9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年5月号

  物語水戸学(十二) ― 水戸学の真価 ―    
      梶山孝夫/水戸史学研究会代表理事 博士(文学)

尊王攘夷

これまで十一回にわたって水戸学を考えてきましたが、いよいよまとめの回となりました。まずは尊王攘夷(そんのうじょうい)から考えてみましょう。この言葉は水戸学が生み出したものです。尊王は王(天子、天皇)を尊ぶこと、攘夷は危害を及ぼす外からの勢力を追い払うことで、それぞれ別個の意味合いを持っています。言葉そのものは古くからありますが、両者を合体(がったい)させて新たな意味を付加したのが、水戸学というわけです。

長州(ちょうしゅう)(山口県)の吉田松陰(よしだしょういん)は、水戸に遊学して会沢正志斎(せいしさい)や豊田天功(てんこう)に教えを受けて、わが国の国体の尊さを自覚しましたが、その松陰はこの言葉に注目して国学と同じであると述べています。松陰は水戸学や国学の精神を自(みずか)らの学問として、尊王攘夷の実践に努めたのです。

ところで、尊王は光圀(みつくに)公以来のことですが、それは『大日本史(だいにほんし)』の編纂(へんさん)を通じて、深化継承されてきたものです。また攘夷は欧米のアジア侵略の余波がわが国へ及んできたことによって醸成(じょうせい)されたものです。この尊王攘夷は水戸学の哲理ともいうべきものであり、それに実践がともなって、幕末の動乱の中で闇夜(やみよ)を照らす灯火(ともしび)の役割を果たしたといえるのです。

松陰と同様に水戸に遊学した久留米(くるめ)の真木和泉守(まきいずみのかみ)は、『大日本史』は「恐ろしい」と述べました。それは『大日本史』の人物評価、列伝(れつでん)のどこに収めるかという部分けが、国家(国体)に反する行為を重大視したからです。和泉守は列伝のどこに分類されるかということを恐れ、自らの行動の拠り所とするのです。この一言は、みごとに水戸学の真髄を捉(とら)えているといってよいでしょう。


建武の中興

わが国の歴史上最も重要な出来事のひとつが「建武中興(けんむのちゅうこう)」です。それは後醍醐(ごだいご)天皇の理想の実現であったのですが、そこに光圀(みつくに)公が注目したのは、建武の中興がわが国の国体を明らかにする重要事であったからです。ですから、不幸にして南北に朝廷が分かれた後は、後醍醐天皇の理想を受け継ぐ南朝を正統と考えたわけです。そして、それが後世に大きな影響をもたらしたのです。

その大きな影響のひとつが斉昭(なりあき)公の実践です。斉昭公が藤原藤房(ふじふさ)公と楠正成(くすのきまさしげ)公を称えたことはすでにふれましたが、公を支えた藤田東湖(とうこ)らとともに建武の中興を回顧することが、水戸学の根底を築きました。もう少し具体例を追加しましょう。

楠正成公の五百年祭に当たり、斉昭公は五百年後の今も臣下の中の臣下としての正成公と友情を育(はぐく)みたいとの思いを和歌に託しています。また東湖は後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)親王の五百年祭に当って、愚かな身分の自分でも古(いにしえ)に生まれていたならば、親王のお役に立ちたいものだとの和歌を詠(よ)んでいます。さらに会沢正志斎は正成公の忌日(きにち)(五月二十五日)の意義を説き、門下の藤田幽谷、吉田活堂(かつどう)らは南朝の人々の歌集である『新葉和歌集(しんようわかしゅう)』を尊んでいます。

また、斉昭公の実践は、弘道館に「大和(やまと)の道が要(かなめ)ですから踏み違(たが)えてはなりません」との意を込めた歌碑を建立(こんりゅう)したことにも表われています。


光圀公の本願

水戸学の源泉は光圀公にありますから、もう一度光圀公を振り返って本源を確認してみましょう。光圀公は生前に「梅里先生碑文(ばいりせんせいひぶん)」という文章を書いています。三百字に満たない文章ですけれども、自伝ともいうべきものです。それは人生観を表明したものでもあるのですが、その中に生涯の最も重要な目標が書かれています。

すでにふれたことですが、歴史書を編纂(へんさん)しようとして各地に史料を求めたことはもとより記されています。そして正確な史実を集めて疑問を解決しました。とりわけ南北朝時代の皇統(こうとう)の正閏(せいじゅん)、すなわち南朝の正統を認めたことと、歴史上の人物の是非(ぜひ)を明らかにしたことです。これは光圀公が歴史上に残した最も大きな業績といえるものですが、互いに密接に関連しています。

