『日本』令和7年8月号
桜の餘香(八)
― 英霊未だ嘗(かつ)て泯(ほろ)びず ―
片山利子/作家
元伊号第三六六潜水艦乗組員、海軍一等兵曹・池田勝武氏の回想によれば、昭和二十一年四月一日、長崎県五島列島のキナイ島九十度(東)十六哩(マイル)(二十五・七五キロ)沖で、米軍の命令により二十四隻の日本軍の潜水艦が処分されました。
乗組員は、各艦に帽振れの訣別をした後、米軍上陸用大型艦の艦底に収容され、戦友でもあった艦の最期を看取ることもできず、全員が手を取り合いながら、号泣して「戦友」の冥福を祈ったのでした。池田氏は、「私は死んだら、伊三六六潜に行くのです」と何度も話されました。潜水艦が潜航中に敵の攻撃をまともに受けてしまったら、乗組員は艦から脱出することはできません。艦と共に沈んで水圧に押しつぶされてしまうか、爆発して粉微塵になってしまうからです。それだけに艦に対する愛情も格別のものがあったのです。
池田氏は、昭和二十年八月十一日、伊三六六潜から発進、散華された回天特別攻撃隊多聞隊の成瀬(なるせ)謙治中尉(海兵七十三期、戦死後少佐)・上西徳英(うえにしのりひで)一等飛行兵曹(甲飛十三期、戦死後少尉)・佐野元(はじめ)一等飛行兵曹(甲飛十三期、戦死後少尉)のエピソードと最後のお別れの様子を亡くなる直前まで滂沱(ぼうだ)の涙をもって話し続けました。靖國神社例大祭には、軍艦旗の上部に「回天特別攻撃隊菊水隊多聞隊」、下部に「伊号第三六六潜水艦鉄鯨会」と記し、若者に旗の四隅を持たせて参拝を続けました。
そのお話は私も繰り返しお聞きしました。池田氏からお聞きしたお話を中心に、この三人の英霊についてお伝えしましょう。池田氏の思いを消さないように。
成瀬中尉は、光基地(山口県光市にあった回天基地)で伊三六六潜からの発進訓練の際、発進後失速してしまいました。回天の発進には、操作と確認の十八の操作を五分程度で正確に行わなくてはなりません。しかし、冷走(エンジン起動の際、点火しないためにほとんど出力がなく走行不能になる)、気筒爆発(エンジン起動時に点火せず、燃焼室に海水の注入ができず、熱で浸食されてしまう)、出力不足(回天は酸素魚雷を改造したものなので、ピストンリングがないため、摩耗による出力低下が起こりやすい)といった故障や事故が発生しやすいのです。成瀬中尉のこの事故も、その一つでした。
この時、潜航中の伊三六六潜には、成瀬艇の状況を知らされてはいませんでした。浮上した際、前方百メートルの海面に回天が浮き沈みしているのを発見、艦長の命令で沈む直前だった回天に艦を近づけると、すぐに池田兵曹が飛び込み、回天をワイヤーで母艦に括り付け、回天に馬乗りになり、ハッチを開けました。成瀬中尉は「ありがとう、お陰で助かった」と言いながらハッチの口から出てきました。その後、池田兵曹が濡れた体をふき着替えているところへ成瀬中尉がやってきて、再び丁寧にお礼を言いました。恐縮して「当たり前のことをしただけです」と答えると、成瀬中尉は、池田兵曹の肩をたたいて「いや、なかなかできんことだ」と笑いながら立ち去っていきました。
八月一日、光基地から出撃した伊三六六潜は、十一日、夕暮れの水平線上に浮かぶマストを発見しました。米軍の大輸送船団でした。すかさず、「潜航急げ!」「魚雷戦用意!」「回天戦用意!」と艦長の声が響き渡ります。艦長は回天戦を決意したのです。司令塔に成瀬中尉を呼ぶと、「輸送船だが、君征くか?」と訊きました。成瀬中尉は決然として「はい、征きます。ぜひ征かせてください。必ず敵を轟沈させます。伊三六六潜の武運長久をお祈りいたします。大変お世話になりました」と答えました。
回天搭乗員五人は、見送る乗員一人一人に「ありがとうございます。みなさんのご武運をお祈りします」と応えながら、艦内の通路を進み回天に乗り込みました。
池田兵曹も嗚咽(おえつ)を堪(こら)えて見送りました。成瀬中尉は「池田兵曹、頑張れよ。世話になった。ありがとう」と最後の声を掛けました。普段と変わらぬ落ち着いた声でした。池田兵曹は、何か言おうとしても涙がこみあげてきて声も出ません。涙を流しながら、唇をぎゅっと噛みしめて敬礼をしました。
