『日本』令和8年6月号

六月号巻頭言「後醍醐天皇御製」解説
延元元年(一三三六)十二月、花山院を脱出された後醍醐天皇は、延元四年八月に崩御されるまで、足掛け四年の間、吉野の行宮(あんぐう)に於いて過ごされた。
この御製には「吉野の行宮にて、うへのをのこども題をさぐりて、哥(うた)読み侍りける次に、五月雨(さみだれ)といふ事をよませ給ふける」の題詞の下に詠まれたものであり、吉野に於ける三度の梅雨の時期の何れかに詠まれたものであることが明らかである。
この御製について平泉澄博士は『少年日本史』(『物語日本史』)「五二 吉野五十七年(一)」に於いて、後村上天皇や長慶天皇の御製などと共に示されて「何れも京都を都として、はやくそこへ帰りたいと深く御希望になりながら、それがおできにならないで、山の中に侘(わび)しい月日を送らせ給うたのでありました」と記されてゐる。
この御製は、表面的な意味では、梅雨の明けることを望まれたものではあるが、梅雨空に事寄せて、京都回復が実現しない現状を詠まれたものとみてよい。殊に延元三年は、五月に北畠顕家が討死した時であり、京都回復の願ひが遠のいた時期である。まさに「雲はれぬ」時であるところから詠まれたものであつたのである。 (堀井純二)