ここでは後者即ち、人物の判断についてもう少し解説しておきましょう。平安時代の終わり頃に平治(へいじ)の乱(らん)が起りましたが、その時、闘ったのは源義朝(みなもとのよしとも)と平清盛(たいらのきよもり)です。義朝は上皇、天皇を幽閉しましたが、清盛が救出します。その結果、清盛が勝利して平家全盛の時代へとつながっていきますが、この義朝を列伝(れつでん)のどこに分類するかが、大きな問題となりました。それは、義朝が鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)の父だったからです。

江戸幕府は頼朝の幕府を受け継ぐことを念頭に置いていましたので、義朝については慎重な扱いをせざるをえなかったのです。史臣の間には様々な議論がありましたが、結局、義朝は当初の案の通り叛臣伝(はんしんでん)に収められました。叛臣は謀反人(むほんにん)のことです。義朝は天皇に反旗を翻(ひるがえ)したというので、謀反人としての扱いになったのです。

このような判断が南北朝時代の武士についても同様であったことは、楠正成公の顕彰によっても知られます。先に述べた真木和泉守の「大日本史恐ろしく候(そうろう)」という言葉は、この人物の是非を明らかにすることによるといえるでしょう。


王政復古

二百五十年を超える長きにわたった江戸幕府は、十五代の将軍をもって終わりますが、最後の将軍が徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公です。慶喜公は斉昭公の子息ですから、水戸家の教えを守り実践したに違いありません。光圀公の次の言葉を思い起こしてください。

「わが主君は天子(てんし)なり。今将軍は我が宗室なり。〔宗室とは親類頭(がしら也〕。あしく了簡(りょうけん)仕(つかまり)、取違へ申(もうす)まじき由」我々の主人は、天子様です。今の将軍家は親類がしらですから、これを取り違えてはなりません。

ここに光圀公の尊王心(そんのうしん)をうかがうことができますが、これをふまえて斉昭公は「決して朝廷に弓を引いてはなりません」と慶喜公に教えていました。慶喜公がこれを実践したことはその回想からも知られ、大政を朝廷に奉還(ほうかん)した時に、その思いを込めた和歌を詠んでいます。

「山桜さきもさかずも大君の春の心に我はまかせん」山桜が咲くのも咲かないのも、天子の御心(みこころ)にお任せいたします。

慶喜公は自らの身の上を山桜になぞらえて、天子(天皇)にお預けしますというのです。

後年のことですが、明治天皇は東京小梅(こうめ)の水戸邸を訪れて、

「はなぐは(わ)し桜もあれど此(この)やどの世々のこころを我は問(と)ひけり」、美しい桜も咲いていますが、私はもっとかぐわしい水戸家代々の思いを聞きたいのですとの意を和歌に込められています。

こうしてみますと、明治天皇と慶喜公の思いはみごとに対応し、調和しています。ここに光圀公の思いは斉昭公をへて慶喜公に伝わり、光圀公の本願の達成をみることができます。換言しますと、水戸学は王政復古(おうせいふくこ) として達成されたといえるでしょうし、そこに水戸学の真価が表われているのです。


『大日本史』の完成

その後、『大日本史』の編纂はどうなったのでしょうか。編纂は幕末の動乱期にも継続されていました。中心となったのは、幽谷門下の豊田天功です。天功は彰考館(しょうこうかん)総裁として鋭意編纂に力を尽くし、部門別の歴史である志類(しるい)の完成に努めました。

やがて明治期になりますと、水戸藩はなくなりましたが、水戸家では編纂を継続し、天功門下の栗田寛(くりたひろし)博士がその任に当りました。明治末期に、栗田博士の子息の勤氏(いそし)が完成した『大日本史』を朝廷に献上して、光圀公以来実に二百五十年を経て編纂は終了するのです。

それは先人から学び得たことが、歴史書を編纂しようとする史家たちの熱烈な思いを育(はぐく)み、また祖先から子孫へ、親から子へ、先輩から後輩へと継承された事業だったわけです。まさしく「人能(よく)道を弘(ひろ)める也」の具現(ぐげん)といってよいものでしょう。彰往考来(しょうおうこうらい)、歴史から学ぶことの大切さを、心から思わないわけにはいきません。