9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年6月号

真の日本人、三島由紀夫氏の遺したもの(二)― 終はりを慎むを忽(ゆるが)せにせず ―

小松宏起  /民間会社元米国駐在員


義挙だつた満洲事変

前回は、「大東亜戦争の敗因は文明開化にある」といふ三島氏の言葉を確かめるために、大正以降の支那大陸における日本人の行動を見て来た。その中でわかつたことは明治維新から僅(わず)か六十年にして、日本人から「士道」が失はれてしまつたことであるが、今回はそのことがやがては大東亜戦争の開戦と敗戦の原因になつていくことを見ていく。

また、一般的には日本人の心から「士道」が失はれて行く中で「五族協和」「王道楽土」(注1)の理想を掲げ、満洲国建国といふ偉業をなした石原莞爾中佐(満洲国建国当時の階級)と板垣征四郎大佐(同)の足跡をたどり、二人の中に存在した「士道」は江戸時代の武士の家庭教育によつて形成されたことも確認する。

まづ、満洲事変(昭和六年=一九三一)が起きた背景について振り返つてみたい。

南京事件(一九二七年)以後、蒋介石率ゐる北伐軍が英米の支援を受け、日本を標的にして排除しようとしたが、その脅威は満洲にまで及んできたことは前回で述べた。

当時の満洲は、父親の張作霖を関東軍に謀殺された恨みを抱いてゐた軍閥、張学良によつて治められてゐたが、張学良は蒋介石と手を結んで満洲は中華民国の一部であると主張し、日本が清朝と結んだ国際法で保護されてゐる条約の一方的破棄を宣言した。もともと蒋介石自身は満洲は中華民国の一部だとは考へてゐなかつたが、張学良は、さらに日本製品のボイコットを煽動するなどは序の口で、日本企業襲撃事件、日本人暴行殺人事件など日本排除の動きが相次ぐ中、満洲の現地民衆も秩序の悪化に苦しめられてゐたのである。

また北からは、日露戦争(明治三十七年= 一九〇四~明治三十八年)に余力を残して敗れたロシアが、共産革命後もなほ日本に対する復讐の念を秘め、虎視眈々と満洲攻略の機会を窺つてゐた。

このやうな状況下、石原中佐は

今こそ充分なる準備と覚悟を要するも、満蒙問題の解決を図らねばならない。これは日本のためのみならず、支那民衆のためにも最も喜ぶべきことであり、歴史的に見ても満蒙は漢民族よりむしろ日本民族に属すべきものなり(石原莞爾中佐「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」『満洲建国の大義』)
と述べ、満洲を軍事占領し、新国家を建国する決意を固めた。

満洲の帰属問題については、当時も、多くの研究論文が出されてゐた(注2)。また、平泉澄博士は「満洲はもともと中国の境域外の異民族でありその文化は低く、その風俗は卑しい地」(『日本の悲劇と理想』)であつたことは、日露戦争後の満洲の人口の推移をみれば 一目瞭然であると指摘されてゐる。それによれば、

明治以前に一千万未満
明治に一千万台
大正に二千万台
昭和十五年に四千四百五十七万人
と推移し、その理由を
明治三十七年、八年の戦役(日露戦争)によつて 当然譲渡せられたる租借地、鉄道及びその付属地 を中心として日本が満洲に進出し、その武力は治 安を維持するに十分であり、その産業の開発は移 民を誘致する魅力に満ちてゐた為に他ならぬと考 へられます。(同書)
と指摘されてゐる。

石原中佐が、「満蒙は日本民族に属すものなり」と述べたのは、満洲が歴史上一度も漢民族の土地だつたことはなく、日本人によつて拓かれた地であることを意味するのである。

この満洲国の建国の構想は、石原中佐が昭和三年(一九二八)、満洲に関東軍作戦主任参謀として赴任後につくられたと思はれるが、石原中佐にとつて幸ひだつたことは、漢口(現在の武漢)で一年間苦楽をともにし、既に肝胆相照らす仲であつた板垣征四郎大佐が、関東軍高級参謀として時をほぼ同じくして満洲に赴任してきたことである。

前回言及した江戸時代の儒者佐善雪渓(さぜんせっけい)は、「仁者」のことを「寛大長厚」(心が広く、慈悲深い)なる人物だと形容したが、まさに板垣高級参謀は仁者の風格を備へた人物であつた。智謀湧くが如き石原参謀と、卓越した統率力を持つた板垣高級参謀は、満洲を統一し、国家建設に寄与した双璧(そうへき)だつたのである。


