『日本』令和8年5月号
『梅松論』の楠木正成と足利高氏との提携記事について
堀井純二 /日本文化大學名誉教授 博士(文学)
建武中興(南北朝期)の研究で、『太平記』と共に欠かすことのできないのが『梅松論』である。『太平記』が「宮方深重(みやかたしんちょう)」の書であるのに対し、『梅松論』は足利方の人物により記されたものである。
その『梅松論』において楠木正成の討死について、
最後の行ひが一致してゐるところから、誠に賢才武略の勇士とはこのやうな者をいふのであると、敵も味方も惜しまない人はない。
としてゐる。
『梅松論』には、楠木正成が、足利高氏との提携を主張したとする記述が存在する。それは延元元年(一三三六)正月、一旦京を占領した足利高氏ではあつたが、北畠顕家や楠木正成、新田義貞らの活躍によつて、一月末日に京を追ひ落とされ、遥か九州にまで落ちた時のこととして、
去る春に将軍(足利高氏)と弟の直義が兵庫から九州へ落ち延びたことを聞き、後醍醐天皇は心穏やかに、諸卿は皆、今後は何事も起こらないと安心し喜んだ時に、正成がいふには、義貞を誅伐(ちゅうばつ)して高氏を召し返して、君臣和睦すべきであります。使ひには正成が参りますと申し上げたので、人々は不思議なことをいふものだと嘲笑(ちょうしょう)した時、正成が再び申し上げたことは、天皇が北条氏を滅ぼされたのは高氏の功績であります。義貞が鎌倉を落としたのはその通りではあるが、全国の武士は皆高氏に属してゐます。その証拠には敗れた高氏軍の武士は元より、在京の者までも高氏に従つて遠く九州まで行き、天皇の勝つた軍を棄てました。これで義貞に徳がないことを知るべきであります。人々の心を推察するに、高氏兄弟は西国をまとめて三月中に攻め上つてくるでありませう。その時には防ぐ戦術はありません。天皇にいろいろな考へがあるとしても戦術の方法においては、賤しい正成の申すことに間違ひはありません。今決断すべきでありますと、涙を流したので考へ深い勇士と考へられるのである。
と記され、さらに尼崎に逗留した時の記述として
この事は既に述べたことではあるが、討手として尼崎まで行き、逗留してゐる時に京都へ申します。今度は君の戦は必ず敗北します。人の心でそのことを考へますに、去る元弘の始めに、密かに勅命をうけて俄かに金剛山の城(千早城)に籠つた時、私の考へで国中の人々を恃(たの)んで、籠城を実現出来ました。それは皆心を天皇に寄せてゐたからでした。今度は正成は和泉、河内両国の守護として勅命をうけて軍勢を招集してゐるに拘はらず、親類や一族も困つたことといふ姿勢を示します。ましてや国人の人々ではなほさらです。これは天下の人々が君に背(そむ)いたことの証明です。このやうな状況では正成が存命しても無意味です。真先に命を落とすべきことを決めましたと申しました。
と、曾ては後醍醐天皇に依り付いてゐた天命が、離れてしまつたとする記述である。その天命が離れたことが、正成が討死を覚悟した理由であるとするのである。その討死の覚悟が、その討死を惜しんだ前提となる理由である「最後が一致してゐる」といふことにある。
『梅松論』記述の当否
この楠木正成が新田義貞を討伐して、足利高氏と和睦するべしと提議したとするのは、この『梅松論』だけの主張であり、他にそれを証拠立てるものは存在しない。それ故にこの記述について、嘗ては疑問が投げかけられてきた。その第一は、『大日本史』列伝に記された「楠正成伝」である。
「楠正成伝」は正成の自害について述べた後に、「梅松論曰く」と正成の上奏及び尼崎よりの伝言を記し、それに註記して、
按ずるに梅松論は足利氏家臣の撰ぶ所、故に正成を援(たす)けて、以て尊氏の悪を蔽(おお)はんとす。信ずるに足らざるなり。今併(あ)はせ記し以て其の誣妄(ぶもう)を弁ず。
と論評し、その記事は「誣妄」であると断じてゐるのである。
また『新校群書類従』第十六巻「解題」には、
尊氏を称して時に大御所などといひ、甚だしい舞文(ぶぶん)をも敢てしてゐる。
として、
特に延元元年楠正成湊川の戦に討死した条に、正成の奏聞(そうもん)として、(高氏との同盟を奏上した記事を引用して)とある如きは、その筆固(もと)より蔽ふべくもないが、是れ実は足利氏の宿敵たる新田氏に対して義貞を抑へ、尊氏を揚げんが為の舞文たるや言ふまでもなく、弊箒集(へいそうしゅう)に本書の尊氏に於けるは恰(あたか)も吾妻鏡の頼朝に於けるが如しとあるは適評である。