搭乗員全員が乗艇し、艦長の「ジャイロ調整」の下令に、母艦と回天のジャイロコンパスの調整が行われました。「一号艇よし! 四号艇よし! 五号艇よし!」
「成瀬、さらば! 一号艇発進!」
「ありがとうございました。天皇陛下万歳!」
成瀬中尉の回天は敵船団めがけて、走り出しました。
二号艇は機械の故障でエンジンがかからず、三号艇はジャイロが故障し、いずれも発進できません。
「四号艇発進用意よし!」「四号艇発進!」
上西一飛曹は「ありがとうございました! 天皇陛下万歳!」と言い残して、成瀬中尉に続きました。
「五号艇発進用意よし!」。「針路方向分かるな!」、艦長の問いに、「分かります」と返事が返ってきました。「五号艇発進!」「天皇陛下万歳!お母さん、さようなら!」。佐野一飛曹の回天も、成瀬中尉、上西一飛曹に続いて敵輸送船団めがけて走って征きました。
数十分後、艦長は「深度十七メートル」と下令、伊三六六潜は十七メートルまで静かに浮上しました。艦長が即座に潜望鏡で周囲を観察したその時、潜望鏡に火柱が三本映りました。続いて、轟音が三回聞こえました。艦長の「三基命中!三隻轟沈!」と叫ぶ声が艦内に響き渡りました。続いて「三軍神に対し、黙祷!」の令に従い、艦内全員で三人の英霊の冥福を祈りました。回天交戦の位置は凡そ北緯一五度五〇分、東経一三五度四〇分、パラオ北方五百浬(かいり)(約九百二十六キロ)。しかし、この船団の詳細も回天三基の戦闘状況も未だ不明です。
成瀬中尉は二十一歳、上西一飛曹・佐野一飛曹は十八歳、池田兵曹は十九歳でした。
艦長・時岡隆美(たかよし)大尉(海兵六十七期)はこの時の思いを次のように詠みました。
回天の 発進の時 ちぎれゆく受話器に残る 君の声はも
海軍少佐・成瀬謙治命のご遺書の一部
古今未曽有の難局打開の捨石たるの喜び、男児の本懐(ほんかい)之(これ)に過ぐるものなし。至誠(しせい)即死生(しせい)殺戦法なり。大君の 御稜威(みいつ)かしこみ 微笑みて 今ぞ散るらん 若櫻花
海軍少尉・上西徳英命の八月十日の絶筆
祖国を既に千浬、南十字を仰ぎつつ、偲ぶは何処(いずこ)、故郷か。想ふは誰か、彼の人か。
勇士陣中(じんちゅう)閑(かん)ありて、雲と波とその世界、歌あり、詩あり、涙あり、
剣の心得、「迷ハズ、惑ハズ、疑ハズ、怯(ひる)マズ」と。
攻撃精神に通ず、剣の道は無我。死とは、無なり。
海軍少尉・佐野元命のご遺書の一部
八月六日父母に先立つは長男として申訳(ママ)なけれども、大君のためなれば何の父母であり、兄弟なるか。胸中に神州の曙を描き、勇んで敵艦船と大和魂との激突を試 みん。実に爽快なり。
八月十一日
一七三〇、敵発見。輸送船団なり。我落ちつきて体当たりを敢行せん。
只、天皇陛下の万歳を叫んで突入あるのみ。さらば 神州に曙来たれ。
七生報国の鉢巻きを締め、祈るは轟沈。
池田氏は何度も、その都度滂沱の涙を以て、語ってくださりました。

「確かに四日後に終戦になるとはだれが思っていようか。もし艦長だけでも知っていたら決して『回天発進』の命令など出さなかったはずだ。深度七十メートルでじっと敵輸送船団の通り過ぎるのを待てばいいのだ。温情のある時岡艦長なら、きっとそうしただろう。
国のためとは言いながら、あと四日、敵輸送船団に遭遇しなければ、彼らも私たち同様に今も元気で生きているかと思うと、一層胸は切なく悲しい思い出に満たされる」。
終戦をどう受け止め、どう行動したかは、人それぞれです。立場にもよります。「死して後已(や)む」という言葉もありますし、終戦を知った後、そう行動した人たちもいます。しかし、池田氏は終戦をこう受け止めたのです。
更に続けて、「現在ある日本の平和は、この回天三勇士をはじめとする多くの陸・海・空将兵の命によってあがなわれたことを忘れてはならない。ただただ君らの勇気には涙あるのみ」と語って下さいました。だからこそ、池田氏は死の約二カ月前、酷暑の八月に、病に侵され衰弱した身で、ご家族の反対を押し切ってまで、横浜のご自宅から、山口県周南市徳山湾口にある大津島の回天記念館の回天烈士の石碑に最後のお参りを敢行されたのです。
そして池田氏の「みたま」はご本人の望まれたように、神式のご葬儀で、伊号第三六六潜水艦のもとに、「故伊号第三六六潜水艦海軍一等兵曹池田勝武命」として旅立たれたのです。