9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年2月号

 美しき未来を
      名越 時正 /元水戸史学会々長

現代日本の悲しむべき争ひは、蓋(けだ)し国家に真の理想の存しないことに基づくであらう。国家に理想のないことは、国民に日本人としての理想も希望もないことを表はすものに他ならない。

しかし、このことは今日未だ深く自覚されるに至つて居ない。或は云ふであらう。戦後日本は平和と民主主義を理想として新しく出発した筈である。今にしてこれを疑ひ、これを捨てるやうなことがあつたとしたら、愈々(いよいよ)混乱を招き共産主義やファシズムへの道を拓くばかりか、戦後十五年、苦難の中に築いた努力を空しくするのではないかと。

或はまたいふであらう。われ〳〵は真の平和と民主主義を理想とするが、そのためには戦争と搾取と貧困の原因である資本主義を倒して社会主義の社会を建設しなければならない。日本人民の理想はこれ以外にないであらうと。

なるほどそれぞれに理想はあり、希望はあるといふことが出来るかもしれない。しかし、これを見ても日本に二つの対立する理想はあつても、「一つの理想」のないことは証明されるではないか。その上、二つの理想さへも、国民の一部にこそあれ、多くの者はいづれの理想ともつかぬものや、理想らしい理想を持たないのが現状ではなからうか。

想ふに民主主義は政治上の制度又は手段としては或る段階において理想とされ得るけれども、人間究極の理想とするには足りないものがある。今日、民主主義を制度上の基盤とする国家は世界の国々の大部分を占めるに至つたが、理念は共通であつても実質は異なり、国家体制や国民の希望はそれぞれ違つて居るではないか。

わが国も明治以来、西洋近代文明を取入れて、本来の国家体制との調和を工夫しながら民主主義の制度を取入れて来たが、戦時体制の強化と共に実質的にかなりの変化を余儀なくされた。その為に、敗戦と共に連合国はポツダム宣言によつてわが国の軍事力と戦時体 制もろ共従来の国家体制を軍国主義と名づけて根こそぎ倒してしまつた。そして占領政策の一環として、国民の自由意志の如何を問はず占領軍の強制と監視のもとに与へられたのがアメリカン・デモクラシーであつた。日本人はこれを忠実に守り、至上の理想として掲げて来たのである。

ところでアメリカが占領政策実施に利用しようとして解放した共産主義者達は、このデモクラシーを利用しながら次第にそれを人民民主主義に塗り替へ、国民の窮乏と占領政策への不満をマルキシズムの旗印の下に結束させ、米軍の占領が解除されるや否や、ソ連、中共の後押しにより反米反戦の闘争を展開するに至つた。

ここにおいて国民の理想は二つに割れ、それぞれアメリカ及びソ連・中共を理想の国家であるかの如く考へて世界の二つの陣営の対立の中に捲き込まれざるを得なくなつたのである。

いづれにせよ、敗戦と占領にもとづく悲劇ではないか。しかし果して日本は、外国から与へられたこの二つの理想の中で二者択一以外の道を求め得ないのだらうか。


日本の真の理想を持たずして外国の理想を借り、しかも互ひに反目し敵視し合つて争ふことがいかに愚劣なことであるかは、今日黙々として言挙げせぬ国民の大部分や、未来を考へる青少年が最もよく知るところである。しかも、思ひを人類の文明に深める人々は資本主義と云ひ社会主義と云ひ、いはゆる近代文明の矛盾と行き詰りに気付いて居るのである。しかもそれは、ヨーロッパにおいて著しい。

たとへばロシアに生れたベルジャーエフ(一八七四~一九四八)のごとき、嘗ては革命運動に挺身しながら、革命の成功後、マルキシズムの虚偽と罪悪をはつきり認識し、マルキシズムはもとより、ファシズムも亦(また)資本主義も全て人間蔑視の立場に立つものであつて、近代文明の下に「人間はまさに人間としての価値を失つた。『人間の姿』は無慙にも破壊された」と絶叫したことは、現代世界へのこの上なき警告であつた。

そして今、文明を唯一絶対のものとして随喜の涙を流しつゝ、たゞこれに遅れることを恥辱とする、日本人ののぼせた頭脳に、冷水を浴びせるごとき警告となるのである。中でも、

現代人はいま、一つの問いをつきつけられている。未来の人間もまた、過去の人間と同様に、人間と呼び得るものか、いなかと。われわれは、文化生活や社会生活のすべての面で、人間が人間でないものに変化してゆく「非人間化」の事実を目のあたりに見ている。そのうちでも特に甚しいのは、道徳意識の非人間化であろう。もはや人間は最高の価値ではない。それどころか、人間は自分の価値をことごとく失ってしまったのである。ことに若いひとたちは、共産主義、ファシズム、民族社会主義、機械、スポーツ等に夢中になって、その結果、人ヒューマニズム間主義に反対するばかりか、「ヒューマニティー人間」そのものにさえ反対している」 (「現代における人間の運命」野口祐訳)
と云ふごときは、今日の日本を指摘するものとさへ思はれるであらう。それは換言すれば、今日の日本人がベルジャーエフの慧眼で見た近代文明下の現代人以外の何者でもなくなつて居るからである。