と、此の正成の奏聞は「義貞を抑へ、尊氏を揚げんが為の舞文」であると断じたのである。
このやうな戦前の見方に対し、戦後の学界においては高柳光壽(みつとし)氏の『足利尊氏』を始めとして、林屋辰三郎氏、植村清二氏、佐藤進一氏、森田康之助氏から、最近の森茂暁(しげあき)氏や生駒孝臣(いこまたかおみ)氏に至るまで、一々の所論をあげることはしないが、すべて『梅松論』の記事を事実として論じてゐるのである。
その中で唯一この『梅松論』の記述を否定してゐるのが荒川久壽男(くすお)氏である。氏の所論は昭和三十六年三月発行の茨城県立水戸第一高等学校史学会『史窓』十三号に掲載され、その後、平成二十八年に発行された氏の遺稿集である『読史余滴』に収録されたものであり、題して「建武中興当時の思想界絵図」といふ。
荒川久壽男氏所論の概要
荒川氏は、建武中興時の政治思想について、『神皇正統記』に基づいて
(建武中興は)国のはじめ以来皇統一系にして断絶することなく政をしろしめすことこそ政治の原理として掲げられたものであつた。
とし、それはシナの「易姓革命的有徳作王説とは、全く次元を異にするものであつた」が、「建武中興をくつがヘした足利尊氏の依つて立つ最大の政治的イデオロギーは、まさにこの有徳作王説による天命交代の思想に外ならなかつた」として、以下「天命思想」表出の事項を検証していくのである。
荒川氏はまづ『梅松論』の基調となる「政治原理は天命論なのであり、天命を得て栄え、天命に背けば亡ぶといふ政権授受は天命の道理によるものであつた」とする部分を批評。その天命思想といふのは「シナ的有徳作王的革命の理論をその根本構造としてゐるものである」として、「梅松論が足利の反逆を正当化する理論的根拠として、神皇正統記に現れた日本的政治原理とは全く反対なシナ的有徳作王的民本革命思想をとつてゐることは、もはやこゝに明白なことではないか」と結論付けるのである。
この結論を導き出す時に用ゐられてゐるのが、かの正成の奏上とされる高氏との和睦論である。荒川氏は、
ここにまことに奇怪な一節がある。それは延元元年、尊氏兄弟九州より西上(東上の誤り)して禁闕(きんけつ)を犯さんとするに当り、楠公湊川に赴いてこれを防ぐ時の、楠公の心事を記して、梅松論の一説まことに奇怪をきはめるのである
として、かの文を引用し、
もとよりこれが楠公の心事であるとは到底考へられないことである。
と述べ、さらに尼崎よりの奏上をも引用し、それが「シナ的有徳作王的革命の理論をその根本構造として
ゐる」根拠であるとするのである。
荒川氏は、次に吉田定房の三宝院文書中の上奏文を検討し、それが「その根底をシナ的天命交代の思想においてゐる」ことを明らかにし、そこに見られる「草創」の語にも「革命草創の意が含まれてゐる」とし、当時このやうな天命革命思想が流布してゐたことを
『太平記』の記事からも証明しながら、その「草創」には「シナ的天命交代の意味」とは別に、「日本的な維新草創の意味がある」とし、
太平記の作者用ふる草創の語の中には、当時慣行の革命草創の意味が含まれてゐたにせよ、楠公の心事においては断じて維新草創の意味であつたとすべきである。さうでないと楠公の楠公たる所以が全く見失はれ、その果ては前出梅松論描くがごとき天道(命カ)革命思想を奉ずる奇怪なる楠公像となつてしまふからである。
と述べられるのである。
荒川氏はさらに当時の仏教界の思想にも言及し、中巌(ちゅうがん)円月が高氏の反逆を革命と称した例や、夢窓疎石の高氏讃美の例を挙げて、高氏の叛乱について、『太平記』の多々良浜(たたらはま)合戦の記述により、その思想は「因果応報、前生後生の輪廻観」であり、「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の思想であつたことを述べ、楠公はそれに対して「七たびまでもこの人間界に転生(てんしょう)するを願ひ、天神仏果の浄土界に転生するを望まなかつた」のであり、「中世的仏教的世界観を超えた」ものであり「神皇正統記の思想的旗幟(きし)と密着する。こヽに楠公の時代を超えた性格が存在する」とし、「これこそ建武中興の大業を支へた世界観である」とし、
