『日本』令和2年12月号

 令和二年を汚染した武漢コロナウイルス ― 中国共産党の黄昏か ―

永江太郎 /(一財) 日本学協会理事


令和二年を回顧すると、正に武漢発のコロナウイルスに翻弄され悩まされた一年でした。

そのため、本誌の「今月の課題」でも、五月号の廣瀬誠氏を皮切りに葛城奈海氏(七月号)、夏秋正文氏(九月号)、今岡日出紀氏(十月号)に、それぞれの視点で論じて頂いたので、屋上屋を重ねることになりますが、別の視点で拙論を述べさせて頂きたいと思います。


武漢で発生した新型コロナウイルスは、中国政府の初期対応と情報公開の遅れで世界中に蔓延した。その猖獗(しょうけつ)は凄まじく、世界の感染者は十月末に四千五百万人に達し、死者も百十九万人を超えた。一番多いのは米国で感染者は九百万人を超え、インドが約八百万人、ブラジルが約五百五十万人、欧州ではロシアが最も多く百六十万人を超えている。これらの多くの国々がロックダウンや法令・罰金で対処している中で、日本だけは自粛で切り抜けようとしている。その成果も顕著で感染者は十万人程度である。外国ではPCR検査の少なさを指摘するマスコミもあるが、死者の数は正直である。世界の死者は約百二十万人、最も多いのは米国の二十三万人、次いでブラジルが十六万人台、インドが十二万人と続いている中で、日本だけは二千人に達していない。桁が違う。これは日本人の国民性を信じた安倍政権の時代に、「自粛」ができると判断し、日本国民がその期待に応えた結果であり、世界に誇る日本の文化伝統の力である。敗戦後既に七十五年、戦後体制の中で失われたと思われた日本の長所が、東日本大震災などに続いて今回も発揮されたと見るべきであろう。

一方、各国の問題点も露呈した。米国では、新型コロナウイルスの発生を隠蔽して被害を世界に拡散させたと中国を非難しているトランプ大統領が、防疫や死者の増加よりも経済問題を優先している。これが大統領選挙を意識したものであるとすれば本末転倒であろう。しかも大統領自身が罹患した。

しかし、一番の問題は中国である。新型コロナウイルス発生の地が武漢である事実は隠せないと悟った中国は、責任追及の国際世論を回避するため、友好国や低開発国への懐柔を強めて、マスクなどの衛生材料の寄贈や医師の派遣で味方にしようとした。そのため、中国国民が優先であるとの名目で、中国にある日本企業の工場からマスクなどを接収してイタリアやアフリカなどに贈っている。このような中国政府の国内事情による日本資産の接収は、戦争行為としての経済制裁よりもたちが悪い。資産凍結は資産を凍結するだけで、事態が収拾されると返還されるが、接収は代金を払わない没収・収奪であり、資産凍結よりも悪質である。武漢のコロナ禍は、中国の国内問題である。マスクが欲しければ日本の工場から買えば良い。日本政府は、このような無法を許してはならない。

中国に進出している日本の工場は人質同然であると本誌で度々警告したが、今回の接収で、中国は国内にある日本の工場は全て中国のものであり、いつでも接収できると考えている事が判明した。


総力戦から総合戦の時代になった現在の戦争には、武力戦だけでなく経済戦争や国際世論を有利にする宣伝戦や心理戦などが含まれるが、新たに衛生戦争を加えなければなるまい。武漢コロナウイルスへの対応をめぐる中国の対外政策は、一帯一路の経済戦争を含めて正に総合戦の様相を呈しているからである。

そこで、今回のコロナ紛争を衛生戦争という視点で観察してみたい。中国科学院の武漢ウイルス研究所からのウイルス流出説が出ると、中国は当初、米国の軍人が持ち込んだとの噂を流していたが、無理だとわかると、二月二十日の外務省記者会見で、武漢ウイルス研究所からの流出を追求された耿爽報道官が否定し、その後で武漢ウイルス研究所の関係者に釈明をさせた。純粋に医学上の問題であれば、ウイルス研究所の所長や副所長、或いは研究部長という責任ある立場の人が会見すべきである。なぜ一研究員だったのか。これでは疑惑が深まるばかりであろう。

もう二十五年の昔になるが、国際軍事史学会などで中国の人民解放軍の幹部将校と交流する機会が何度かあった。詳細は学会誌『軍事史学』で発表したが、当時彼らが熱心に調査していたのは、湾岸戦争と『孫子』などの古代の戦史と兵学であった。湾岸戦争からは、最新の軍事技術と運用を学び、古代戦史からは合従連衡(がっしょうれんこう)などの術策と謀略の限りを尽くした中国の戦史を学んでいた。世界の覇権を考える中国の指導者が、武漢の新型コロナウイルスの発生を「肉を切らせて骨を断つ」絶好の機会と見なしたとしても不思議ではない。

この謀略という視点で、中国のコロナ紛争への対応を見ると、新たに見えてくるものがある。一月二十三日の武漢のロックダウンの時には、感染者は十万人を超え死者は五千人に達するとされていたのが、公式発表で十万人は超えないと発表されると、今では中国の感染者は八万人台である。中国政府は沈静化と「宣伝」しているが、中国に厳しい立場の米国と欧州、アジアでも中国と対立するインドには被害が集中している。

第一波と現在の第二波がとりあえず収束したとしても、いち早く立ち直った中国とは逆に、米国などの人的・経済的被害は甚大である。そこには意図したものかどうかは莵も角、中国人は昔から敵を欺き騙して勝つことを自慢にし、誇りとしてきた民族である。我々日本人には思いも付かない事であるが、中国人であれば、目的のためには手段を選ばず、コロナ禍を利用したとしても不思議ではない。

その証拠に西太平洋における米軍の軍事的脅威が減退していると判断した中国は、早速尖閣諸島と南シナ海での挑発行為を始めている。中国公船による尖閣諸島の領海侵犯も彼らにとっては自国の領海への立ち入りの積りではあるまいか。海警局の艦艇活動によって国連や海外のマスコミに中国領海の印象を与えて、国際的に周知・認知させるため、既成事実を積み重ねているのであろう。中国の領海侵犯が実効支配の第一歩であることは、西沙諸島や南沙諸島の実例が証明している。日本政府も単なる抗議だけでは、馬の耳に念仏の中国政府に領海侵犯を許していると誤解されても仕方がない。

日本だけで中国の尖閣侵犯に対応できない以上、国際世論を味方にする以外にない。国際司法裁判所への提訴を毎年繰り返して、中国が同意しないのは逃げていると国連総会や国際マスコミに宣伝すればば良い。諦めず忍耐強く毎年続けることに意味がある。


我が国の当面の国家戦略としては、世界平和のためにも中国の世界支配の野望を打ちくだく事であろう。中国の武力を伴う強引な外交には、戦狼外交の異名があるが、超強気の背景には、中華大帝国の建設という国内向けの大義名分と強力になった経済力と軍事力がある。同時に恐れているのは、ここで弱気になれば中国共産党の正当性の権威が失墜して、民心が離反する事であろう。武漢コロナの感染隠蔽も情報統制も勝利宣言もこれまでの反日政策も「共産党に誤りなし」の虚名を守るためで、特に香港問題やウイグルなどの強制収容所における異常な対応は、これを民心離反の前兆と判断して、過敏に反応しているのではないか。もしそうであれば、中国共産党の黄昏(たそがれ)は案外近いのかも知れない、問題は人民解放軍の動向であろう。