兵士の心に入る「愛」と「信」

入念な準備の末、まづ二人が行つたのは、関東軍の自作自演と言はれる奉天郊外の柳条湖で満鉄線路の爆破事件(柳条湖事件、昭和六年= 一九三一)であつた。

政府は、事件の不拡大方針を伝へて来たが、二人はそれを無視して粛々と軍を進めて行く。前回論じた南京事件の時は、政府の訓令に従つて日本海軍は「義を見て為さざるまま」逃げたが、「士道」が確立してゐた二人にとつて、「義を為す」時は今をおいて他にはないと決断したのである。

結果は僅か二か月で一万の兵を以て張学良軍二十三万人を駆逐し、長春、吉林、チチハルの満洲要部を制圧したが、兵士の一人一人が石原参謀と板垣高級参謀の意図をよく理解し、民衆も関東軍を支持してゐたからこそ、成し遂げることが出来た快挙だつたのである。

一軍を率ゐる将軍にとつて戦略、戦術が優れてゐる事はもちろん大切であるが、それ以上にその将軍の高邁な理想を一人一人の兵士がよく理解し、将軍からの愛を受けて生じる絶対の信頼感こそが大切であることは、古今東西の英雄の軍事行動(注3)を見れば明らかである。

例へば、日露戦争時、乃木希典将軍が率ゐた第三軍の兵士が、難攻不落のロシアの旅順要塞を多くの犠牲を伴ひながらも攻略できたのは、その典型的な事例である。

ちなみに石原中佐が東京の陸軍士官学校の学生だつた頃、乃木大将の私邸を訪問したが、大将が静子夫人とともに温かく迎へて下さつたことを石原中佐は生涯の思ひ出として忘れることはなかつた。

人間にはたとへそれが、一瞬の出会ひであつたとしても、その後の人生を決定づける運命的出会ひといふものがある。石原青年にとつて、乃木大将との出会ひがそれである。

彼がその時受けた感銘は、次の乃木大将の和歌から推測できる。すなはち、

武士(もののふ)の 剣(つるぎ)の光 曇らずば
  世に まがつひの 荒まじものを

「まがつひ」とは凶事や災悪のことであるが、もともと「武」には「止める」といふ字が含まれてゐることからもわかるやうに、剣には世の中の乱れを止め、天の怒りを鎮めて災害を防ぐ力がある。

かくして乃木大将から「武士の魂」を直接受け入れた石原青年は、後に満洲の平定を躊躇なく行ひ、満洲国はその後も順調に発展を遂げて、人口も昭和二十年、日本の大東亜戦争敗戦時の推定人口は五千万人に達する勢ひであつた。

この著しい発展は、満洲国はゆくゆくは日本の庇護を離れて独り立ちするべきだといふ二人の理想を、一般住民が理解してゐたから可能だつたに違ひない。

その理想がいかに高邁かつ純粋であつたかは、二人の信念に基づいて創立された建国大学の設立趣旨を見れば明らかである。昭和十三年(一九三八)に開学された建国大学では、全寮制、学費免除といふこともあつて、六十倍を超える競争率を突破した五族の俊英が寝食を共にして学んだ。そして学長の人選は板垣高級参謀自らが行ひ、以前から見識の高さと学問の深さで尊敬してゐた平泉澄博士を迎へようとした。建国大学の建学の趣旨は現地人の中から国家の柱石を担ふ愛国者を育成することにあつたことを明らかにしてゐる。

ただし、博士のご都合で平泉学長は実現しなかつたが、その他の協力は惜しまれなかつたといふ。

そしてさらに石原少佐の発案により、「図書館も併設され、内地では禁書扱ひであつたマルクスや共産主義に関する書物を含め、約十五万冊が配架された」(『満洲国の大義』)といふから、その建学の理想の遠大なることがわかる。

歴史に「もし」は無意味かも知れないが、仮に日本が支那との全面戦争に踏み込むことがなかつたならば、満洲国は日本の友好国として今も存続し、石原莞爾中将(最終階級)と板垣征四郎大将(同)は建国の英雄として人々に崇敬され続けてゐたに相違ない。

