『日本』令和7年12月号
(十二=完)― 英霊未だ嘗(かつ)て泯(ほろ)びず ―
片山利子/作家
海軍中尉 和多山儀平(わだやまぎへい)命 昭和十九年十一月十九日
空母「神鷹(しんよう)」上で戦死。第七期海軍兵器予備学生
われ死なば後につづきてとこしへに
御国(くに)護(まも)れよ四方(よも)の人々
和多山中尉の後世の人々に遺されたご真情です。では、「われ死なば」と命を祖国の危機に捧げるお気持ちはどのようなものであると詠まれたのでしょうか。
畏(かしこ)きや命(みこと)かかふり夷(えびす)らを打ち攘(はら)ふべきときは來(き)にけり
君のためいのち死すともしきしまの
やまとしまねをとはに護らむ
みくにいまたゞならんときつはものと
召されて出ゆく何ぞうれしき
(『大東亜戦争殉難遺詠集』)
畏(おそ)れ多くも天皇陛下のお召しです。皇国を侵す敵どもを撃ちに喜んで出て征きましょう。私は命をかけてこの大和の国を護りましょうと詠んでいます。あなた方も後に続いてくださいというのが、和多山中尉の最期の願いなのです。
表現は異なっても当時の方々は同じようなご真情で出征されたのではないでしょうか。その思想的背景には、楠木正成・正行(まさつら)親子の忠義があったのです。
陸軍大将 栗林忠道命 小笠原方面陸海軍最高指揮官。硫黄島にて戦死
仇(あだ)討たで野辺には朽(く)ちじわれは又
七度(ななたび)生まれて矛(ほこ)を執(と)らむぞ
(『大東亜戦争殉難遺詠集』)
陸軍少尉 加賀和元命 昭和二十二年四月二十八日(厚生労働省「旧ソ連邦抑留中死亡者名簿」では四月二十七日)ソヴィエト連邦ウズベク共和国アンダレン収容所にて事故死
楠のふかきかをりを身にしみて
七たび死なんすべらぎの道
(『大東亜戦争殉難遺詠集』)
「七たび生まれて」「七たび死なん」とはご存じの通り、湊川で討ち死にされ多楠正成・但木「正末)京大の「七たびも人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼす」という最後のご進上です。系図書きを辿ると正季に繋がる英霊がいらっしゃいます。和田稔少尉です。昭和十八年十二月八日、海軍に入隊する直前に書かれたご遺書には次のように書かれています。
回天特別攻撃隊轟(とどろき)隊 海軍少尉 和田稔命
(前略)祖大楠公ソノ湊川ニ薨(こう)ゼントスルヤ 七生国ニ報ユルヲ誓ヒ給フト(中略)稔ココニ更(あらた)メテ七死報君ノコトヲ誓フテ稔ガ死後ノ標(しるべ)ト為(な)サン
出撃後の潜水艦艦内では日記に次の歌を記されています。
くすのきの遠つみおや(親)もみそなわせ
千々にくだくるしこ(醜)の仇(あだ)艦(ふね)
(『 わだつみのこえ消えることなく―回天特攻隊員の手記―』)ほんの一部しか引用できませんが、このご遺書全文から和田少尉の、楠木正成の子孫としての覚悟と誇り、同時に歴史の流れの中で繰り返し湧き出してくる我が国の民族的精神を感じ取ることができます。和田少尉は東京帝国大学法学部から海軍に入隊、昭和二十年五月二十八日、回天搭乗員として出撃するも会敵できず帰投、七月二十五日再出撃のための訓練中、山口県光基地沖で海底に突入後行方不明となり、隊を挙げての捜索も空しく、終戦後の九月、台風によって流され、浮上したため、発見されました。和田少尉は、操縦席に胡坐(あぐら)をかいたように座り、三日分の食料を食べつくして従容と絶命していたそうです。
陸軍中佐 橋口武秀命 昭和十九年七月十八日サイパン島にて戦死
我もまた名をぞ止(とど)めむみよしのの
花の下なる壁のほとりに
右の一首、如意輪堂に詣でて
(『大東亜戦争殉難遺詠集』)
楠木正行が四条畷(しじょうなわて)の戦いに出で立つ時に、吉野の如意輪堂(にょいりんどう)の壁に自分の名と、共に死ぬ覚悟の部下たちの名を矢の先で刻んだという『太平記』の記述に倣(なら)ったご辞世です。正行は次のように詠んだのです。
かへらじとかねておもへば梓弓
なきかずにいる名をぞとどむる
楠木家の紋は菊水です。この菊水をご辞世に詠まれた英霊もいらっしゃいます。その一部をご紹介しましょう。
回天特別攻撃隊天武隊 海軍少尉 前田肇命
菊水の流れを掬(く)みて吾も又必死守らん大和島根を
(回天刊行会『回天』)
回天特別攻撃隊白龍隊 海軍少尉 伊東祐之命
菊水の流れを慕ふ若桜梓(あずさ)の弓と征(ゆ)きて還(かえ)らじ
(前出 『回天』)
我が国が幾度となく存亡の危機に対峙したとき、その都度楠公精神つまり楠木正成の忠義の心に倣って祖国を護ろうと立ち向かう人々が現れました。大東亜戦争に於いても然りでした。
神風特別攻撃隊第七昭和隊 海軍大尉 篠原惟則命
現身(うつしみ)は南の海に沈むとも
魂魄永遠(とわ)に皇国(みくに)護らん
(『大東亜戦争殉難遺詠集』)
それでは、尊い命を捧げてこの大和島根を護ろうとした英霊は、どのような世になることを望んでいたのでしょうか。
神風特別攻撃隊第一八幡護皇(はちまんごおう)隊艦攻隊 海軍少尉 松村嘉吉命
大君のみたて(楯)となりて出で行くに
