9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和7年2月号

 大東亜戦争の淵源 ― 資料が語るその史実 ―(二)  

 田村一二

一 戦争警告

ハル・ノート手交の翌日、一九四一年十一月二十七日、戦争警告が複数、陸軍省・海軍省から、アメリカ軍の前哨基地の司令官に送られました。(ビーアド『責任』五七〇頁)

次に示したのは、ハワイの司令官に送られた戦争警告です。


資料「戦争警告」
陸軍省からショート中将注1 宛て

日本との交渉は事実上、打ち切られた模様だ。日本政府がその継続を申し出る可能性はほとんどないようだ。日本の今後の動きは予測不可能であるが、いつなんどき、敵対行為に出てもおかしくない。もし、敵対行為が回避できない場合は、繰り返す、できない場合は、合衆国は日本が最初に明確な敵対行動を取ることを希望する。この政策は防衛体制を危うくするような行動方針を取るよう貴官らを制約するものではない。日本が敵対行為を始める以前は、貴官の任務は貴官が必要と考える偵察を行うこととその他の任務を講じることであるが、そうした措置は一般市民の警戒心を招くことも、かつその意図が露呈することも無いように、繰り返す、無いように実施されなければならない。実施した措置は報告せよ。敵対行為が取られた場合、貴官はレインボー第五号注2に定められた日本に関係する任務を遂行すべし。この高度機密情報は必要最小限の将校に限って伝達すべし。


海軍省からキンメル大将注3宛て

この文書は戦争警告とみなすべし。太平洋情勢の安定を図った日本との交渉は終了した。日本は数日のうちに攻撃的行動を起すと予想される。日本軍の部隊の数と装備、そして、海軍機動部隊の編成はフィリピンまたはタイ、クラ地峡あるいは場合によってはボルネオに対する陸・海軍合同の遠征上陸作戦が行われる兆候がある。貴官はWPL―46注4に定められた任務の遂行に備えて防衛的体制を配備せよ。グアム、サモア、大陸地区は破壊工作に備えて適切な措置を講じるよう指示されている。陸軍省からも同様な警告が発信されている。海軍区と陸軍当局にも伝達せよ。(略) (ビーアド『責任』七〇〇―七〇一頁)


(筆者注)
注1 ハワイ方面陸軍部隊司令官
注2 米統合陸海軍基本戦争計画
注3 太平洋艦隊司令長官
注4 米海軍基本戦争計画

㈠ 資料の意義

この資料はアメリカが、外交交渉から軍事行動へスイッチを切り替えたことを証明するものです。

ビーアド博士は「ルーズベルト大統領とハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官は、太平洋の平和維持を目指す対話が、十一月二十七日で、終焉を迎えたことを確信していた」と指摘しています。

 (ビーアド『責任』七〇一頁、一部改)。
㈡ 解 説

この警告によってハワイの陸海軍の両司令官、ショート中将とキンメル大将は、直ちに警告に従って処置を講じて、その対応を報告しました。

さらにこの警告が発せられた翌二十八日、一部の部隊には極秘の戦闘命令が下され、部隊は即時、軍事行動を開始しています。それが次の資料です。


二「米海兵少佐パトナムの日記」

十一月二十七日以後の「軍事行動の記録」などは、秘中の秘です。アメリカの真珠湾攻撃の調査報告書にも、この日以後、十二月七日(ハワイ時間)の真珠湾攻撃までの軍事行動をあらわす記録などありません。

ところが、二十七日以後にアメリカが執った軍事行動の記録が日本に存在したのです。それが「米海兵少佐パトナムの大鳥島(ウェーキ島)守備中の日記」(日本学協会関西事務所、昭和五十三年刊、以下「パトナム日記」)です。資料を見ていきましょう。


資料「パトナム日記」一
一九四一年十一月二十七日(木曜)

十五時四十五分、第二十一海軍航空隊司令官より、十一月二十八日八時フォード島注に在る航空戦隊司令官の許(もと)に、部下十二機を率ゐて出頭すべき旨、口頭の命令を受く、極秘を命ぜらる。

二十八日(金曜)

命の如くに出頭。航空戦隊司令官より、引率機とともに乗艦せよとの命令を受く。十一時五分乗艦。一機起動機故障の為残留。フォード島より六型戦闘機(VF―6)の一機の提供を受く。全機戦闘用具を満載する。(「パトナム日記」四頁)


注  ハワイ・オアフ島パールハーバー内の小島

㈠ 資料「日記」一の意義

パトナム少佐は、ハル・ノート手交の翌二十七日、口頭による「極秘命令」を受け、二十八日には部下十二機と共に「空母エンタープライズ」に乗艦します(後述)。アメリカは、ハル・ノートによって日本の憤激を誘うと共に、直ちに交戦の態勢を固めたことを証明しています。この極秘命令は、米国指導部の命令に基づくものであり、決して軍の一部のほしいままなる動きなどではなく、米国首脳部の企図を読み取ることが出来る計り知れない価値を持っています。

さらに同日記の三十日の条には、より重大な事実が記されています。


資料「パトナム日記」
十一月三十日(日曜)

