9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和7年2月号

建国は「百敗一成」の大願成就        

 渡邉規矩郎 /大阪国学院講師


     

「建国記念の日」が昭和四十一年の祝日法改正で祝日に加えられてから、まもなく六十年、還暦を迎える。しかし、「建国をしのび、国を愛する心を養う」この祝日は、いまだに定着していないかのごとくマスコミ等は扱う。国民こぞって建国記念日を祝わない国を、諸外国は信頼するであろうか。


「二月十一日」と紀元節

明治以来の「紀元節」は、戦後、GHQの反対により新しい「祝日法」から除かれたが、昭和四十一年、その「祝日法」が改正され、「建国記念の日」として祝日に加えられ、「建国をしのび、国を愛する心を養う」とうたわれている。

筆者が令和まで宮司を務めていた岡山県西部の片田舎の神社では、「建国記念の日」が制定され翌四十二年に実施されてより毎年、二月十一日に「建国記念祭」を斎行しており、もちろん現在も続いている。同県内で紀元祭ないし建国記念祭を斎行しているのは護国神社をはじめ数社のみで、旧村社での祭典は珍しい。祭典当日には、総代、当番、氏子有志、小学生全員が参列。選挙がある年には市長、県会・市会議員らが来賓で参列する。厳粛な祭典が執り行われたあと、御真影を通して橿原神宮遥拝、国歌斉唱、次いで「紀元節」の歌を「雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も なびきふしけん大御世を 仰ぐ今日こそたのしけれ……」と高らかに歌い、直会(なおらい)に移る。

「紀元節」の歌に出てくる高千穂は、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨された地だが、この高千穂は宮崎県に二か所ある。一つは高千穂町の山々、もう一つは霧島連峰第二峰の高千穂峰。どちらが真の天孫降臨の高千穂なのか、昔から数多くの論争が行われてきており、本居宣長も「どちらとも決めがたい」として二説を併記している。明治政府は、鹿児島にまたがる高千穂峰を天孫降臨の地としたが、これは薩摩の政治力が強かったためだろう。筆者は以前、高千穂町の国見ヶ丘に立って日の出を拝したが、雲海の中に浮かぶ阿蘇の山々を眺めていると、この地に軍配を上げたくなった。

神武天皇は、高千穂から五ヶ瀬を経て耳川を下り、現日向市の美々津港から東征に船出されたとされ、同地は、日本海軍発祥地となっている。


神武天皇の東征ドラマ

わが国最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』は、人代の冒頭に神武天皇の建国物語を載せている。そのごく大筋を古代史家の田中卓博士の解釈(『日本国家成立の研究』)に基づいて略述すると、まず原ヤマト国の本拠地は、筑後川下流(福岡県山門郡あたり)。神武天皇は、ここから日向高千穂宮(宮崎県西臼杵郡の五ヶ瀬川上流あたり)に遷られた。次いで、天皇は東征に旅立たれて、瀬戸内海を経て難波に上陸しようとされたが、在地豪族の長髄彦(ながすねひこ)に阻止されたので、熊野に迂回してから上陸、八咫烏(やたがらす)の導きにより、ようやく大和に入ることができた。『日本書紀』の記述では、神武天皇は南九州より東征して五年目に大和に入り、翌年の三月、畝傍山の東南の橿原の地に都を造り始められ、翌年九月、在地の大三輪氏の姫を皇妃とされ、さらに翌年の春正月に橿原宮にて即位された。

この神武東征物語は壮大な建国ドラマである。幕末の元治元年、禁門の変の総指揮者として戦い敗れ、天王山で自決した真木和泉守が、『経緯愚説』の中で「百敗一成の事」としているように、神武天皇は兄君の五瀬命(いつせのみこと)を戦で失うなど、度重なる敗戦の末の大願成就であった。なお、真木和泉守は生前、①神武御創業の御精神にかえること、②旧弊を破ること、③公侯伯子男の五等の爵位を設けること、④忠功の人々を神に祭り、官位を贈られること、⑤親兵を置かれること、⑥土地人民の権を収めること、⑦遷都あるべきこと、⑧皇紀御採用のこと、⑨租税を軽くすること――などを要領とした日本中興の計画を建白し、それが宮中に達しており、明治天皇により採用されるところとなった。


歴史観・国家観の混乱

ここで、改めて「建国記念の日」の制定過程を振り返ってみよう。

「建国記念の日」二月十一日は、戦前の祝祭日のひとつ「紀元節」の日。紀元節は『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇即位の日として、明治五年に制定された。この祝祭日は、昭和二十三年の「国民の祝日に関する法律」制定に伴い廃止された。

紀元節復活に向けた動きは、昭和二十六年ごろから見られ、「建国記念日」の設置を定める法案が、九回の提出と廃案を繰り返しながら成立に至らず。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として「建国されたという事象そのものを記念する日」であるとも解釈できる玉虫色にし、具体的な日付の決定は各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、反対していた日本社会党も妥協、昭和四十一年六月、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立した。

具体的に何月何日を記念日とするかについても、議論があり、社会党は日本国憲法が施行された五月三日(憲法記念日)、公明党は、サンフランシスコ講和条約が発効した四月二十八日、民社党は聖徳太子が十七条の憲法を制定したとされる四月三日を、それぞれ主張、日本共産党は、日本にいまだ建国はなく、革命により建国の日を勝ち取ると言ってはばからなかった。

これら各政党等の主張は、その立ち位置、国家観・歴史観を浮き彫りした。日本国憲法施行日、講和条約の発効日とするという提案は、戦前と戦後を分断、わが国の歴史・伝統を断ち切るという発想であり、十七条憲法制定日とする主張は、日本の国体・国柄を明らかにするため、国史の編修に力を尽くされた聖徳太子の志を無にするものであった。

同改正法を受けて、審議会が総理府に設置され、約半年の審議を経て、委員九人中七人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「二月十一日」とする答申が同年十二月九日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする」とし、「建国記念の日となる日を定める政令」を定めて公布、即日施行し、翌年から祝日として祝われることになったのである。


神武天皇や皇紀を教えない異常

『日本書紀』が記述する神武天皇が即位された辛酉年正月朔日を換算すると「二月十一日」、その年は西暦では紀元前六六〇年となる。この年を元年とするのが日本の紀年で、これを「皇紀」という。令和七年は皇紀二六八五年である。『日本書紀』では、当時のシナの辛酉の二十一年度目(千二百六十年)ごとに大変革が起こるという讖緯(しんい)説を年立てに採用したため、六百年の誤差があり、神武天皇御即位は西暦の始まり前後と推定できる。それぐらい日本の建国、国の誕生日ははるか遠い歴史の彼方にある。

先年、インドネシアのバリ島を訪れたとき、現地のカレンダーに西暦と並んで日本暦何年と書いてあり、その日本暦は「皇紀」であった。日本では一般には使われていない「皇紀」がバリ島で生きていることに驚かされた。

建国の初代天皇である神武天皇や皇紀が、学校で教えられない異常さから決別したいものである。