『日本』令和2年9月号
新型コロナウイルスの世界的蔓延と日本の対応
夏秋正文 /元佐賀大学医学部助教授
中国の武漢を源とする新型コロナウイルスの発生は、急速に世界的流行となり、甚大な健康被害と世界経済の不況停滞を招き、新型ウイルス対策が、世界の知恵を結集すべき緊急課題となっている。医療上のウイルス緊急対策と経済上の不況緊急対策を同時並行的に進めることが求められ、諸外国では入国制限や都市封鎖が断行されたが、その効果も限定的であり、米国、英国、ブラジル、ロシアをはじめ多数の国々で人々がウイルスの犠牲となった。日本はクルーズ船における対応において国際的批判を浴びたが、その後のウイルスによる発症者と死者数が相対的に少なく、日本ではどの様な対策がとられたか、国際的に注目されている。過去に蔓延した新型ウイルスや感染症の特徴を考察し、現在の日本の感染症対策につき、これまでの問題点と課題を究明して行きたい。
一 世界的疫病の流行の歴史的考察
過去の世界的に流行した感染症のうち、死者が最も多かった一九一八年発生のスペイン風邪では、世界で二千万人から五千万人の死者が発生し、新型ウイルス感染症が世界的規模で蔓延した。この時のウイルスはA型インフルエンザと言われ、世界の流行は第一波、第二波、第三波の発生があり、第二、第三波に犠牲者が多かった。日本でも第一波の死者は少なく、第二波、第三波の流行により計約三十八万人の死者が発生した。当時はワクチンの開発も少なく、感染することにより集団免疫を獲得する方法と、患者の隔離を厳格にする方法しか対策がなかった。ウイルスは変異してゆくため、第一波の収束後も第二波、第三波に警戒が必要となる。今回の新型コロナは、まだ第一波が収束しておらず、さらに米国、ブラジル、ロシアなどでは蔓延しており、第二波、第三波に備えた感染対策が必要となる。
日本のかつての検疫事業では、日清戦争後の汚染対策が注目される。日清戦争で凱旋帰国した兵士は、コレラ、マラリア、ペスト、アメーバ赤痢等に罹患しており、感染診断を下し隔離する事が、国内感染の蔓延を予防する上で、重要な事業となった。陸軍次官の児玉源太郎は、医師の後藤新平を抜擢し、兵士を日本の三つの離島に隔離し、消毒を徹底させた。隔離対策の成功は、国際的にも評価を受けた。
さらに明治、大正、昭和時代では肺結核が国民病として、死亡率が最も高く、結核療養所などの感染隔離施設が、国の施設として全国に設置されて行った。スペイン風邪流行時と大東亜戦争終戦時には日本の結核死亡率は高く、免疫力の低下と栄養障害が結核罹患の主因と考えられ、今回の新型ウイルス対策としても免疫力の改善が求められる。日本および先進諸国では、結核の流行が激減したため、平時に準備した一般感染用隔離施設がなく、PCR陽性者や重症者の入所施設、病床が足りない状態にある。各病院においては入院隔離用病室が急遽設置されたが、感染症の蔓延に対応できる隔離病室の不足が露呈された。新型感染症対策は、国の命運を左右する国家的事業として、平時の備えが必要となる。
二 新型コロナウイルスの特徴
今回のウイルスは、以前と異なる特徴を有しており、ウイルスに罹患した無症状の人にも潜伏期間において感染力を示し、症状のない潜伏期においても隔離する必要が出てくる。このため、発症前に国民の大多数にPCR検査を施行する必要があるが、現実的対応ができない。次善の策として、PCR検査をすべての風邪症状や発熱の患者あるいは一般入院の患者に施行することが勧められる。日本ではPCR検査の施行例が世界的比較において極めて少なく、今後増やすべきであるが、検査の精度にも問題がある。従って人と人との交流を避けることが唯一の予防対策であり、飛沫感染や接触感染を避けるために、生活一般活動や経済、文化、政治的活動を抑制することが求められる。特に世界的蔓延の時期では外国との交流を遮断する必要があり、かつて経験したことのない交易閉鎖社会状態が必要となる。東京五輪の開催も延期され、観光業界は壊滅的状態となっている。
