9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年2月号

式子内親王の和歌の魅力       ― 歌道に生きた皇女の清冽なる美学線 ―

山田詩乃武/歌人・文筆家(佐渡出身)


 花は散りてその色となくながむれば
       むなしき空に春雨ぞふる

神韻縹渺(しんいんひょうびょう)、極まれり。この歌に通釈は必要ないであろう。三十一文字(みそひとも)に流れる静謐(せいひつ)な通奏低音が脳裏に木霊(こだま)する。音で例えるならばドビュッシー、あるいはキース・ジャレットの音である。坂本龍一ならばどんな音を紡ぎ出すのだろうか。

この歌は西洋風に言えば形而上的哲学詩である。日本では哲学は、和歌の中に秘かに込められて表現されてきた。さらに、般若心経にある「色即是空 空即是色」の一節を大和言葉で表現するとすればこの歌になるであろうか。

『新古今和歌集』巻第二 春歌下 一四九に置かれているこの歌の作者は式子内親王(しきし)(「しょくし」ともいう)で、平安末期、第七十七代後白河(ごしらかわ)天皇の第三皇女として久安(きゅうあん)五年(一一四九)生誕、十一歳頃から十年間、葵祭(あおいまつり)で知られる賀茂神社に奉仕する斎(いつきのみや)院(神宮の巫女)に卜定(ぼくじょう) され、一般社会とは隔絶した御所の中で斎戒を守って身を清める潔斎の日々を送っていた。

時代は平氏が擡頭した治承(じしょう)三年(一一七九)、式子内親王が三十一歳の時、父後白河院が平清盛によって幽閉され、翌年、弟の以仁王(もちひとおう)が平氏追討を源氏に促す令旨を発し挙兵したが敗れて亡くなった。やがて、平氏も第八十一代安徳(あんとく)天皇とともに滅亡し源氏の時代を迎える。四十二歳頃に出家し五十歳頃から身体の不調 が見られたが後鳥羽(ごとば)院の求めに応じて百首歌を詠んだ。正治(しょうじ)三年(一二〇〇)、三歳の東宮・守もりなり成親王(のちの順徳(じゅんとく)天皇)を猶子(ゆうし) に迎える話が持ち上がったが体調が回復せず、実現しないまま翌年正月二十五日に薨じた。享年五十三。

式子内親王は斎院として生涯、独身を通した。藤原俊成を和歌の師とし、その息子である十三歳年下の定家とも親しく、やがて秘かな恋愛関係にあったとする説も公然化し、のちに世阿弥の娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)による謡曲『定家』などの作品を生んだ。また、浄土宗の宗祖・法然は式子内親王の秘かな思慕の対象であったとする説も生まれた。

式子内親王は、『源氏物語』『伊勢物語』『栄花物語』などの物語類や『古今和歌集』『和漢朗詠集』、白楽天の漢詩などの古典を多数読み込み、本歌取り、本説取りの技法を駆使したものが見出され、生涯四百首ほどの歌を残した。『新古今和歌集』に四十九首の大量入集するなど当代を代表する女流歌人と見做されていた。後鳥羽院は自らの和歌の師でもあった式子内親王を殊勝なる歌人として、


「斎院は殊にもみも(註)みとあるやうに詠まれき」などと賞賛している。

  (註)もみもみ=独創性と技巧を備えた表現

  盃に春の涙をそそぎける
       昔に似たる旅のまとゐに

  この世にはわすれぬ春の面影よ
       おぼろ月夜の花のひかりに

  秋の夜のしづかにくらき窓の雨
       打ちなげかれてひま白むなり


「春の涙」「春の面影」「花のひかり」「窓の雨」などはまさに独創性が赫(かがや)く句(フレーズ)である。

大正期の詩人、萩原朔太郎は「上に才気溌剌(はつらつ)たる理知を研(と)いて、下に火のやうな情熱を燃焼させ、あらゆる技巧の巧緻を藎(つ)くして、内に盛りあがる詩情を包んでゐることである。…… 正に新古今歌風を代表する者と言ふべきである」と評している。「恋歌」を詠わしたら右に出る者はいないと言われるほどの式子内親王であった。


  玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
       忍ぶることの弱りもぞする

〝玉の緒〟は〝命〟のことで、「私の命など絶えるなら絶えてしまえ。生き長らえていると、この恋を秘めておくことができなくなるから」。この歌は『百人一首』八十九番に置かれている「忍ぶ恋」を詠った代表歌として知られる。

『新古今和歌集』第一の才媛と謳われた式子内親王は、和泉式部のように直截(ちょくせつ)的な恋の熱情を詠うのではなく、内に秘めた愛を吟じた。同歌集の中から恋歌の幾つかを並べてみる。


  はかなくて過ぎにし方(かた)を数ふれば
       花に物思ふ春ぞ経にけり

〝尽きぬ哀傷を嘆いた悩ましく情緒深い歌。


  憂きながら人をばえしも忘れねば
       かつ恨みつつ尚ぞ恋しき

諦めようとして諦めきれない、片恋(かたこい)の苦しい思い。


  ほととぎすそのかみ山の旅にして
       ほの語(かたら)ひし空ぞ忘れぬ

夢のような追憶の中に仄かな哀愁が漂う詩情の深い歌。


  忘れてはうち嘆かるる夕(ゆうべ)かな
       我のみ知りて過ぐる月日を

片恋の果敢(はか)なくせつない思い。


  わが恋は知る人もなしせく床の
       涙もらすな黄楊(つげ)の小枕

艶麗(えんれい)でせつない女心。


  はかなくぞ知らぬ命を嘆き来し
       わがかね言(ごと)のかかりける世に

不遇に寂しく終わった女の心情。


次の二首はともに尼院に入った後の詠草。


  暁のゆふつげ鳥ぞあはれなる
       長きねふりを思ふ枕に

  静かなる暁ごとに見わたせば
       まだ深き夜の夢ぞかなしき

幽玄極まる深い哀傷歌。


このような中世を代表する女流歌人・式子内親王を今上天皇の長女、敬宮(としのみや)愛子内親王は令和六年三月、学習院大学を卒業するにあたり『式子内親王とその和歌の研究』と題して卒業論文を執筆された。愛子さまは式子内親王の和歌について、

 「美しい歌ばかりで …… 」

と述べられている。同年一月の歌会始めで

  幾年の難き時代を乗り越えて
       和歌のことばは我に響きぬ

と詠じられ、千年の時を超える伝統のすばらしさに気付かれ和歌の精神を受け継ぎ次の世代に受け渡すことを理解されている聡明な方であることがこの歌から伝わってくる。

また、日本赤十字社への就職に際し、

「皇室の役目の基本は『困難な道を歩まれている方々に心を寄せる』ことでもあると認識するに至りました」

と述べられており、和歌の研究を通して成年皇族の一員としての自覚とともに、あらゆる人の身になって思いやることを学ばれたと拝察したい。