五機を残し、他の七機の機首に迷彩を施し番号記入を為す。発動状態も良好なり。機銃に若干の狂ひあるを発見、入念に修正す。一切の点検終了。明日は陸用降着尾輪を附け、迷彩を完了する予定。それが済めば、後は出撃を待つばかり。

海軍航空諸中隊は、日本の艦艇、航空機を発見次第、之を攻撃すべしとの命令を受けて、日中は、連続の対潜水艦哨戒を続行、また朝夕には、二百哩マイルの範囲にて、対潜、対水上艦艇、対空捜索を行ひつつあり。余に対しては何等の指令ないし指示無し。明日に至るも何等の指令無き時は、申請の要あり(「パトナム日記」四頁)


㈡ 資料「日記」二の意義

十一月三十日、「日本の艦艇、航空機を発見次第、之を攻撃すべしとの命令」。この一言の重みは、スチムソン日記と同様の重要さを持っています。

この資料によってアメリカの「開戦布告は十一月三十日」と、先ず断定出来る動かぬ証拠となるのです。

その翌日、十二月一日は、ルーズベルトが予測した日本軍来攻の日です。三十日、入念な準備を整え「後は出撃を待つばかり」と、いつでも日本軍を迎え撃つ準備は出来ているということです。こうして日本軍の迎撃態勢を整えて、日本軍の来攻を待っていたことを証明するものです。


㈢ 解 説

元東京帝国大学教授 平泉澄博士著『悲劇縦走』(皇學館大学出版部、昭和五十五年九月刊、以下、『悲劇縦走』)には「パトナム日記」の由来が、詳細かつ明確に記述されています。

(1)由来(『悲劇縦走』一二九―一三〇頁)

① 日記の原本は、昭和十六年十二月二十三日、日本海軍がウェーキ島占領と同時に押収されて、他の押収物と共に海軍の保管となりました。

② 昭和十七年十一月一日、司城(つかさき)正一氏(当時海軍技術大尉)がウェーキ島に派遣され、日記を発見し、これは重要なりとして全文筆写(英文)した後、翌十八年、三月海軍大臣宛報告の中に言及しました。

③ 海軍技術大尉島田東助氏(司城氏と同窓・同僚)は、帰国間もない司城大尉から日記を借用して、一読してその重要性を即座に理解し、自らも筆写、それを平泉博士へ届けられました(当時、博士は海軍の勅任嘱託)。

④ 博士はそれを門下生に筆写と翻訳を命じ、その筆写と翻訳が成ったのが昭和十八年七月四日、日記原文一冊、訳文一冊等が博士に届けられました。博士は極めて重要な史料の一つとして大切に保管する所となりました。

⑤ ウェーキ島で日本海軍が保管していた手帳の原本は、米軍の同島再占領によってどう処置されたかは不明です。

 一方、写本は、戦災による博士の自宅の焼失、続く戦後の混乱で原文、訳本も一時紛失してしまいましたが、昭和三十四年、訳本の再発見、その後、さらに原本(写本、英文)も再発見されました。

⑥パトナム少佐、ウェーキ島へ

少佐は、完全武装をして部下十二機を率いて「エンタープライス」に乗艦します。向かうところはウェーキ島。その後の日記で、十二月四日にはウェーキ島に上陸したことが分かります。

米国の首脳部は、日本を挑発して日本軍が動いたとなれば長駆して日本の本土を攻撃する意図であった事は、ウェーキ島の戦略的位置を見れば明瞭です。

(2)ウェーキ島の戦略的位置

ハワイより西に進めばウェーキ島が在り、そこよりさらに西北に進めば直ちに東京に迫り得るのです。ハワイからウェーキ島までの距離と、ウェーキ島から東京までの距離とは、大雑把に言えば、約三千二百キロメートル前後と大差はないと言えます。付録に掲載した十二月八日までの「パトナム日記」を見ると、少佐はこの島において、飛行場の整備や爆撃の準備、日本軍からの攻撃の防禦等を行っています。この絶妙な戦略的位置に完全武装してここまで進み、攻防いずれにも即時対応し得る用意をしているのです。それゆえに日本海軍機動部隊は、真珠湾攻撃後にウェーキ島を攻略し占領したのです。


次回は、アメリカの戦闘命令、即ち開戦布告の日がさらに遡ることになる資料を解説します。


〔付 録〕

「米海兵少佐パトナムの大鳥島(ウェーキ島)守備中の日記」

「パトナム日記」は昭和十六年十一月二十七日から十二月二十二日までの記録がありますが、日本軍の真珠湾攻撃の十二月八日までの部分は重要ですので、次にその期間の全文を示します。

一九四一年十一月二十七日(木曜)

十五時四十五分、第二十一海軍航空隊司令官より、十一月二十八日八時フォード島に在る航空戦隊司令官の許(もと)に、部下十二機を率ゐて出頭すべき旨、口頭の命令を受く、極秘を命ぜらる。

二十八日(金曜)

