『日本』令和8年3月号
少年少女のために今日という日 (平成二十三年三月十一日)
東日本大震災と原発事故
夏秋正文/佐賀大学医学部元助教授
東日本大震災は平成二十三年三月十一日、十四時四十六分に発生しました。宮城県牡鹿半島の東南東沖を震源とする巨大地震であり、地震の規模はマグニチュード9・0と日本周辺の地震では観測史上最大でした。
地震に伴う津波の直接被害は甚大であり、地震の震源域は広く岩手県沖より茨城県沖まで及び、地震と津波による直接被害により、家屋の倒壊、浸水、大規模火災、ライフラインの寸断が広汎に発生しました。
令和七年三月一日時点での震災による死者、行方不明者は二万二千三百三十二人になり、建築物の全壊と倒壊は四十万戸を超える被害と確認されています。世界銀行の試算では、自然災害による経済的損失としては、史上最大となっています。
この巨大地震とともに想像を絶する巨大津波が押し寄せ、福島第一原子力発電所に予期しない被害が発生しました。
(一) 福島第一原子力発電所の津波被害による電力喪失と作業現場
福島第一原子力発電所に全電力喪失という、経験したことのない突発事故が発生しました。地震当時に稼働していた第1、第2、第3号機は、巨大地震とともに自動停止しましたが、地震発生五十分後には、津波の遡上高は十三メートルから十五メートルにおよび、海水が原子炉建屋(たてや)に流入し、電力源が絶たれる非常事態となりました。電力源が絶たれると、原子炉で燃え続ける核燃料を冷却する水を供給することができない状況となります。原子炉が自動停止しても、核燃料は燃え続けるため蒸気が発生し、やがて原子炉格納容器内の圧力が高まり、格納容器が爆発する危険が高まりました。
この爆発を避けるためには、格納容器内の圧をさげるため蒸気を外に逃がすベントという作業が必要とされます。通常のベント作業は電力源により自動的に弁が開き、容器内の圧が下がるシステムとなっていました。
今回の地震では、電力源が絶たれたため、自動制御システムが作動せず、人の手によるベント作業が必須とされました。放射線が充満する暗闇のなかに突入することは、極めて危険な死を賭けた決死の行動でした。現場の作業責任者は、交代しながら勇気ある作業を行いました。線量計を見ながらの短時間の行動でした。1号機内を熟知した吉田昌郎(まさお)所長は、みずからが果敢なる突入を決行することを決意しました。しかしこの時、危険警告のサインがでました。間一髪にて引き戻されることになります。1、3号機は数回試みたベント作業が、効を奏したと考えられ、格納容器の損壊には至りませんでした。
(二) 原子力発電所吉田昌郎所長の決死の判断と部下との信頼関係
福島第一原発事故を現場で指揮した故吉田昌郎所長は、長く現場の状況を語ることを慎んでおられたが、作家の門田隆将氏は機会を待ち、ようやく吉田所長とのインタビューの内容が『死の淵を見た男』として上梓されました。そのなかで、門田氏は「吉田さんは、最後まで原子力発電に携わる人間としての本義を忘れず、チェルノブイリ事故の十倍規模の被害に至る事態をぎりぎりで回避させ、文字通り、日本を救った男だった」と述べています。
原子炉格納容器の爆発を避けるためには、格納容器の弁を手動で開けて、放射性物質を含む蒸気を排出させるベントという作業が必要とされました。放射線物質が充満する暗闇のなかで、空気ボンベを背負って行う作業は、死を覚悟した空前絶後の行動でした。この決死の作業をだれがするかの判断は、吉田所長の双肩にかかっていました。冷酷なる現場で決断する作業員は、危機を救う使命感が強く、ベント作業を果敢に断行しました。その決死の作業を行った部下たちは、インタビューに応えて次のように述べています。
「吉田さんとなら一緒に死ねると思っていた。所長が吉田さんじゃなかったら、事故の拡大は防げなかったと思う」。部下たちは、「自分の命をかけて放射能汚染された原子炉建屋に突入する時、心が通い合っていない上司の命令では、決死の突入は果たすことはできない」との思いを抱いていた。
吉田所長は、部下が作業から帰ってくると、その度に一人ひとりの手をとって、「よく帰ってきてくれた。ありがとう」と労をねぎらっています。吉田所長の至誠と使命感が、部下によく伝わり、1、3号機の格納容器の圧は下がってきました。ところが2号機に危機的状況が発生しました。2号機のベント操作が行われ一旦圧力が減少しましたが。再び圧力が設計圧の二倍以上に上昇し、吉田所長も絶望し、死を覚悟して、若い人を操作室の現場から安全地帯へ移すことを指示しました。所長自らは現場に最後まで残る覚悟を決めます。
(三)時の総理大臣菅直人首相の胸中
福島第一原子力発電所1、2、3号機の危機的状態のなかにおいて、災害対策本部のある官邸には、逐一原発事故の報告が届いていました。対策本部長の菅(かん)直人首相は、ベント作業が迅速に進まないことに焦燥の念が募らせ、作業現場に直接視察に行くことにしました。
大震災直後では、全体的な大局観のもと指揮すべき立場にあり、官邸を離れる首相の行動には軽率との意見がありました。東京工業大学の理学部出身の菅首相は、原子力発電に関する知識もあり、格納容器損壊が発生すれば、東日本のみならず日本全体が危機的状況になることを憂慮していました。
『死の淵を見た男』には、菅首相の胸中を振り返って、以下のような文があります。「私は事故が起こってから最悪の事態を考えてきました。普通の火力発電でも燃料タンクに火がついたら大変だけど、どこかでは燃え尽きるんだ。そこが原発とは全然違うんです。ある意味では、一定以上危なくなったら逃げたっていい。だけど原発というのは、燃え尽きない。燃え尽きない上に制御する人がいなくなれば、一つアウトになったら全部がアウトになっていくんだからね。つまり福島の十の原子炉と十一の核燃料プールが全部アウトになる」と述べています。
即ち格納容器の爆発は世界に類例がなく、チェルノブイリ原発の何倍もの被害が予測されていた。このような最悪の事態を回避するために、ベント作業と原子炉の冷却作業が間断なく実行されました。
作業員の決死の行動が実を結び、最悪の事態は回避されました。その後、放射線漏洩(ろうえい)による障害の発生が報告され、吉田所長は、悪性疾患の合併により生命を落とされています。
東日本大震災では、地震と津波の直接被害により、多くの被災者が犠牲となっています。震災の被災者に哀悼の意を表しますとともに、生命をかけた原子力作業員の使命感に、深甚の感謝の意を捧げます。