ベルジャーエフの本心は、「人々すべて、人間を野獣化し、野獣を神化しようとしている。野獣そこのけのあさましいあらそいこそ、現代人のもつともいちじるしい特色」と見て、キリストの教へに基づくヒューマニズムを創造しようとしたのであるが、これに似て必ずしも同じ結論に立たない人物はアレキシス・カレル(一八七三~一九四四)である。

カレルはベルジャーエフと同時代のフランスの生理学者としてノーベル賞を授与された科学者であるが、ルネッサンス以来ヨーロッパが作りあげた近代文明が人間蔑視の文明であると断じた点、ベルジャーエフと判断は全く同様といつてもよい。しかし、カレルの言葉にも玩味すべきものがある。

私たちは今日、身体と魂のそもそもの要求は何ら顧慮せずに、技術の進歩のまにまに、時間の途上を進んでいる。物質の中に浸り切っているのに、それから独立していると信じている。私たちが生き残るためには、捏造した妄想に従ってではなく、事物と私たち自身の構造から要求されるやり方で行動せねばならぬのを私たちは知ろうとしない。この過ちの中に、文明人は数世紀来落ち込んでいるのである。道徳からの解放と聖なるものへの感覚の放棄との歴史は、自然の本質的理法への不服従の歴史と混同している。例えば、利益を、生存の特別な目的として考えることが人間活動の分野を、厚かましくも矮小(わいしょう)にしてしまった。物質的利益を専ら追及するように自分の努力を限定すれば、私たちの人格が小さいものとなってしまうことは必然である。「ホモ・エコノミクス経済人は、自由主義とマルクス主義のこしらえたものであって自然が作ったものではない。人間存在は、たゞ生産したり消費したりするためにばかりつくられているのではない。人間さまは、進化の当初から、美への愛・宗教的感覚・知的好奇心・創造的構造力・犠牲の精神・英雄性等を証拠立てゝ来たのだ。人間を経済的活動に止めることは、それだから、自身の一部を切断することにも等しい。自由主義とマルクス主義は従って両(ふた)つながら、自然の基本的傾向を、犯しているのである。(「生命の知恵」杉靖三郎訳)

たしかに、現代人は経済的物質的幸福の中にしか幸福を味はへなくなつたかの感があるが、それを良いことに、利を以てこの野獣を操らうとする政治家が幅をきかす所に、政治の混乱も人間の貧困も基づいて居る。

ところで、カレルの人間回復の方法はベルジャーエフのやうに宗教的ではない。彼は「社会は、生きている者のみならず、死者によっても構成されている」として過去の偉大なる英雄・哲人・聖者を讃へ、「かゝる人のみが私達の内的生命に、その要求する精神的栄養を齎し得るのである」と道破して居る。

そして家族を祖先とのつながりにおいて重視し、古い史蹟や芸術作品の敬虔な保存を力説する。そして学校も「免状や資格のための悲しむべき工場ではなくして、道徳的・知的・美学的・宗教的教育の竃、殊に男子形成の中心」たらしめようとする。

しかし真の教育は学校のみならず少数のグループによる精神的鍛錬が必要であり、「この身体、この精神を鍛へあげ、全地上を作り直すことが問題である」とし、驚くべき卓見をもつてその道を指し示して居るのである。

西洋文明、即ち今日世界を風靡した近代文明なるものが、その本質において人間の尊厳を無視し、人間を「非人間化」して、「人間の危機」をもたらしてしまつたことを自覚反省し得るものはこの両者に限らない。

しかしそのやうな自覚の声がかの近代文明の本場から起りつゝあるのに、東洋、ことにわが国においては、その近代文明の輸入と模倣にひたすら狂奔するばかりであるのは、一体どういふ心理なのあらうか。


こゝにわれわれは、敗戦によつて失つた最大のものが、その広大な国土でも、その豊富な資源でも、勇敢無比の軍隊でもないことを感ぜざるを得ない。

何とならば日本人は未だに日本人としての誇りと自信を有せず、そのために一致協力することが出来ぬばかりか、自らを卑下し劣等視してひたすら外国文化に眩惑され、その社会に魅力を感じ、その政策に誘惑されて、却つて国内に相反目し相対立しつゝあるからで ある。畢竟(ひっきょう)日本人は自らの心を失ひ魂を喪失したことに外ならない。