この世界観に基くところ、梅松論的または吉田定房的、中巌円月的な湯武(とうぶ)順天革命思想とは確然たる一線が引かれることを考へねばならぬ。
と、結論されるのである。
荒川氏は、上述のやうに建武中興時の政治思想としてシナ的天命思想、すなはち有徳作王説の存在を指摘されてゐるのである。
『梅松論』と天命思想
改めて『梅松論』には天命思想(有徳作王説)に基づく記述が、どうなされてゐるかを見ていきたい。
『梅松論』において「天命」の語が最初に出てくるのは、承久の変における北条泰時と義時の問答である。泰時が出陣に当つて「国は皆王土でないといふことはない。さうであるから和漢ともに勅命に背く者で安全に一生を送ることが出来た者はない」と述べ、「天命は逃れられないことであるから、合戦を止め、降参するべきである」としきりに諌めたが、義時は「それは大切なことである。が、それは君主の政治が正しく行はれてゐる時のことである」と述べ、
最近の全国の政治は、君の政治は古(いにしえ)の政治とは違つて実を失つてゐる。それは朝に勅命があつて夕に改められる。また一か所に数人を任命されるので、日本中穏やかな所はない。災ひの及ばないところは幕府の処理である。治乱は水火の戦と同じであり、天下を静謐(せいひつ)にするためには、天道に任せて合戦するべきである。
とする。これは後鳥羽上皇の政治が「実をうしな」つたものであり、幕府の政治こそが実にかなふ政治であり、「天道」に従つたものであるとするのであり、これは有徳思想そのものといつてよい。
『梅松論』は、次いで皇位、将軍、執権の継承順を記し、執権について「天下は悉(ことごと)く治り、代々目出度くなつたのである」と執権政治が順調に行はれてきたことを述べる。ところが高時の時代となり「関東の政治は間違つてゐるといふ声が沢山聞こえるやうになつた」と、高時に至り執権政治に問題が生じたとし、
特に御在位の事を間違へた為に争ひが起ることとなつた。それは天命に背いたためである。
と、皇位継承を間違へたとし、それを「天命に背いたこと」と述べ、それは伏見・後伏見天皇が後嵯峨天皇の御遺勅に反して即位されたことであり、
此の二代は幕府が間違つた判断をして即位せしめたたためである。
と、幕府の間違つた処置で即位されたものと断じるのである。そして、その後の皇位継承についても、
このやうに後嵯峨院の御遺勅に相違して、大覚寺統と持明院統と交替して即位されることになつたのは、鎌倉幕府が沙汰することになつたからであり、どうして天命に背かないといへようかと、人々の耳目を驚かさないことはなかつた。
と述べるのである。さらに吉田定房の言の中にも「後さが(嵯峨)の院の鏡のやうに明かな遺勅を無視することは、天命はどうであらうか」とあり、これらの「天命」は後嵯峨天皇の御遺勅を指したものであり、所謂(いわゆ)る天命思想とはいへないであらう。しかしながら、後述するところからすればこの「天命」も「天の命」と解せなくもないのであり、後嵯峨天皇の御遺勅を天の命と一体化させたものとしてよいのかもしれない。
それはさて置き、続いて元弘の変により、後醍醐天皇が隠岐へ遷幸されたことを記した部分では、崇徳(すとく)上皇の讃岐遷幸、後鳥羽上皇の隠岐遷幸は「今度のことと比べることは出来ない」と、崇徳上皇の場合は兄弟争ひから「後白川(河)院のお考へで決定された」ものであり、後鳥羽上皇の場合も
忠が有り科(とが)がない鎌倉三代の将軍家の遺跡を滅ぼさうとのお考へがあり、北条義時を攻められたのであり、これは天道の与へない理論であるからついに後鳥羽上皇を隠岐へ遷し奉ることになつた。
とするが、ここには「天道の与へない理」とあり、徳に外れた行為の為に隠岐国への遷幸となつたと、有徳思想が垣間見られるのである。しかもそれに続けて、
さうはいつても武家はなほ天命を恐れて、御孫の後堀川(河)天皇を御位に付け奉つたのである。神妙な計らひであると人々は話した。
と記すのである。この部分の「天命」は「天(帝)の命」の意であることはいふまでもないであらう。
そして後醍醐天皇の隠岐遷幸については、