命の如くに出頭。航空戦隊司令官より、引率機と共に乗艦せよとの命令を受く。十一時五分乗艦。一機起動機故障の為残留。フォード島より六型戦闘機(VF―6)の一機の提供を受く。全機戦闘用具を満載する。

二十九日(土曜)

艦に関する諸準備着々完了。他の飛行中隊より精鋭技術将校の参加あり。終日機の点検。上陸前の飛行を禁ず。

三十日(日曜)

五機を残し、他の七機の機首に迷彩を施し番号記入を為す。発動状態も良好なり。機銃に若干の狂ひあるを発見、入念に修正す。一切の点検終了。明日は陸用降着尾輪を附け、迷彩を完了する予定。それが済めば、後は出撃を待つばかり。

海軍航空諸中隊は、日本の艦艇、航空機を発見次第、之を攻撃すべしとの命令を受けて、日中は連続する対潜水艦哨戒を続行、また朝夕には、二百哩(マイル)の範囲にて、対潜、対水上艦艇、対空捜索を行ひつつあり、余に対しては何等の指令ないし指示無し。明日に至るも何等の指令無き時は、申請の要あり。

一九四一年十二月一日(月曜)

機に関する作業、全く完了せり。機体、起動機、機銃、無電機等全て再三点検を為す。上陸準備成る。航空隊司令官より、何等の指示無し。作戦本部は何をしているのだ。未だに何等の指令無し。よし、兎に角上陸、而してその上で適宜の処置を採らむ。

二日(火曜)

一日跳ぶ(日付変更線)

三日(水曜)

全くの瑣末事に一日を終始す。司令官及び参謀と会食。何等の指令無し。上陸せよとの外に何等の作戦命令無し。

四日(木曜)

七時発艦。位置は大鳥島(Weke)より距離二百哩、方位七十度。四型飛行機十二号機を抽出し、之に搭乗して大鳥島に先行、九時十分頃に上空に到着す。(中略)昼食後飛行場の地上諸施設建設に着手。カニンガム司令官の官署を訪問、明日、哨戒飛行を開始する旨、取極をなす。

五日(金曜)

地上施設の作業続行。(中略)午後最初の哨戒飛行を行ふ。他の型の機無き故、戦闘機を以て朝夕の近海哨戒を行ふ。(中略)

六日(土曜)

当地貯蔵の百ポンド爆弾は三号型にして、我が機のラックにはかからざる事を発見、水を満したる爆弾(演習用爆弾)より環帯をはづし、転用す。試験飛行をなし、二弾を投下、まず以て機能は良好なるものの如し。(中略)

七日(日曜)

哨戒を続行。引込滑走路作業を継続。技師等は隠蔽所の作業を続く。

八日(月曜)

悪天候を冒し平常通りの早朝の哨戒を実施し、二機のみ島の上空を飛翔す。離陸の際、真珠湾攻撃の報を聞く。八時三十分着陸。諸工事順調に進行中の模様。能ふ限りの地域を利用して機を散開せしむ。積込員及飛行機整備員は滑走路等の作業に大童(おおわらわ)なり。

兵器格納テント張作業は殊に多忙。退避坑を掘る為に五十人の設営隊員を準備す。重鏨掘(さっくつ)機劇しく運転す。十五時迄にはすべての機は隠蔽所に、すべての人員は退避坑に収容し終る見込なりしに、正確に十二時、十五機の双発陸上重爆の空襲を受く。全くの低空を(約三千呎(フィート)とおもはる)日の光を浴び風を切りつつ、広く浅きV形を更にV形に連ねたる編隊にて来襲す。雲の層より不意に姿を現はす迄は発見すること能はず。艦の直ぐ側に爆弾落下す。最初の空襲警報より爆弾落下まで、約二、三十秒。編隊見事にして爆撃又完全なり。八乃至(ないし)十個の大型爆弾投下。整然たる等間隔にて落下す。宛(さなが)ら我々の頭の真上で将棋盤を叩きて駒をはぢきたるが如し。爆弾による穴の間隔約三、四十ヤード。飛行場地面にありし物は、その九分九厘までを喪失。わずかに残留せし主なるものとては、発電機のみ。八機中四機は直撃弾を被り、他の三機も焼失。而して一機は局部的修理不能なる程度に破壊せられり。飛行場一面は瓦斯(ガス)で充満し、一臺の瓦斯トラック焔上す。少なくとも人員の半数は死傷。十六名死亡と判明、負傷者は悉く一時間以内に病院に収容す。十五時、最後の死者、焼失機より搬出さる。空中にありし四機は攻撃を免れたり。それ等は近距離哨戒飛行中なりしもの、方向を誤り居たること、言ふ迄もなし。


筆者注

以後、手帳には十二月二十二日までの記録があります。真珠湾攻撃後の十二月八日からウェーキ島はほぼ連日、日本軍の猛攻を受けています。少佐は、戦況を的確に把握し、部隊を指揮してウェーキ島を防衛して、日本軍に対して果敢に応戦しています。

十二月二十三日、日本軍のウェーキ島占領によって手帳は日本軍に押収されました。以後の事情は、解説の通りです。