後見ん心御代のあけぼの
「あけぼの」つまり我が国や植民地となっている国々の平和と繁栄を願っているのです。呉の大浦崎にあった甲標的の基地(P基地)が回天搭乗員の募集と養成を目的として第一特別基地隊となり、隊歌が募集されました。回天創始者の黒木博司少佐・仁科関夫少佐も応募しました。共に「神州の曙」を歌っているのを知り、にっこりと頷(うなず)きあったそうです。黒木少佐の歌は、少佐殉職後海軍軍楽隊によって曲がつけられました。一度、海上自衛隊音楽隊の演奏をお聞きしたことがあります。歌の内容は、戦況に対する見解と回天の実用化に奮闘する心意気、国民全体に楠木一族の心を以てこの難局を乗り越えようと歌いかけています。長いので一部だけ紹介しましょう。
一 弦月(げんげつ)暗ク雲ハ飛ビ 澎湃(ほうはい)ノ波岸ヲ噛(か)ム
治安和楽(わらく)ノ春ノ夢 醒メヨ日本ノ朝嵐
四 神州不滅ト誰カ言フ 然(しか)セシムルハ唯(ただ)誠
カネテ定メシ梓弓 生死誰カ挙ゲ論(つら)フ
五 鉄鉞(ふえつ)屍(かばね)ヲ収メツツ 雲飄々(ひょうひょう)ノ身ハ一ツ
満身我ニ生気(せいき)満ツ 斃(たお)レテ後ニ已(や)マン哉(かな)
七 花ハ桜木人ハ武士 七度(ななたび)生キテ撃タントス
楠氏(なんし)ノ心消エザレバ 見ヨ神州ノアサボラケ
(『ああ黒木博司少佐』原典は確認できず)
「鉄鉞」は「斧鉞(ふえつ)=おのとまさかり」つまり武器のことで、古代中国では天子が出征する将軍に全権委任の印として与えるものでした。『日本書紀』にも、日本武尊が東征の折に、景行天皇から斧(おの)と鉞(まさかり)を授かったという記述があります。深く広く学問を積んだ黒木少佐らしい表現です。
神風特別攻撃隊第五筑波隊・海軍少佐西田高光命は、鹿屋(かのや) 基地の宿舎野里(のざと)小学校で、報道班員として従軍していた作家山岡荘八氏に、「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのかどうか?もし負けても悔いはないのか?」などの問に答えて次のように結びました。
おわかりでせう。
われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながってゐますよ。
さう、民族の誇りに…
(靖國神社 『英霊の言乃葉 第八輯』)
山岡荘八氏の質問はかなり厳しい内容であったと思いますが、帰ることのない出撃を前にして冷静に戦局と戦後を洞察し、わが身の任務の意義を的確に答えています。「民族の誇り」、それを護るために何にも代え難い大切な命を捧げたのです。
陸軍主計中尉 城山光生命 昭和二十年七月一日、比島マニラ東方八洲山にて戦死
苟(いやしく)も皇軍将校たる者は、死すべき時は潔く死することを武人の嗜(たしな) みとして居ります。
譬(たと)へ、遺骨の還らざる事あるとも、非難することなく日本人としての矜持(きょうじ )を持つて下さい。
国のため命捧げしますらをの
至誠をつげや一億の民
(前出 『英霊の言乃葉 第三輯』)
祖国の人々に「日本人としての誇り」をもち、国難に命を捧げた勇気ある武人の真心を継いで日本を護ってくれと呼びかけています。
海軍中将 大西瀧治郎命 海軍軍令部次長。昭和二十年八月十六日官邸にて自決
大西中将は最初の神風特別攻撃隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の四隊二十四名に対して「自分も必ず後から征く」と訓示の最後を結びました。その約束どおり、特攻作戦の責任を負い、自刃されました。ご遺書は次の通りです。
吾れ死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に副(そ)ひ奉り、自重忍苦する誡(いましめ)ともならば幸なり。
隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿(なか)れ。
諸子は国の宝なり。平時に処(しょ)し猶(な)ほ克(よ)く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為尽くせよ。
(前出『英霊の言乃葉 第二輯』)
英霊の皆様が、人生への夢も、大切な人々との生活も、尊い命も、名さえも捨てて護ろうとした「日本人としての誇り」「祖国愛」「平和」を、私どもは、現在見失いつつあります。しかし、靖國神社遊就館を拝観する若者は以前よりずっと増えました。この風潮に危機感を抱き、歴史的事実とは、祖国を護るとは、と考える傾向は、SNSなどの投稿にもみられます。総理大臣高市早苗氏の政治理念は、「国民の生命と財産、領土領空資源、国家の主権と名誉を守り抜く」です。心ある国民が高市総理と共に守り抜けばよい。しかし、国外のみならず、これを妨害する同胞もいるのです。令和の祖国存亡の危機と言えましょう。
英霊の思いを素直に冷静に受け止め、受け継ぐことが肝要です。
英霊の思い即ち桜の餘香を身に纏(まと)い、日本人として生きたいと思いませんか。