今度は後嵯峨院の御遺勅を破つて、このやうな行ひに至つたことは、天命も考へられないことである。どのやうになるのであらうか。
と、幕府の行為は天命に背いた行為であつたと述べるのである。
次いで後醍醐天皇の隠岐脱出の記述においては、
佐々木富士名三郎左衛門尉と云ふ者、常に龍顔に近侍し奉つてをり綸旨に応じたのであるが、天が授ける心で有つたのか、君をぬすみ出し奉つた。
と記してゐるが、この「天」は「天帝」の「天」と見てよいであらう。
さらに佐々木清高が船上山攻撃に失敗し、若狭方面へ逃れたことを記して、
既に此の事が風聞(ふうぶん)されていく間、山陽山陰十六ヶ国の軍兵、悉く君の御方に参る。これは天が与へられたことと考へられる。
としてゐる。この「天」が「天帝」であることはいふまで無い。『梅松論』は続けて越王勾践(こうせん)と呉王夫差(ふさ)の故事を記し、
今、天皇が隠岐国を出られたことは臣の謀によるものではない、ただ天が与へられたことである。
と、「天」の高配によるものとしてゐるのである。このやうな後醍醐天皇に関する記述において「天」「天命」の語が用ゐられてゐるのは、後醍醐天皇に徳があり、天が天皇を王として承認してゐるとする有徳作王説に基づいて記されてゐるといつてよいであらう。
ところが、『梅松論』はその後、足利高氏について名越(なごえ)高家の討死を記した後に、
そもそも将軍(高氏)は関東を誅伐する事、先祖以来の念願であり、心の底に持つてをられた上、細川阿波守和氏、上杉伊豆守重能が、予(あらかじ)め潜かに綸旨(りんじ)を賜はつて、今度御上洛の時、近江国鏡の駅で披露され、既に勅命を蒙られたのでありますから、時が時でありますから、これは天命の授ける所です。急ぎ決心されるべきを諌め申された処、
と、高氏の挙兵を「天命の授ける所」とするのである。
『梅松論』はさらに鎌倉滅亡を記す中で、
峯つゞきに寄手の大勢が陣を構へ、麓(ふもと)に下りてきて、方々の在家に火を放つたが、どの方の風も皆鎌倉に吹いてきて、残る所なく焼きはらはれた。これは天命に背いた道理によることであることが明らかである。
と、鎌倉幕府が天命に背くことをした故に「どの方の風も皆鎌倉に吹いてきて、残る所なく焼きはらはれた」ことになつたとするのである。つまり鎌倉幕府の滅亡は天命が革(あらた)まつたことによるものとするのである。
『梅松論』は、建武中興について
保元、平治、治承より以来、武家の処置として政務を恣(ほしいまま)にしてきたけれども、元弘三年の今は天下一統に成つたことこそめづらしいことである。
と述べ、その政治は、
君の御聖断は延喜、天暦の昔の姿に戻り、武家は安定し、家並みは立ち並び、諸国に国司守護を定められ、卿相雲客(けいしょううんかく)、皆それぞれが位階に登られることになつた姿は、実に目出度い善政である。
と讃へるのである。
ところがそれに続けて、正成らの傍若無人の振舞ひのこと、雑訴決断所や記録所・侍所・武者所について述べた後、後醍醐天皇に対する批判ともとれる、
古の興廃を改めて、今の例は昔の新儀である、朕の新儀は未来の先例となるものであるとして、新たな勅裁をいろいろ出された。
と記し、一転して高氏が武蔵、相模などの守に任じられたことを記し、成良(なりよし)
親王の関東下向を述べ、
下御所左馬頭(さまのかみ)殿(足利直義(ただよし))が供奉(ぐぶ)されたから、東八ヶ国の輩(ともがら)はほぼ励まし合つて下向した。
と述べ、「太守(直義)がをられるので、庶民は安堵のおもひをした」と記し、都の政治は朝令暮改であることを記し、以後公武の対立から護良(もりよし)親王の鎌倉幽閉を述べ、護良親王の言として、
武家よりも君のうらめしく思ふ
と述べられたと記して、天皇を批判し、「かうして建武元年も暮れ、二年になると、天下はますます騒々しくなつた」として、北条時行の乱と足利高氏による平定とを記すの
であるが、北条時行の乱について、
七月の末から八月十九日に至るまでの廿日(はつか)余り、彼の相模次郎が、再び父祖の旧里に立ち帰つたといふものの、しばらくして没落したのはかはいさう(可哀想)なことであつた。鎌倉に打ち入つた人々の中に嘗て補佐した古老の人もなく、大将である相模次郎も幼稚である。大仏(おさらぎ)、極楽寺、名越の子孫は、寺々で僧喝食(かつじき)になつていのちを助かつた人々は、急に還俗したといつても、名の知られた人はなく人の道に背く規律の無い人々の集まりであり、手柄を立てることもないのであり、まことに天命に背く故であると思はれる。