敗戦以来既に十五年、産業経済の驚くべき復興、生活水準の飛躍的向上も魂なくして何の繁栄であらう。それは亡国の民と異なるところないのである。国家に理想の無いことも当然のことゝ云ふ外はあるまい。

それならばこゝに祖国の真の姿に悲憤し、又ヨーロッパ近代文明の危機を認識し、祖国を亡国の淵より救ひ、世界の破滅を未然に救はうとするならば一体何を拠り所とすればよいのか。

われわれは改めて明治以来わが国に来り、わが国を愛した異国人の忠告に今日再び耳を貸すべきであらう。グリフィス、ラフカディオ・ハーン、ケーベル、ポンソンビー。これらの人々は一体日本の何処に美はしさを求め、尊敬を払つたのであるか。それは決して ヨーロッパ化した日本、近代化した日本の美でも力でなかつたではないか。

中でも四十年余、アジアを毒しつゝある欧米勢力を痛烈に排斥して、

日本は彼等を模倣してはならぬ。然(しか)らずして今一度貴国自体の中に、貴国の神を発見せねばならぬ。貴国の魂の偉大なる思想、貴国の真の使命の思想を恢復(かいふく)せよ。(「黎明の亜細亜(あじあ)」)
と忠告したフランスの詩人ポール・リシャールの言葉こそ、今日の日本人が深刻に熟思反省すべきところではなからうか。

疾風怒涛のごとき世界の動態に身を置く日本がその真つ唯中に棹(さお)さしつゝ、その握りしめる棹を手離すことなく、内なる日本の本質を自省しその真の使命を自覚するといふことは、たしかに困難なことではある。

一刻一刻情勢は変化し、明日にもいかなる事態が起り現象が現れるか予断の出来ぬとき、それらに心を奪はれることなく、動揺狼狽することなく、自らの進路をあやまたぬことは今日至難であらう。だから、その故にこそわれわれは思索しなければならず、内を省み脚下を照らさねばならないのではないか。

ことに制度政策や作戦謀略や取引流通が一切を支配しがちな今日、そのためにこそ根本に横たはる人間の問題が真剣に考慮されねばならないのではないか。ベルジャーエフやアレキシス・カレルの警告は実にそのためであつた。

しかも、ベルジャーエフの拠り所とするキリスト教はわが国にはその歴史的基盤なく、カレルの描いた理想はヨーロッパにおいてさへ余りにも空想的であつた。彼等の求めて得なかつたもの、それは古く東洋に存し、日本の歴史の中に顕現され、そして未だなほ現実にそれは厳存して居ることではないか。

活眼を開いて日本の歴史を見よう。先人は社会的混乱や腐敗に陥るときに、必ず人間の心を正した。改革の断行に当ると先づ己(おの)れの心を正し、平和を欲するとき又心を正した。己れを正し人を正し国家天下におよばさうとする努力は、自然の理法がそれを教へ、人間の本性がこれを求めたのである。そして特にその著しい努力を捧げた人々が、偉人と仰がれ、先哲先賢と尊ばれて来た。

権力を恣(ほしいまま)にし、武力によつて覇を握り、富と利を貪つた者の誰が後世に美名を残したであらう。偉人と仰がれ先哲先賢と尊ばれる人々はこれらの人と闘ひつゝ苦難の中に道を求め、身を以て道を践み弘めた人々に外ならない。こゝに日本の歴史を貫く純粋の道統が存するのである。

ことに水戸の道統は、それを支へた先人達が、よく日本の道統を継ぎ、学問によつてそれを深め、実践によつてこれを弘めつゝ、時代を貫き幾世代に亘つて鍛へ上げて来たもの、遂には日本をして真の日本の姿を顕現せしめて輝かしい時代を開くに至つた。その求め るところの道、烈公はこれを特筆大書して

天地の大経にして生民の須臾(しゅゆ)も離るべからざるもの也
と断じたのである。

そしてこの世界普遍の大道が日本において古来二千有余年よく歴史を通じて護持され究極の一点において破られなかつた所、日本の道の神聖にして国体の尊厳なる理由、無窮に伝へていよいよその興隆を期したのであつた。云ふ所の究極の一点とは、即ち革命のかつて一度も行はれなかつたこと云ふ迄もない。

しかしながら、このわが国の誇りは、十五年この方、米国の占領時代のその武力と政策により一顧すら与へられず破却され、共産勢力のため革命の達成を妨げる最大の障害として打倒されつゝある。自ら営利と機械のために自己の人間性を蹂躙(じゅうりん)した国々のなすところ、こゝに罪業明かではないか。されば近代文明の危機に臨み、祖国の滅亡を眼前にみようとする時、未来を憂へる真の日本人が、不退転の志を立てゝ進むべきときは今ではないか。 (昭和三十五年十月二十五日)