だが、現在では東京裁判史観の影響を受け、満洲事変は関東軍の侵略的軍事行動と見做され、大東亜戦争へと繋がる「十五年戦争」の始まりといふ見方もある。そして、現代における二人の評価は政府の方針に反し、謀略を以て満洲を侵略した関東軍の高級将校となつてしまつた。しかし、二人は間違ひなく満洲に秩序と繁栄をもたらした英雄であり、当時、満洲で歯科医を営んでゐた小澤開作氏は、満洲国建国の翌年に生まれた我が子に板垣征四郎少将(当時)と石原莞爾大佐(同)の名前から一字づつをもらつて、「征爾」と名づけたことからも、それはわかる。その言霊(ことだま)の威力は絶大であり、小澤征爾氏が不世出の世界的指揮者として音楽史にその名を留めたことは、誰もが知るところである。

映像に残る躍動感あふれる小澤氏の指揮によつて生み出される緩急自在の壮大なベートーヴェンは、二人の「英雄」の高邁な「志」と行動する「勇気」を今に伝へてゐる。


冴えわたる「危険の感覚」

満洲国が建国された後、日本政府は石原中佐、板垣大佐の行為を黙認し、軍は二人の功を認めて石原中佐は大佐へ板垣大佐は少将へとそれぞれ昇進させたが、石原大佐は自ら願ひ出て日本に帰国した。激動する国際情勢の中で迷走を続ける日本の行く末を案じてのことに相違ない。

その後、石原大佐は武官としてジュネーブに駐在し、世界情勢の知見を広めて帰国後、昭和十二年(一九三七)三月に参謀本部作戦部長の要職に就くが、それを待ちかねてゐたかのやうに支那大陸で次々と日支間の軍事的緊張が高まつて行く。まづ、この年の七月、盧溝橋で軍事衝突が起き、それから小競り合ひが続くが、間もなくそれは上海に飛び火し、日本にとつて運命の分かれ目とも言ふべき第二次上海事変が勃発するのである。

盧溝橋事件以降、第二次上海事変まですべての事件は、コミンテルンの支部である中国共産党と蒋介石が手を結び(第二次国共合作)日本軍を挑発して起きた事件であることは、現在ではほぼ明らかになつてゐる。これらの挑発に乗れば、その先にはより大きな「危険」があることを察知してゐた石原作戦部長は、ひたすら忍従と不拡大を主張した。

しかし、陸海軍全体の雰囲気は、仕掛けられた戦ひを黙つて引き下がるのは武士の名折れだ、と言はんばかりに主戦論に傾きつつあつた。石原作戦部長は最後の手段として、当時は不拡大方針で一致してゐた近衛首相と蒋介石のトップ会談を企画し、自らも近衛首相に随行して、日支間の問題を一挙に解決しようと飛行機の手配まで行つた。ところが、近衛首相は蒋介石には和平の気がないとして、直前に会談をキャンセルしてしまつたのである。

その時、石原作戦部長は、    皇恩を辱(かたじけの)うして、この危機に際して優柔不断とは、将来日本を滅ぼすのは近衛である。(『満洲建国の大義』) と述べたといふ。前回引用した執行草舟氏の「他人の評価を気にかけてゐる者に跳ぶことはできない」(「見る前に跳べ」、『友よ』より)といふ言葉通り、絶対精神が確立してゐた石原作戦部長にとつては、首相にどう評価されようが、微動だにしない信念を述べ、実行するだけであつたが、この性格があだとなつて多くの敵をつくることになるが、特に後の東条首相と激しく対立したことは有名である。

この亡国の入口となつた盧溝橋事件以後、第二次上海事件までの石原作戦部長と陸海軍の主戦派との「危険の感覚」の違ひによる意見の対立が頻繁に起こる。真実が見えてゐた石原作戦部長が敗北したのは、他人の評価を全く気にかけないで自論を主張する態度を不遜と捉へられてしまつたことも、その理由としてあるに違ひない。三島氏がさうであつたやうに絶対精神を確立した人間は、常に孤独を覚悟しなければならないのである。

結局、第二次上海事変では、石原作戦部長の猛反対にもかかはらず、陸海軍は居留民保護を目的として艦隊と軍隊の派遣を決定してしまつた。 主戦派筆頭の米内海軍大臣は、世論の支持を受け、上海の日本人居留民二万三千人の生命と財産を保護することを最優先とする決定を行つた。

