『日本』令和8年3月号

>三月号巻頭言「匡国の正義」解説

現在、冷戦終結後の世界秩序のみならず、二十世紀以来「普遍的価値」とされてきたものもまた根底より揺らぎを見せて居るやうである。しかし、そのことで一喜一憂するには及ぶまい。

東大における平泉門下の俊秀の一人である小野壽人(ひさと)氏が昭和十九年十月に上梓した本書では、「天下の天下」といふ外来思想が江戸三百年間の咀嚼(そしゃく)・熟成を経て真の道義立国を目指す「一人の天下」といふ日本的理念へと転化し、明治維新の原動力となつたにもかかはらず、その後の西洋思想の奔流により再び抽象的理念である「天下の天下」へと逆転していつた過程を詳細に跡づけて居る。著者はその中で先人の思想に対する徹底せる究明、そして内在的批判に基づく公正なる論断を通じて西洋流民主主義のみならず東洋的民本主義の本質をも剔抉(てきけつ)し、真の日本思想、外国の受け売りでなく自国の歴史と伝統との中より自づと湧き出づるものとの差異を明晰に解き明かすのであるが、ただその本旨はあくまで国民が心を一つにし、国家の本然に復することにより当時日本が直面して居た危殆と混迷とを匡救(きょうきゅう)せんとするにあつた。

本書は六四六頁にわたる大著であるが、この研究の緒に就いたばかりで更なる進展と大成とが待ち望まれて居た。惜しむらくは、著者は原稿を出征前夜に書き上げた後、ただちに戦地に赴き、昭和二十年三月、三十三歳にして北ボルネオ(現マレーシア)の密林に斃たおれたのである。今、その志を継がんとする者、果たして幾人ありや。

(横久保 義洋)