を迎へるが、昭和天皇が詠まれた北方鎮魂の御製を想起する。昭和四十三年九月、北海道開道百年記念式典に臨まれた後、最北端の「稚わっかな内い公園」で樺太を望む「氷雪の門」に立たれ、「樺太に命をすてしたをやめの こころを思も へばむねせまりくる」と真ま 岡おか郵便局電話交換手の悲話を偲ばれた。
この九月、北海道新聞社から山田淳子氏の写真集『わたしの百人の祖父母たち─北方領土・元島民の肖像』が発行された。択えと捉ろふ島出身のある老人は「島が返ってくるまで死ぬことはできない」「俺の中ではまだ戦争中なんだよ」と故郷に思ひを馳せてゐた。北方領土の「あけぼの」を願はずにはをられない。 (廣瀬重見)