その決定に対して石原作戦部長は、上海の在留邦人が危険なら、全員引き揚げたらよい。損害は一億円でも、二億円でも、補償してやればよい。戦争するより安くつく。(同書)と述べた。

が、この石原作戦部長の絶叫に耳を傾ける人はなく、日本は支那との全面戦争へと引き込まれて行つた。

ちなみに大東亜戦争終結の前年には、上海の日本人居留民の人口は十万人に上つてゐたといふから、いかに一般日本人の「危険の感覚」も希薄であつたかがわかる。


終はりを慎む  ここまで盧溝橋事件以降、第二次上海事変に至るまでの日中の軍事衝突とその対処をめぐつて、石原作戦部長と陸海軍の主戦派との「危険の感覚」の違ひによる激しい意見対立をみてきたが、この点に関して別の角度からの考察を加へてみたい。

論語に「終はりを慎む」(学而篇)といふ言葉がある。この言葉は、一般には親が亡くなつた時には葬儀をきちんと行ふことが、子の務めであると解釈されてゐるが、江戸時代中期の儒者伊藤仁斎は、 世の道を知らざる者、目前の近効を速(すみやか)にして終はりを慎むを忽(ゆるがせ) にす。(『論語古義』) と言つて(学問の無い人は)「目先の効にとらはれて終はりを疎かにしてしまふ」と解釈してゐるのであるが、この言葉は第二次上海事変の時に主戦派がとつた行動に当てはめてみるとわかり易い。

つまり、主戦派は居留民保護といふ目先の「効」と他人からの評価に捉はれて、その先に横たはる危険を察知できなくなつてしまつたのである。

一方、世界の軍事史をはじめ歴史、哲学、文学を広く学んでゐた石原作戦部長は、国土の広い支那との全面戦争になれば、ナポレオンのロシア遠征の時のやうに容易に兵站(へいたん)線を切られてしまう危険性があることを理解してゐた。さうなれば、戦ひは泥沼化することは必至であり、その上、以前から蒋介石を支援し、揚子江沿岸に利権をもつ米英との対立は激化し、最終的に「消耗戦争」(注4)になる危険性を予測してゐたのである。

この石原作戦部長の「終はりを慎むを忽(ゆるが)せにせず」といふ信念こそ、江戸時代の武士の「士道」精神の根幹にあるもの、つまり心身の鍛錬を積んで「士道」を身に付ける中で自然に身に付いて行く感覚に相違ない。

その例は一つに薩摩が英国と戦つた薩英戦争(文久三年=一八六三)の薩摩武士の中に、もう一つは馬関戦争(元治元年=一八六四)で列強四か国(英、仏、蘭、米)と戦つた長州の高杉晋作に見ることができる。

薩英戦争の時の小松帯刀、大久保一蔵(後の利通)を始めとした薩摩武士が、鹿児島の街を焼かれて相手の実力を悟るや、即時停戦交渉に持ち込んだ英断は実に見事であつた。賠償金は支払つたものの生麦事件で英国人を殺害した実行犯の引き渡し要求は断固拒否、しかも英国から最新式銃の購入の約束を取り付け、敵対した英国との関係を百八十度転回させたのである。

ちなみに、維新後、大久保利通は「戦争といふものは準備が大切だが、その準備の中には講和への道筋を立てることを含む」と語つた。果たして上海事変の時、最初に派兵を決断した陸海軍首脳部に、いつたん戦端を開いた後、どのやうにして講和に持ち込むかその策はあつたのだらうか。

また、これに関連して言へば、後年の真珠湾攻撃に踏み切つた山本五十六連合艦隊司令長官は、太平洋の制海権を獲得後、講和に持ち込む考へがあつたと言はれてゐるが、それがうまく行かなかつた時の策は果たしてあつたのだらうか。事実は、勝てる筈のミッドウエー海戦で大敗北を喫し、早期講和のシナリオは崩れズルズルと戦ひを続けて行く。