医療の面では、免疫力の低下している療養中の患者や高度の肥満者に急激に重症化する例が多く、米国ニューヨーク州において人工呼吸器装着の必要な例が多く発生し、欧米の医療機関では重症患者が短期間に集中し、患者対応が間に合わず医療の崩壊を招いた。中国からの入国の禁止や都市封鎖を行っても市中への感染はすでに蔓延しており、ウイルスが変異するなど、感染防止対策が手遅れとなった。新型ウイルスに対する有効な治療法もない現状では、PCR検査を多数施行したとしても陽性例をどのように隔離すべきか、どのような患者を医療機関に早期に入院させるか予測できる客観的基準がなく、多くの国が対応に苦慮する結果となった。日本ではクラスター発生集団において重点的にPCR検査を施行して効率的とされてきたが、今後はPCR検査を増やし、感染者数を客観的に把握し、国民に提示することが求められる。
三 台湾の厳格な管理と日本の対応
台湾は、過去の新型ウイルスの経験から、中国からの入国を早期より禁止し、「武漢ウイルス特別措置法」を制定し、検疫での陽性対象者に休暇補償を施し、厳格な体制のもと隔離を行い、世界の中で感染者や死亡者の最も少ない国となっている。携帯機器により濃厚接触者の行動歴が監視され、罰則規定も中国、台湾、韓国では厳格に実施されている。今後は日本にも取り入れるべき方策と思われる。
日本では、専門家会議の提案に従い、緊急事態宣言が発令され、八割の外出自制自粛が求められ、感染者の減少など一定の効果が確認された。しかし、長期間の自粛は経済活動の破綻を招くため、緊急事態宣言は解除されたが、新規感染者が増えており、感染再燃が懸念されている。日本の外出自粛要請は、国民の理性的判断に委ねられており、法的拘束力はなく、感染爆発時にも対応できるか懸念材料となっている。ノーベル賞受賞者の山中伸弥教授らは、流行の早期より新型ウイルス対策が長期戦になることを覚悟すべきであると警鐘を鳴らし、マスク着用率や入浴習慣など衛生意識を高く保つ国民性が大切であることなど、ブログ上に発信されている(山中伸弥教授による新型コロナウイルス情報発信)。
四 日本の医療技術
今回の新型コロナウイルスは、左右同時に肺炎像を示し、急速に酸素飽和度の低下と急性呼吸不全を併発し、放置すれば死につながる。このような病態に対して、重症化する前の早い時期に、肺の代替機能を有する人工呼吸器や人工肺を使用すれば救命率が高まる。幸い日本の人工肺の開発の経緯は長く、世界へ供給できる実力を備えている。日本では重症例に人工肺を導入した患者の救命率は高い。
今回反省される点は、比較的軽症のPCR陽性者に、自宅待機中に急変し死亡者が出たことにある。PCR陽性者で自宅やホテルで自粛している人には、経皮的酸素飽和度の機器を提供し、重症化する前に病院へ連絡できる体制作りが必要とされる。仮に重症化しても早期に対応すれば、救命可能である。
五 第二波に備えた日本の課題
約百年前のスペイン風邪は、第二波、第三波に多くの死亡者が発生した。その経験を踏まえ、これからが本格的なウイルス対策が必要となる。PCR検査の体制が不十分であった日本においても検査可能数が拡充されつつあり、都市部ではPCR陽性者が増加している。陽性者には、積極的に利用できるホテル、病院、施設などの療養施設が整備される必要がある。仕事や事業を休業したときの補償を約束することにより、第二波の蔓延化を未然に防ぐとともに、オンライン経済活動を再開させて行くことも、感染防御と経済活動を両立させる道となり、経済財政破綻を回避できる方策と考えられる。新型感染症対策は、自粛生活など国民の自制力と、国家の高度の判断力と、国民の英知の結集が求められている。