と記し、北条時行の行動は「天命にそむく」ものであつたが故に平定されてしまつたと述べるのである。そして足利兄弟(高氏、直義)については、
その内に将軍御兄弟は鎌倉に打ち入り、二階堂の別当の屋敷に居られたが、京都より従つた者は勲功の賞を戴くことを喜び、また北条高時に味方した人々は、死罪や流刑を許された所から、先非(せんぴ)を悔いてどうにかして忠節を致さうと思はない者はなく、京にゐる人々は、親類を使者として北条時行誅伐を祝つた。
と、人々がその行為を称賛したと述べるのであるが、これは足利兄弟が有徳であることを述べたものであり、以後の記述の伏線となるものである。
そして高氏の西上の記述では、
将軍の軍勢には関東の八ヶ国と東海道の輩が一人も残ることなく属したので、美濃、近江に来た頃には、軍勢は山野村里に充満して、人馬は足を立てる所がなくなつた。
と、人々が高氏に属したことを述べるのである。
そしてまた九州に逃れた時のこととして、
香椎宮(かしいぐう)の前を通られた所、神人(じにん)等が杉の枝を折り持ちていふには、敵は皆笹の葉を笠印に付けてゐます。これは御方の笠印となりますといつて、両大将を始め軍勢の笠印に付させた。奇瑞であり、誠に目出度いことに見えた。殊(こと)に当社は新羅征伐の昔、神功皇后が椎の木に手をふれられたことにより、香ばしくなつた故に香椎宮といふのである。そのために当社の椎の木を神躰(しんたい)とし、杉の木を以て御宝とするのである。ところが浄衣(じょうえ)を着た老翁が、直ぐに将軍の鎧の袖に杉の葉をさしたので、白い刀を与へられた。後に尋ねられた神人等は、知らないといつたので、是は神の御加護であり、化人を遣されたものかと頼もしく思はれたので、軍勢は勇み立つた。
と、香椎宮の神の御加護のことを記してゐるが、これは神が高氏の有徳を認め、力を貸されたとするものであり、天命思想の表現の一つといつてよい。
さらに九州からの東上を記した所でも、満月に足利の紋所が懸つたことや、九州滞在中の種々の奇瑞を記してゐるが、これらすべては天命思想に基づくところの祥瑞であり、高氏が天下を掌握する運命にあることを証するために記されたものといつてよいであらう。そしてその極みが第一節に記した楠木正成の言である。この言については再説はしないが、明らかに天命思想、有徳作王説により記されたものである。
『梅松論』はその後、金ヶ崎城の陥落までを記し、その後に夢窓疎石による高氏・直義についての論評を記してゐる。それは「両将の御徳を条々褒美」したものであり、天命が足利兄弟に下つたものであることを証するためのもの、言葉を換へていへば高氏の政権掌握を正当化するためのものである。
をはりに
このやうに、『梅松論』はシナの天命思想に基づいて高氏の天下統治を正当化するものであり、楠木正成の言辞は、その証明の為のものであつたといつてよい。その為に『大日本史』「楠正成伝」は、これを否定し、戦前においても『新校群書類従』の解説の如く、否定してゐたのであるが、戦後においては、この言辞を事実として来てゐるのである。その中において唯一、荒川久壽男氏のみがこれを否定されてゐるのである。
『梅松論』が楠木正成に対して好意的な記述をしてゐることは間違ひがなく、「最後の振舞が一致してゐるところから、誠に賢才武略の勇士とはこのやうな者のことをいふのであると、敵も味方も惜しまない人はなかつた」と讃へるのであるが、その「最後の振舞が一致してゐるところから」の内容が、尼崎から京都に申し送つたといふ「正成が生きてゐる必要はない。真つ先に命を落とすことを宣言した」ことに対応するものであることである。しかし、この言辞は荒川氏の指摘されるやうに、天命革命思想に基づくものであり、これを真に楠公の言辞と考へることは少なからず無理があると思はれるのである。すなはちこの『梅松論』の記述は、楠公を利用して、高氏の幕府開設を正当化しようとしたものと見てよいものである。
すなはち戦後の『梅松論』を活用した楠公像の構築は、真の楠公像とは程遠いものといへるのである。