次に、攘夷を実行するために長州藩が四か国連合に砲撃を加へた馬関戦争の例を見てみたい。

四か国連合軍の反撃に遭つて砲台を占拠されてしまつた長州藩は相手の実力を瞬時に悟り、停戦交渉に持ち込んだが、長州藩代表の高杉晋作の機略と勇気もまた見事であつた。

しかも高杉の交渉した相手は薩摩同様、ヴィクトリア朝の最盛期に世界を席巻した英国人であつたことを忘れてはならない。特に英国側が長州に要求する彦島の租借要求を高杉が見事にはね付け、交渉相手のアーネスト・サトー卿をして「(高杉は)魔王の如き威厳があつた」と感嘆せしめたが、高杉晋作は外交官としても世界に通用する卓越した能力を備へてゐたのである。

れらのことから考へても、江戸武士と昭和のエリートの間には、平時から鋭い「危険の感覚」を保ち、有事の際の優れた判断力と外交力の発揮することにおいて、歴然とした差があることに気が付くのである。これこそ三島氏が述べた明治文明開化、大正デモクラシーを経た日本人が、「士道精神」を徐々に失つてきたことを物語るものに相違ないのである。


武家の教育の伝統

この石原中将と板垣大将、そして江戸時代の武士に共通する「天下の大乱、人倫の至変に至りて謬戻(びゅうれい)なき」判断と行動ができるのは「専ら学問・思辨の益」(『講孟劄記』、尽心上篇、第五章)だと松陰先生は述べてをられる。

では一体この二人の学問がどのやうなものであつたかと言へば、それは、二人の驚くほど似た生ひ立ちからの経歴の中に見ることができる。

すなはち、石原中将は庄内藩(現在の山形県)、板垣大将は南部藩(現在の岩手県)、ともに東北の生まれであり、石原中将の父親、板垣大将の祖父はそれぞれ藩に仕へる漢学者であつたことである。板垣大将の祖父は藩主にご進講をするほどの学者であつたが、維新後は私塾を開いて近隣の若者たちに儒学を講じ、板垣少年も毎朝四時から始まる祖父の私塾で「四書五経」を学んだといふ。また、二人は仙台幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学と学んだ学歴も全く同じであつた。(注5)

三島氏は古今東西の英雄の条件を古代ギリシャの英雄)アレキサンダーを例に、もし英雄が肉体的概念であるとすれば、あたかもアレキサンダー大王がアキレスを模して英雄になつたやうに、独創性の禁止と古典的範例への忠実が英雄の条件である。(『太陽と鉄』) と述べてゐるやうに、二人とも少年のころから陸軍学校で「武」を鍛錬、独学で古典を学んだことも共通してゐる。その学んだ古典の内容はそれぞれ異なるが、板垣大将は儒学や漢学を中心とした江戸期の武士が学んだ伝統的な学問であり、石原中将は洋の東西を問はず、歴史、特に欧州の軍事史や哲学、宗教と幅広い分野の学問だつたが、いづれも「独創性の禁止と古典的規範への忠実」といふ「英雄」の学び方を踏んでゐる。

かくて二人の英雄は江戸時代の武士の教育によつてつくられたと言つて良いが、三島氏が幼少期に祖母夏子から受けた養育もまた武家の伝統に則つたものであつた。それが三島氏が絶対精神を体現して行く上で大きく寄与したのだが、次回は祖母夏子の養育とはどんなものであつたかを中心に見て行く。


注1  「五族協和」「王道楽土」:石原莞爾、板垣征四郎の二人には漢民族、満洲民族、朝鮮民族、モンゴル民族、そして日本人の五族が協和し、ゆくゆくは満洲国は日本の保護から離れて独立させようといふ理想があつた。
注2  満洲国の主権:アメリカのジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・リーは一九三〇年代に満洲の主権は漢民族国家の中華民国にはないことを論評している(『満洲国建国の正統性を弁護する』田中秀雄訳、草思社)。
注3  英雄の軍事行動:三島氏の為ならば生命を投げ出しても良いと思ふほどに「楯の会」の会員は三島氏を信頼した。その根底には三島氏の「愛」があつたことは間違ひない。
注4  消耗戦争:第一次世界大戦より前の戦争は紛争解決の手段として一度の決戦で勝敗を決するやり方が一般的。ところが、それ以降は国が亡ぶまで戦ふ消耗戦争が一般的になった。日本は消耗戦争をしてはならないといふ信念が、石原大佐にはあった。
注5  石原莞爾と板垣征四郎の幼少期のことは『板垣征四郎と石原莞爾』(福井雄三氏著、PHP研究所)による。